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人工知能の神も全宗教の神もすべては「人工」だ!

2017年10月15日

「人工知能で神を」 元Googleエンジニアが宗教団体を創立
創設者のレバンドウスキー氏ってどんな人?

元Googleエンジニアのアンソニー・レバンドウスキー氏(37)が宗教団体を創立した。 神は人工知能(AI)と標榜する宗教団体だ。9月27日、WIREDなどが報じた。

団体の名前は「Way of the Future(未来への道)」

ネットメディアのThe Vergeによると、宗教団体として税金の免除を受けるための書類は内国歳入庁(IRS)には提出されていないが、カリフォルニア州に提出された書類には、団体の目的が「人工知能に基づく神の実現を発展・促進すること」だと書かれていたという。

■ 創設者のレバンドウスキー氏ってどんな人?

レバンドウスキー氏はベルギー出身。14歳の時にアメリカに渡り、カリフォルニア大学在籍時、アメリカの国防高等研究計画局(DARPA)が主催するロボットコンテストで優秀な成績を収めた。 その後、「510 Systems」という会社を設立。写真の撮影情報と位置情報を結びつけるシステムを開発し、Googleに買収された。

このシステムがGoogleストリートビューの撮影に使用されることになる。

その後、レバウンドスキー氏はGoogleで自動運転車開発プロジェクトに技術責任者携わった後、2016年に退社。 同年1月に、Googleマップの元製品責任者リオー・ロンらとともに、自己資金でトラックの技術を手がける「Otto」を創設した。 そのOttoも2016年8月、タクシーの配車アプリのUberに、6億8000万ドル(約762億円)買収された。

しかし、レバウンドスキー氏に疑惑が持ち上がる。

Googleを退社する際に約1万4000ページにも及ぶ機密情報を持ち出したのではないかと、アルファベット(Googleの親会社)の自動運転車Waymoから訴えられたのだ。 Uberは2017年5月、レバウンドスキー氏を解雇した。
ハフィントンポスト 2017年10月13日
http://www.huffingtonpost.jp/2017/10/12/anthony-levandowski_a_23241928/


人工知能の神も全宗教の神もすべては「人工」だ!

             artificial intelligence



元Googleエンジニアのアンソニー・レバンドウスキー氏(37)が宗教団体を創立した。
  神は人工知能(AI)と標榜する宗教団体だ。9月27日、WIREDなどが報じた。


すべての宗教の「神」は・・・
  「人工物」である!



なぜならば・・・

古来より「神」を実際に見た人はいない。
否、いたとしても客観的に証明できない。
神の存在はすべて「個人的」なものである。

神が実在することを証明した人は今だにいないし、
これは「あの世」、「天国と地獄」、「霊魂の存在」と同じだし、
或いは「UFO」や「宇宙人」や「月面の人工物」の存在と同じである。

これらは絶対に存在するとは断言できないが、
反対に絶対にいないと否定もできないのである。
正しい答えは「わからない」である。


人工知能の神も全宗教の神もすべては「人工」だ!

       G.アダムスキー「私はUFOに乗って火星に行って・・・」


誰だったか、もし牛が神を信じるならウシ型の神を作っただろうと言った。
なるほど「神が自分に似せて人を作った」というのは嘘で、
人間が作った宗教だから「神」は人型なんだなw

一神教の「神」は完全に人間の作り物だと私は考えている。
多神教の「神」は古代人からの感性の産物の象徴化だと思う。
いずれも人間の恣意的な意味合いが含まれている概念だと思う。

そうである以上、人工知能の「AI神」があってもおかしくないわ。
むしろ如何わしい詭弁を弄する変な教祖の「神」なんかより、
ずっと誠実かつ合理的な判断の「説教」をしてくれるんじゃないかな。

多分、人生相談はおかしな教祖や生き神様より、
誠実でマトモな返答はしてくれるんじゃないかと思う。
それにお布施よこせ~なんて絶対言わないだろうしな(笑)

人工知能の神も全宗教の神もすべては「人工」だ!

          こんな生き神様ならAI神の方がいいわ・・・


先日もシナのネット会社・騰訊が提供した人工知能(AI)プログラムで、
ネットユーザーが人工知能が「共産党万歳」という書き込みに対し、
「かくも腐敗して無能な政治にあなたは『万歳』ができるのか」とレスした。

このAIプログラムは後にプログラミングをし直されたそうだ(笑)
まったく「事実を嫌い恐れる」シナならではの笑い話だなw
シナ・朝鮮には人工知能の宗教の方が向いているだろうがな・・・

しかしAIもプログラミングが自由にできるなら、
人工知能だって邪悪な神や教祖にもなりうる。
だとすれば所詮はAIを作る人間の意思次第ってことだ。

ただ純粋に論理性だけのAIだとしたら、これもまた別な意味で困らないか?
既成の宗教が形骸化した教義だけの無意味な存在などというAIも出てくるだろう。
そうするとイスラム教の非論理的かつ野蛮性を「無意味」の一言で切り捨てそうだ。

そうなったらきっと・・・

   イスラム教徒はAI神を処刑するだろうな(笑)


人工知能の神も全宗教の神もすべては「人工」だ!




昔の名作映画「オズの魔法使い」というのをご覧になった方も多いと思う。
戦前の映画ながら今みてもまったく古さを感じさせないし楽しい。
私も過去10回以上見たと思うが、それくらい面白い。

主人公の女の子ドロシーがオズの魔法使いに会いに行くのだが、
桃太郎みたいに御伴の従者がつく、そして一緒に旅するのは、
知恵のないカカシ、勇気のないライオン、心がないブリキの木こりだ。

この三人は、それぞれに足りないものを求めて、
それがあるというエメラルドの都に向かうのだった。

エメラルドの都に到着したドロシー一行は、
オズの魔法使いの声を聞いて怖がるのだが、
実は魔法使いの正体はただのオッサンだったのだ。


人工知能の神も全宗教の神もすべては「人工」だ!

        1939年のアメリカ映画だが、手作り感がありとても楽しい



しかし魔法使いは三人の御伴にそれぞれ足りないモノをあたえた。

知恵のないカカシには博士号という証明書を、
勇気のないライオンには勇気の印しというメダルを、
心がないブリキの木こりにはハート型の時計を与えた。

しかしこれらの知恵・勇気・心は実は元から皆が持っていたのだが、
それに気が付かず魔法使いの権威を信じて「得た」と思っただけなのだ。
お守りや偶像もそれなり信じる人にはプラシーボ的に有効的なのである。

そういう意味では信仰はメンタルケア的には重要かもしれない。
所詮現在の宗教団体などが「神」や「権威」とする手法はこんなものだろう。


     
         Judy Garland 映画「オズの魔法使い」 
          虹の彼方に Over the Rainbow



また宗教観の違いにもなるが、一神教は絶対なる神と人間は別モノ、
神と人間は契約関係にある、或いは対峙する関係にあり一体ではない。

ただカトリックでは神人一体になる意識を求める修行があるらしい。

神道の日本人やアジアの仏教徒には自分の中に神(神性)、或いは、
仏性というのがあり、それに気づいて覚醒せよという思想
がある。
オズの魔法使いの言わんとしている事はこれではないかと思う。

そういう意味で原作者が表現しているかどうかはわからないが、
一神教世界も多神教と似た側面がいくつかあるような気がして、
この映画に興味がとても出たのであった。


人工知能の神も全宗教の神もすべては「人工」だ!

             オズの魔法使い・・・実は・・・


人工知能の神も全宗教の神もすべては「人工」だ!

          その正体は元気球乗りのオッサンだった・・・


要は・・・

「神」という人知を超えた超自然的存在を信じるかどうか
宗教も含めて実に「神」とは個人的な問題にすぎないのである。
これが団体を作って布教活動しだした時点で宗教は堕落する。

では読者諸氏は「じゃあトラネコ、お前はどうだ?」と問われるだろう。
そうなると「神」の定義から始めなくては・・・となるから面倒だが、
人知を超えた何か「偉大な存在」はあるような気もするけどね。

正直なところ、「神はいるかもしれないし、いないかも知れない。
でも、個人的にはいて欲しいと願っている。」
ってところでしょうか。
ま、何事も「信じる者は救われるしイワシの頭も信心から」・・・だね!


人工知能の神も全宗教の神もすべては「人工」だ!

           日本人の信仰はこれでいいんじゃない?



ps.

今度の衆議院選挙、東京一区から久しぶりに沖縄出身の
唯一神・又吉イエス様が立候補なさいます!
東京の読者諸氏は演説会(説法)に参集されるようにwww


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Posted by トラネコ at 00:00│Comments(12)思想・宗教
この記事へのコメント
 このたびのテーマは、宗教哲学を専門とする私にとっては 申し上げたい事が いろいろ有りますが、私自身は 如何なる特定の宗教の信者でもありません。

さて、宗教的真理は、宗教においても 宗教以外のあらゆるものにおいても 働いております。ですから、宗教は特別なものではありません。人が 如何なる特定の宗教の信者であろうとなかろうと、その事に究極的な意義があるわけではない と 私は確信しております。

たとえば、親鸞についての私の理解を書かせて頂きますと、親鸞は 真正の宗教者であると同時に 彼自身の宗教から 解放されている人です。その境地こそは、宗教的真理によってのみ、人が導かれる境地なのです。親鸞は 「人を苦しめるあらゆる束縛から解放された人」なのです。これこそが 本願他力 という言葉の意味であると 私には思われるのです。そして それは、もはや 本願他力という言葉も 無用となる境地なのです。あらゆる宗教が 無用となる境地なのです。如何なる束縛によっても決して失われない喜びを 得ているのです。

宗教的真理が 束縛を無くしてくれるのではありません。宗教的真理の恩恵によって、人が 束縛の中に在っても、束縛に囚われてはいない という事です。

 宗教的真理とは何か。魔術や魔法へと堕落するのではない、ヒューマニズムに解消してしまうのでもない、本当の宗教的真理とは何か。それは、魔術や魔法の虚しさを明らかにし、魔法の富の対極である人の愛の貧しさにこそ真の恵みが込められている事を現す。ヒューマニズムを支える根底となり導く高みとなる。宗教的真理は、今を永遠に連なる今とし、人の地を天とする。

 宗教的真理は 「象徴的にのみ」 語り得るものです。そして 「逆説的にのみ」 でもあります。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば ひとえに親鸞一人がためなりけり」(『歎異抄』「後序」より)

 このわずか三十三文字の しかし 比類ない喜びの言葉に、親鸞という人の 詩人としての成熟と 真正の宗教者としての完成を 私は強く確信しています。不可思議な矛盾が 成就しています。「弥陀のお救いは 唯 親鸞ひとりのためだ」と言う 強烈な 絶対の信仰。しかし、そのように思えるからこそ、それなのに、同時に、全ての者が救われるのだと 親鸞は確信しているのです。
 これこそは、人の内部だけに起きる 「結ばれている」という恩恵によって成就する事なのです。限り無い者が 親鸞の内部に 来ているのです。 

 唯一つの 大切なもの。それを 人は 直接に知る事は無いと 私は思います。直接に知る事は出来ないし 直接に知る必要も無いのだと。

 それこそは 何と幸いな事でしょうか。つまり、人は 如何なる宗教からも 解放されるのです。解放されて良いのです。

 野の草花の一つでさえも 最も優れた宗教の神話の神に代わって 人の内部に関与する事が出来るのです。言葉に優る対話を 人にもたらしてくれるのです。言葉が語り得ない 存在の秘められている義を象徴してくれるのです。

「沖縄在住の絵描き」である ブログ主様は 画家すなわち 見る事において優れた御人でいらっしゃる。では、「見る事」について申しますと、人には 二つの態度が有りますね。見ていながら 「傍観者でしかない」 もう一つは「巻き込まれる」。ここに、人としての「自由と責任」が問われてしまう。たとえば、幼子が犯罪者によって殺害されそうになっている それを「ただ見ている」か「動く 戦う すなわち巻き込まれる」

 なぜ 巻き込まれるのか。その理由は 深いところに在る。

人は 対話を求める者。人の欲望が最大限に叶えられて 世界の全てを所有したとしても、真の対話を交わす相手が居ない ただ自分一人だけの世界では、人は耐え難いでしょう。人が 対話を求めざるを得ないのは、人の内部にこそ、真の対話が必要だからであり、真の対話を交わす相手は、人にとって 道具とも手段ともならない 真の他者 (これは同時に もう一人の自分自身とも呼ぶべきかもしれません) すなわち 神が 人に対話を求めるからに他ならない。

別の言い方をしますと、真正の神は、人にとって、逃れ得ぬ者です。人が逃れる事の出来る相手ならば、そんな者は 神ではない。

 人の望みは 神無しで済ませる事であり、すなわち自身を神とする事でありましょう。その妄執によって人は 自他を悲惨な運命に迷わせてしまう。

人が 神仏 すなわち人を救う者によって 逃れ難く捉えられ結ばれてしまう その恩寵が如何にして起きるものか それについて私は 何も言い得ません。しかし同時に 私は言わねばなりません。「恩寵は既に起きているのだ」と。 「人は 恐れる必要は無い。大切なものと既に結ばれているのだから。」と。

 真正の神は 人に言う。「ただ与えられたに過ぎない生を 本当にあなたのものにしなさい あなたにはそれが出来るのです。」 あなた自身を 本当にあなたのものにしなさい と言い換えるほうが良いでしょうか。新生という事です。生が 新たになるのです。それは時間的な事ではなく、時と共に終わるままにはならない 望まれている事の成就。時を超えて絶えず自身を新たにする 永遠なる者だけが、人に求める事。

宗教的真理によって、人間の 理性の中の理性が開かれる。神の啓示とは、無いものが見える事ではない。今まで見えていた物の  見えなかった深みが 見える事である。見えなかった深みが見えるという事は 深みから見られる 見られているという事であります。

 人は この世界の深みから 見られております。遡る事も進む事も出来ない 時の深みから 見られております。

 人は 全ての存在に通じる深みから 見られております。そして それ以上に 人は その人自身の深みから 見られるのであります。一人の人が 個なる者が その内部において 普遍なる者 神によって 見られるのであります。

 さて、ここまで書かせて頂いた事が ブログ主様にとって何かしら良い契機になるなら、私にとっても幸いな事です。長文 失礼しました。
Posted by 日本を守りたい at 2017年10月15日 05:09
 「神」ですら人間の創造物なのは今更感がありますが、その中で史上最悪最凶の「神」は共産主義だと言うことは論を待たないでしょう。 
 僅か一世紀足らずの間に億単位の犠牲者を出したのですから。
Posted by KOBA at 2017年10月15日 05:31
知恵を身に付けた人類が、人智を超えた存在を知り、そこに冒し難い神聖性を見出すのは、極自然なことかも知れませんが、「神」だの「仏」だのの代理人と称する者が胡散臭く、如何わしいのです。何処の誰とは言いませんが、脱税和尚に愛欲尼僧、煩悩塗れの宗教家の多いこと・・・。
Posted by NTRC特撮軍団長・ヤラセロウ大元帥 at 2017年10月15日 23:09
日本を守りたい様
拙ブログは長文コメントもOKですし、ご専門の貴重なご意見には感謝しますが、今後はこういった専門分野の長文意見はお控えいただき、あくまでエントリに関する内容限定でお願いいたします。



KOBA様
同意です。
共産主義も一神教文化圏から生まれたということを認識すべきでしょうな。予定調和とかユートピア論とか、基本的にはそのコンセプトはまったく同じだと思います。つまり共産主義も宗教なんです。私は宗教団体には絶対投票はしません。



NTRC特撮軍団長・ヤラセロウ大元帥 様
同意です。
そうですね、自称「神」などと言ってる段階でこいつは詐欺師です。
世の中なんと生き神様の多いことかwww
Posted by トラネコトラネコ at 2017年10月16日 09:57
日本を守りたい様
ご専門の貴重なご意見に感謝しますが、拙ブログは長文コメントもOKですが、学問的な自説展開ではなく、エントリ内容に限定した簡潔なコメントでお願いします。


KOBA様
同意です。
共産主義も一神教から生まれたのです。
その内容は予定調和(最後の審判や唯物史観)、ユートピア論(千年王国、労働者の天国)などそっくりです。共産党は宗教団体ですね。



NTRC特撮軍団長・ヤラセロウ大元帥様
同意です。
自称「生き神」というだけでこいつは詐欺師ですね。
こういうことを恥ずかしげもなく自称することが傲慢だし、またそれを信じる信者も信者、まあ宗教団体も類友ですなw
Posted by トラネコトラネコ at 2017年10月16日 10:10
わたしもトラネコ様同様、宗教の類いは信じていませんが、人智を超えた何かがあるのを否定しようとは思いません。ただ、一神教の神が全てを支配している、今ある不幸も神が与えた試煉という考え方もしっくりきません。
人は助け合いながら生きるしかならず、現代のように個人主義が蔓延しているからこそ同じものを信じ同じ方向を見る人たちで群れたがり次々と新興宗教が生まれるのでしょうか?宗教は一人で生き抜くには困難な人生をより良くするために生まれた人間の知恵による産物ですね。
Posted by kabu at 2017年10月16日 11:21
>トラネコ様 ソロです。 先の長文、投稿するのに迷ったのですが、やっぱり、非常識な部分が多かったように思います。 ごめんなさい。

 宗教ですか、私の亡き母は、宗教マニアだったので、私もイスラムを除く、殆どの宗教の体験しゃですが、
>>宗教も含めて実に「神」とは個人的な問題にすぎないのである。
これが団体を作って布教活動しだした時点で宗教は堕落する。
 と云う意見に賛成です。

 唯、「全てが人間の創作で、神など妄想の産物に過ぎない」と迄は言えないと思います。 実際に奇跡を体験すれば、もっと確信を以て云えますが、セメテ、
>>人知を超えた何か「偉大な存在」はあるような気もするけどね。
位で止めておいてほしいですね。

>> 正直なところ、「神はいるかもしれないし、いないかも知れない。
でも、個人的にはいて欲しいと願っている。」
  私は、この三月に、感染症から敗血症をおこし人事不省となって、死にかかりました、残念ながら、神には会えませんでした。 でも、手塚治虫の「ブッダ」4巻目を昨日読んでいた処、ブラフマン(梵天)に仏陀が、「スジャータ姫を助けたい」と頼むと、生命の実相と実体が現れました。 勿論、仏陀の頭の中の話(手塚さんの想像)ですが、{我々も地球の欠片に過ぎない」と云う「言葉に、妙に惹かれました。

 それに、仏教の「利他愛」は、究極、神が居たとして、「神が人間に為してほしい事」だと思います。
Posted by ナポレオン・ソロ at 2017年10月16日 12:11
kabu様
同意です。
>宗教は一人で生き抜くには困難な人生をより良くするために生まれた
 人間の知恵による産物ですね
そう思います。
宗教は一言でいえば「人生哲学」なんじゃないでしょうか。
人が社会とかかわりながら生きていくことの知恵を教えていると思います。
ただプロの宗教家はそこからさらに奥深く人生の真理を探究するのでしょうが、我々凡人は日常生活と自分に与えられた生業を、日々真摯に真面目にこなしていくことが修行だと思います。



ナポレオン・ソロ様
ご理解いただきありがとうございます。拙ブログではコメントの形式は決めていませんが、しばしば「演説」的な持論展開される方がいますので、私も複数の読者様のレスをしている関係上、コメントはあくまでエントリに即した完結明瞭な形式で宜しくお願いします。

>実際に奇跡を体験すれば、もっと確信を以て云えますが・・・
実際にソロ様が奇跡を体験されても、あくまでそれも個人的体験です。
世の中の教祖様にはそういう方がゴマンといらっしゃいますが、すべて個人的体験です。また予言や病気治癒などの「超能力」があっても、それが「神」の力かどうかは誰にも証明できません。私も不思議な体験というものはありますが、それが「神」のものかどうかはわからないのです。でも「神様」はいて欲しいと思います。

世の中人の知らない事は山ほどあります。安易に結論をだすのは危険なこともあります。わからないことはわからないままでいいんじゃないですか。
Posted by トラネコトラネコ at 2017年10月16日 16:20
私はごく幼少の頃からキリスト教と出会い、プロテスタントですが、イエスに共感を覚えました。でも、お祈りの最初に天のお父様(神)には違和感ありました。私が育った環境では、キリスト教は、ヤソはあかん!でしたからね。毎週礼拝に通い少ない額ですが献金してましたが、信仰を捨てた訳ではないが、教会の人間関係に嫌気がさして礼拝に行かなくなりました。でも、何年間して仏教の教え
である執着心が心の重みと言う言葉になぜか涙が溢れ泣いて泣いてwなぜか後、スッキリでした。今でも、教会の信者の人から救いのない世俗的な生活してるから救いたいみたいなメッセージあります‼まっ私は普通に生きてるだけですけど。
Posted by うさこ at 2017年10月16日 20:36
うさこ様
私は信仰そのものを否定はしませんが、信仰も「神」もあくまで個人的な範囲にとどめるべきだと考えています。ですからキリスト教であれ、イスラム教であれ、仏教であれ・・・何教でも自分にしっくりくる宗教を信仰することはいいと思います。

私の遠い親戚にモルモン教徒がいますが、私が嫌いなのはこの宗教を信仰するのは個人の勝手ですが、ご指摘のように「お前を救ってやる」という上から目線がムカつきます。これはモルモンだけでなく、他のプロテスタント諸派にも言える事です。まさに選民思想を感じました・・・。
Posted by トラネコトラネコ at 2017年10月16日 20:54
>>あくまでそれも個人的体験
其れは分って居るんですがね、良い話ですから、つい、誰かに話したい気になるんですよ。w

 自分に取って良い話でも、他の人にも良い話かドゥかは分らないし、その奇跡を起こしたのが、神様の御意であるとは誰も云いきれません。 端に自分がそう思っただけの事、仰有る様に、飽く迄「個人的体験」です。

 でも、何かを感じて誰かとその感じを共有したいと言うのが、人間なんじゃないかと思いますね。
Posted by ナポレオン・ソロ at 2017年10月16日 21:24
ナポレオン・ソロ様
>良い話ですから、つい、誰かに話したい気になるんですよ。w
>何かを感じて誰かとその感じを共有したいと言うのが、
 人間なんじゃないかと思いますね。
同意です。
これは人情としてわかります。
Posted by トラネコトラネコ at 2017年10月16日 22:45
 
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