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特攻隊志願の真実とは?

2018年01月10日

特攻隊員は「志願して死んでいった」のか
「9回特攻に出撃して、9回生きて帰ってきた」人がいます。名前は佐々木友次。作家・演出家の鴻上尚史さんは、92歳の佐々木さんに5回会い、その証言を著書『不死身の特攻兵』(講談社現代新書)にまとめました。鴻上さんは取材を通じ、「志願して死んでいった」という話は、特攻を「命令した側」の見方だったのではないか、と考えました――。

※本稿は、鴻上尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書)の第4章「特攻の実像」を一部再編集したものです。

■「命令した側」が作り上げた特攻隊のイメージ
佐々木友次さんの人生を知ることは、特攻隊を理解していくことでもありました。
調べれば調べるほど、「特攻隊とはなんだったのか? 」という質問は成立しないと考えるようになりました。

特攻隊は「命令した側」と「命令された側」があって、この両者をひとつにして「特攻隊とはなんだったのか?」と考えるのは無意味だと思うようになってきたのです。

「特攻隊は『志願』だったのか、『命令』だったのか? 」という今も続く論争も、この二つの視点を明確にしなければ、意味がないと考えるようになりました(佐々木友次さん達『万朶隊』(※)は明確に「命令」でしたが)。

※編注:佐々木さんは日本陸軍の特攻隊『万朶隊』の第一回出撃隊に選ばれた。

『神風特別攻撃隊』という戦後、ベストセラーになった本があります。大西瀧治郎中将の部下であり、海軍の特攻を命じた中島正、猪口力平の二人が書いたものです。

英語にも翻訳され、世界に「カミカゼ」のイメージを伝えました。「積極的に自分から志願し、祖国のためににっこりと微笑んで出撃した」という、今も根強いイメージです。

それには、第2章で紹介した関行男大尉が海軍第一回の特攻隊長に指名された時の様子が描写されています。

深夜、寝ているところを士官室に呼ばれた関大尉に対して、所属部隊の副長である玉井浅一中佐は、肩を抱くようにし、二、三度軽くたたいて、現在の状況を説明し、「『零戦に250キロ爆弾を搭載して敵に体当たりをかけたい(中略)ついてはこの攻撃隊の指揮官として、貴様に白羽の矢を立てたんだが、どうか? 』と、涙ぐんでたずねた。関大尉は唇をむすんでなんの返事もしない。(中略)

目をつむったまま深い考えに沈んでいった。身動きもしない。―一秒、二秒、三秒、四秒、五秒……と、かれの手がわずかに動いて、髪をかきあげたかと思うと、しずかに頭を持ちあげて言った。『ぜひ、私にやらせてください』
すこしのよどみもない明瞭な口調であった」


陸軍の『万朶隊』のように、いきなり体当たりを命じられてはいません。
これを「志願」という人もいるかもしれません。けれど、厳しい階級社会の軍隊において、中佐という二階級上の上官から「涙ぐまれながら」「どうか? 」と言われて断るのは本当に難しいと思います。

ところが、1984年、戦後40年近くたって、この夜のやりとりが猪口・中島の書いた嘘だと判明します。

のちに、僧侶になった元副官の玉井氏が、関大尉の中学時代の同級生に対して、「関は一晩考えさせてくれ、といいましてね。あの日は豪雨で、関は薄暗いローソクの灯の下で、じっと考え込んでいました」と証言していたのです。また、『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(神立尚紀 文春文庫)には、同じことを猪口参謀が大西中将の副官だった門司親徳氏に戦後、話したと書かれています。

「一晩考えさせてください」と答える関大尉に、玉井中佐は、編成は急を要する、できれば、明日にも、敵機動部隊が現れれば攻撃をかけねばならない。と、重ねて、大西長官の決意を説明し「どうだろう。君が征ってくれるか」とたたみかけたのです。
そして、関大尉は、「承知しました」と短く答えました。


これは、「志願」のふりをした「強制」です。いったん、ふりをするだけ、余計に残酷だと感じます。

■『神風特別攻撃隊』の多数の欺瞞

『神風特別攻撃隊』では、他の隊員の志願に関しても、嘘が書かれています。
初めて隊員達に特攻の志願を募った時を、猪口参謀は次のように描写しています。

「集合を命じて、戦局と長官の決心を説明したところ、感激に興奮して全員双手をあげての賛成である。かれらは若い。(中略)小さなランプひとつの薄暗い従兵室で、キラキラと目を光らして立派な決意を示していた顔つきは、いまでも私の眼底に残って忘れられない。(中略)これは若い血潮に燃えるかれらに、自然に湧きあがったはげしい決意だったのである」

ですが、生き残った浜崎勇一飛曹の証言によれば、23人の搭乗員達は、あまりの急な話に驚き、言葉も発せずに棒立ちになっていました。

「いいか、お前達は突っ込んでくれるか!」

玉井副官は叫びましたが、隊員達には戦闘機乗りとしてのプライドがありました。
反応が鈍いのに苛立った玉井副官は、突然、大声で、「行くのか行かんのか! 」と叫びました。その声に、反射的に総員が手を挙げたのです。それは、意志というより、突然の雷に対する条件反射でした。


玉井副官は、その風景を見て「よし判った。志願をした以上、余計なことを考えるな」と答えました。全員が「自発的に志願」した瞬間でした(『敷島隊 死への五日間』根本順善 光人社NF文庫)。それ以降の隊員選びでは、中島飛行長は、封筒と紙を配り、志願するものは等級氏名を、志願せぬものは白紙を封筒に入れて、提出させたと戦後、答えました。

「志願、不志願は私のほかはだれにもわからない」ためにです。けれど、やはり生き残った隊員は、そんな手順を踏まず、実際は、「志願制を取るから、志願するものは一歩前へ」というものだったと証言しています。中島だけに分かるのではなく、まったくの逆です。結果、全員が一歩前に出たと言います。

当事者の隊員がこう証言していても、中島は、戦後もずっと当人達の意志を紙に書かせたと主張し続け、航空自衛隊に入り、第一航空団指令などの要職を経て、空将補まで上り詰めました。

■なぜ部下の内面に一歩も踏み込まないのか

『神風特別攻撃隊』は、徹底して特攻を「命令した側」の視点に立って描いています。特攻の志願者は後をたたず、全員が出撃を熱望するのです。

酒の席に招かれれば、「私はいつ出撃するのですか、はやくしてくれないと困ります」と迫られ、特攻隊員を指名する前には中島のズボンの腰を引っ張りながら「飛行長、ぜひ自分をやって下さい!」と叫ばれ、夜には自室に志願者が出撃させて欲しいと日参してくるのです。

隊員達の状態は次のように描写されています。

「出発すればけっして帰ってくることのない特攻隊員となった当座の心理は、しばらくは本能的な生への執着と、それを乗り越えようとする無我の心とがからみあって、かなり動揺するようである。しかし時間の長短こそあれ、やがてはそれを克服して、心にあるものを把握し、常態にもどっていく。

こうなると何事にたいしてもにこにことした温顔と、美しく澄んだなかにもどことなく底光りする眼光がそなわるようになる。これが悟りの境地というのであろうか。かれらのすることはなんとなく楽しげで、おだやかな親しみを他のものに感じさせる」

死ぬことが前提の命令を出す指揮官が、「動揺するようである」という、どこか他人事と思われる推定の形で書くことに、僕は強烈な違和感を覚えます。猪口、中島というリーダーは、部下の内面に一歩も踏み込んでいないと感じられるのです。

どれぐらい動揺しているのか、本心はどうなのか、動揺に耐えられるのか。優秀なリーダーなら、部下と話し、部下を知り、部下の状態を把握することは当然だと考えます。

けれど、特攻を「命令された側」の内面に踏み込む記述はないのです。それは見事なほどです。登場する隊員達は、全員、なんの苦悩も見せないのです。それは、今読み返してみると、異常に感じます。

隊員の内面に踏み込んだ描写をせず、関大尉の場合のように嘘を書く理由は、ひとつしか考えられません。

特攻隊の全員が志願なら、自分達上官の責任は免除されます。上官が止めても、「私を」「私を」と志願が殺到したのなら、上官には「特攻の責任」は生まれません。が、命令ならば、戦後、おめおめと生き延びていたことを責められてしまいます。多くの上官は、「私もあとに続く」とか「最後の一機で私も特攻する」と演説していたのです。

大西瀧治郎中将のように、戦後自刃しなかった司令官達は、ほとんどが「すべての特攻は志願だった」と証言します。私の意志と責任とはなんの関係もないのだと。
<後略>
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鴻上尚史(こうかみ・しょうじ)
作家・演出家。1958年愛媛県生まれ。早稲田大学在学中の81年に劇団「第三舞台」を結成。87年「朝日のような夕日をつれて’87」で紀伊國屋演劇賞団体賞、95年「スナフキンの手紙」で岸田國士戯曲賞受賞。10年に戯曲集「グローブ・ジャングル」で第61回読売文学賞戯曲・シナリオ賞受賞。舞台公演のかたわら、エッセイや演劇関連の著書も多く、ラジオ、テレビ、映画監督など幅広く活動。日本劇作家協会会長。
Presidento Online 1/9(火)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180109-00024135-president-soci
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180109-00024135-president-soci&p=2
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180109-00024135-president-soci&p=3
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180109-00024135-president-soci&p=4
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180109-00024135-president-soci&p=5
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180109-00024135-president-soci&p=6


特攻隊志願の真実とは?

        鴻上尚史著『不死身の特攻兵』(講談社現代新書)



私も大東亜戦争での特攻隊に志願した若者の心理を長い間考えていた。
航空機だけでなく回天という特殊潜航艇や震洋特攻なども含めれば、
総勢1万名以上にも上る特攻隊員が志願し約6千名が散華していった。
ちなみに特攻戦術はナチスドイツや旧ソ連でも行われた。
 ↓
<参考>
特別攻撃隊
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A#%E6%A7%8B%E6%88%90%E3%81%A8%E6%88%A6%E6%AD%BB%E8%80%85%E6%95%B0

ゾンダーコマンド・エルベ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%99

タラーン
http://mmsdf.sakura.ne.jp/public/glossary/pukiwiki.php?%A5%BF%A5%E9%A1%BC%A5%F3


特攻隊志願の真実とは?

        当時十代後半から二十代前半の若者で実行された、
        神風特別攻撃隊には約4000名の戦死者を出した。



特攻隊志願の真実とは?

       1945年4月、回天特別攻撃隊で海中特攻した英霊たち。
       海上・海中からの特攻戦死者も約2千名弱を数えている。




特攻へ志願した1万名余の若者の心理とはいかようなものであったのか?
小心者の自分がその立場にあれば怖気づいていたことは間違いないが、
戦時下の特殊な心理状況だけでそれを理解し切ることはできなかった。

私は実際に戦中を生き抜いた両親にも尋ねたことがあったが、
両親ともに実際の事はわからないとしながらも巷間いわれるように、
特攻隊員は自ら進んで国のために志願したのだろうという答えであった。

私はこれは自分達の戦後世代の人間との時代間格差だと思い込んでいた。
つまり特攻隊の英霊の生きた時代と戦後の我々はその背景が違うのだから、
当然、考え方も感性も大きく違っていたのだという風に納得させたのだった。

だがこの記事を読むとそうではないのである。
時代背景が大きく違えども、人間の心理は同じである。
誰でも「死」は怖いし、死にたくなんかないのである。

戦時中の一種の同調圧力というか、当時の御国の為に死ねというスローガン、
しかも米軍の物量作戦でことごとく玉砕を強いられ本土決戦を迫られる中
特攻への志願を上官から請われれば「嫌です」などとは言えない空気
まさに自ら進んで特攻へ志願したというのは100%事実ではないと思う。

一方本当に自ら進んで特攻に志願した人々がいた事も事実だと思う。
すべての特攻志願者が命が惜しくて嫌々空気に負けて志願したという事は、
英霊の名誉にかけてあり得ないと、個人的には思う。


特攻隊志願の真実とは?

           まだ幼さの残る十代の特攻隊員たち・・・

ただし・・・

やはり今の個人主義と権利意識の異常な日本人の感性とは大きく違うと思う。
戦前の日本人には今よりも大きな「公(おおやけ)」という意識があったと思う。
誰でも死は怖いし嫌だが、命よりも大きな「価値概念」に殉じる精神はあったのではないか?

今では殆ど廃れてしまった「公に殉じる」武士道の心が当時はまだ存在していたと思う。
現在のように個人が「公」に優先する風潮の社会では考えられない事である。
しかし国家あっての個人であり、その逆は古今東西ありえない。

ちょっとだけ脱線するが・・・

私は一民族一国家の日本では、国家とは郷土であり家族・同朋のことだと考えている。
バカ左翼のいうような国家と国民(人民)との対立概念で考えるべきではないと思う。
日本では皇室も国家も国民もすべて一体の概念と考えるべきである。

大東亜戦争のスローガンとなった八紘一宇も侵略戦争の象徴ではない。
すべての人種・民族が一つの屋根の下で暮らす家族のような世界
表した神武天皇の御言葉からきているのである。

日本人の思想の基本は、常に対等・平等の精神に貫かれており、
人種差別と奴隷制度でなりたった西欧キリスト教世界の価値観とは違うのである。

<参考>
八紘一宇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%B4%98%E4%B8%80%E5%AE%87


特攻隊志願の真実とは?



ってことで話を戻す・・・

命令を下す将官クラスの立場の者には、今の昔も保身があったのかもしれないが、
命令される側の一兵卒には、純粋に国や家族を思う犠牲的精神があったのではないか。
それがまだ社会も知らない十代の若者の打算のない純粋な心に共鳴したと思えるのだ。

これが当時の日本国民の普通の国家概念であり常識であったと思う。
特攻隊員の親兄弟姉妹でも身内が死にに行くことを嬉しいなどとは思わないが、
しかしそういう状況と空気が支配している中、これを誇りとしたことも事実だろう。

特攻隊への志願の精神とは、半ば強制された側面はあったにせよ、
それだけでなかったと思う。それは今では失われた「公」に殉じる精神という、
当時の日本人の心の真実があったものと考えることもできるのではないか。

繰り返すが・・・

本当に心から進んで特攻隊に志願した人がいた、という事だ。


特攻隊志願の真実とは?

      これから死に赴く特攻隊員の笑顔は何を物語っているのか・・・



「出発すればけっして帰ってくることのない特攻隊員となった当座の心理は、
 しばらくは本能的な生への執着と、それを乗り越えようとする無我の心とが
 からみあって、かなり動揺するようである。しかし時間の長短こそあれ、
 やがてはそれを克服して、心にあるものを把握し、常態にもどっていく。

 こうなると何事にたいしてもにこにことした温顔と、美しく澄んだなかにもどことなく
 底光りする眼光がそなわるようになる。これが悟りの境地というのであろうか。
 かれらのすることはなんとなく楽しげで、おだやかな親しみを他のものに感じさせる」

一理あるのではないか?

中島正、猪口力平著『神風特別攻撃隊』にでてくる志願兵の心理描写だが、
鴻上尚史氏は部下の内面に踏み込んで描写していないと批判的に述べるが
この箇所は一概に否定すべきものではないと思う。

なぜなら恐らく我々戦後世代にはわからない心理かも知れないからである。

もちろん私自身もこれには推測する以外の術をしらないのだが、
切羽詰まった国家存亡の危機に際して、国家=家族・郷土を守るために、
自分達以外に人材がいないなら、自分がそれを選択せざるを得ない状況なら、
あえてする苦渋の選択という回答もあったのではないだろうか?

そして真剣に死と向き合って苦悶と葛藤の末に「死」を決断したとき、
恐らくここに述べられたような心境に達することがあるのではないだろうか?
私は良し悪しは別として、「死」を美徳の一つと考える日本精神にこれを思う。

特攻隊を犬死とか侵略戦争の片棒担ぎなどと罵倒する糞左翼どもには、
こういった精神は理解不可能だと思うし、彼らと議論する事も無駄だと思う。
我々保守と売国左翼とは根本的に精神構造が異なるからである。

これは靖国神社にお参りしたい日本国民だけが共有できる精神だと思う。


特攻隊志願の真実とは?

          1945年4月12日知覧陸軍飛行場から
          出撃する陸軍特別攻撃隊の「隼」戦闘機



さらに・・・

当時は戦争という異常事態の中で・・・

誤った精神主義が蔓延してい居た事も事実である。
アメリカの合理主義を軽んじて物量や科学主義を精神で克服できるなどという、
いわば「狂気の空気」が日本中を支配していた時代なのである。

だからといって、対米戦争も日本が進んでやりたくてやった戦争ではない。
当然のこと「世界征服の野望」に燃えておこなった侵略戦争などではない。
だが戦争せざるを得ない中で、戦争に引き込まれ拡大し破滅に向かっていった。

この事はいずれエントリすることにしてここでは詳述しないが、
大東亜戦争は決して侵略戦争などではない、仕掛けられた戦争に応え負けたのだ。
だが、これを日本歴史の過ちとして現代に生きるわれわれが安易に断罪はできない。

戦争拡大は事実であっても現代の我々の価値観・歴史的尺度でもって、
上から目線で先人たちを批判する傲慢な態度はとるべきではない。

我々が当時の人々の苦悩や不安や戦時下の状況を知らないからである。


特攻隊志願の真実とは?

            1944年7月サイパン島玉砕
       誤った精神主義のせいでどれだけの犠牲を払ったことか・・・

    

特攻隊志願の真実とは?

         すべて根性でなんとかなるという誤った精神主義が、
         戦後は精神主義排除して物質至上主義にかわった。
         日本人って、何か極端から極端な国民性があるのかな・・・




どの時代にもその時代の人々が選択した、或いは選択せざるをえなかった、
やむを得ない決断があったはずである。これは我々の人生にも言える事である。
今は更生した他人の若い頃の過ちをいつまでも非難すべきではないのと同じだ。

歴史を評価することは、事実に立脚した歴史を自国の立場で考えることである。

決して戦勝国史観で評価するような愚行をしてはならないのであるにも関わらず、
戦後の「進歩的文化人」と称される左巻き学者やマスゴミは反米を唱えつつも、
米国製憲法と東京裁判の歴史を後生大事にしている滑稽さ、愚かさに気づかない。

我々保守はこんなバカ左翼など相手にしてはいけない。
特攻隊を含む軍人民間人の250万柱の英霊の命の上に戦後の日本がある以上、
我々現在を生きる日本国民は英霊の死に報いる日本を建設していかなければならない。

過去の時代の過ちは過ちとして、未来への教訓にしていけばいいだけだ。
我々は過去の過ちを繰り返さないためにもしっかりした国防体制を構築し、
毅然とした筋を通した国益第一の戦略的外交を確立すべきなのである。

改めて・・・

  国家(国体・同胞)に殉じた、
  250万柱の御霊に感謝!



特攻隊志願の真実とは?









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Posted by トラネコ at 21:00│Comments(18)歴史
この記事へのコメント
そのとうりでございます。いつもながら トラネコ様の日記はきちんと資料を提示して その上の検証を踏まえながらのわかりやすい文章見事です。敏腕記者だったというお母様の才を受け継いでいるのでしょうね。私もまったく同じ思いです。日本の国防を守る自衛隊や海保の方達のためにもきちんとした防衛の構築が必要です。それにも関わらず 反日左翼朝鮮メディアと売国奴野党のアホ議員達が国防の議論を阻止しているのです。北朝鮮もそうですが その陰で虎視眈々と日本を狙う支那が本当の脅威なのです。しかし 反日左翼朝鮮メディアはわざと 支那の脅威をスルーして伝えません。スイス民間防衛書にも書かれているように 戦わずして勝つ。さまざまな工作をしかけています。お花畑の日本人は支那という国の恐さを理解できないのでしょうか。春秋戦国時代には兵法を確立した国です。権謀術数はお手のもの。浸透工作 三戦 藍金黄戦略 反日プロパガンダに日本はまったく後手後手で対処できない体たらくです。これでは 英霊達に顔向けできません。死ぬのではなく 生き抜くために憲法改正してしっかりとした国防を構築することが必要です。それゆえに支那朝鮮人達をこれ以上 日本に入れることは断固反対です。差別ではなく 主権と生存権は守らなければなりません。国防動員法がある支那朝鮮人達が蜂起したら 考えても恐ろしい。それなのに 沖縄のズラ知事や新潟の馬鹿左翼知事のような売国奴達がいるのです。日本をチベット ウィグル 南モンゴルにしてはいけません。
Posted by 打倒 中共 at 2018年01月10日 22:16
 >命令を下す将官クラスの立場の者には、今の昔も保身があったのかもしれないが

 そう言えば発狂新聞を通して若者でなく、高齢者を自分達の運動の「捨て駒」「鉄砲玉」として勧誘してたパヨクがいましたね。自分達は決して表に出ずに、他者を身代りに前面に押し出してひたすら保身を図るその醜悪な心理。
 本当に奴らって自分たちが忌み嫌う戦中の軍上層部と「ウリ二つ」ですな。
 ま、「同族嫌悪」と言う奴でしょうけど。
Posted by KOBA at 2018年01月10日 23:19
特攻命令を下す上官の中には、確かにおかしな将校(保身と出世のみを考えていたような将校や共産シンパの赤色将校など)が居た事は事実だろうと思いますが、実際に従軍した方々の中には、戦地から生存して帰還した後、戦後も仲間を先立たせて、自分だけ生き残ってしまい、「死に後れた事」を悔やんでいた人も多く、その事を考えると、特攻は、確かに「総員玉砕」に近い作戦であり、自ら死を決断しなければならない作戦ですから、相当「怖いもの」であった事は事実だと思いますが、それ以上に「仲間や国、家族を守る為」という「強い想い」があった事も事実だと思います。

それに、上官の中には、それらの責任(部下を特攻によって死なせてしまった責任)を取る為に「自決」した者もいます(あの東条英機も敗戦責任を取ろうとして自決を試みています)。しかし、多くの言論人は、これらの事実を語ろうとする者はいません。

本来責められるべきは、特攻兵や責任を取って自決した上官ではなく、「狂人」のような作戦しか考えられず、その責任を負おうとしなかった「指揮官(戦艦大和で寝転んでいた山本五十六等、彼は真珠湾攻撃やミッドウェー海戦の敗戦責任も負っていない)」や「文官の一部(革新系の赤い官僚)」、「政治家(近衛文麿等)」ではないか、と思います。

しかし、やはり、これらの人物の「戦争責任」を追求する声は少ないですね。

そこが「怪しげな戦争責任論」の「肝」だと思うんですけどね。
Posted by 西 at 2018年01月11日 01:34
本旨から多少逸脱しますが、
>バカ左翼のいうような国家と国民(人民)との対立概念で考えるべき
>ではないと思う。日本では皇室も国家も国民もすべて一体の概念と
>考えるべきである。

この点は同意です。
「クニ」とは自分の生まれた場所や、育った故郷の延長線上の存在です。

特攻と言えば、百田尚樹氏の「永遠の零」を「特攻賛美本」と言っている
馬鹿サヨクをよく見かけますが、百田氏の言わんとする点は、
ISテロリストのような、「マインドコントロールではなかった」という点。
そして、
「一般住民を殺傷するテロと違い、「敵艦船という純然たる軍事目標」
のみを攻撃対象とした特攻を、テロと同一視するな」ということでして、
極一部を除き、馬鹿旗やら馬鹿日新聞を読んでいるような連中が
いかに「自分の頭で考えない習慣」で生きているか判ろうというものです。
Posted by 猫宮とらお at 2018年01月11日 08:53
連投失礼します。
この手の話題、NHKなんかも「終戦記念特番」とかで、近年やたら持ち出して
来ますが、既に当時を知る人は大半が他界されて、いわば
「死人に口なし」状態。
何かの作為有り気な如何わしさを感じます。
Posted by 猫宮とらお at 2018年01月11日 10:50
 私は鹿児島に帰郷すると必ずと言って良い程、知覧の特攻観音に、感謝のお参りに行きます。 彼らこそ今まで描いて来た人生の夢や希望をかなぐり捨て無理に諦めて、此処まで育ててくれた父母に感謝し、弟妹に心を遺し、オソラク顔を見る事は叶わぬであろう子孫が暮らす故国の存続・繁栄を信じて、その礎石たらんと自分の一命を以て示した、護国の鬼だからです。

 ハッキリ言って、特攻を命じた上官にも色々居た事は、否定しようが無いでしょう。将官とて人間ですから、勇気のある人も腰が抜けた人も居て当然です、逃げ場のない特攻を命じた自身が、武人・軍人と名乗って身を建てて来乍ら、敗戦後も命を永られる恥辱は、自身が一番良く分って居なければなりませんね。 然し、中には宇垣纏中将の様に、土壇場になって3座攻撃機「銀河」に乗り込み特攻で散華した将官もいます。 特攻作戦の責任者だった大西滝次郎中将も玉音放送の直後に割腹自決して居ます。

 然し、一番責められるべきは、昭和6年から以降ずっと日本は国を賭けた戦争をして居たのに、陸海軍の縄張り争いに明け暮れる一方、現状の情報を軽視し先の見通しも立てず、猪無者の様に、蛮勇だけで十数倍もの敵に対して勝てる等と、妄想を喚いて居た、陸士上がりの机上ダケの名将軍達だったと思いますね。

 天の配剤とは言いますが、本当に適材な人間は何処の世界でも、ホントに一部しかいませんね。 無辜の人を殺した事を、隠蔽しなくてはならない、死を無理強いさせられたのに嘘塗れの中で英雄と称えられる人達を出さないで済むように、戦争はホントにしたく無いですね。
Posted by ナポレオン・ソロ at 2018年01月11日 15:13
後世の人間が後知恵でいくら喚こうが、出撃前の彼等の笑顔が全てを物語っているでしょう。辞世の句や家族に宛てた手紙を読んでもわかります。
死して護国の鬼とならんと言い、散華された全ての英霊御魂に感謝を。
Posted by 無銘 at 2018年01月11日 15:35
人の心の真ん中は、親子であろうが夫婦であろうが、当人以外には分からないのでしょうね。寂しいですが。だからこそ相手の思いに少しでも寄り添いと思い、我が我がの極端な自己主張では上手く行くであろう人間関係や世の中がギクシャクすると思います。 同じ時代を生きる人間、否、夫婦であってもお互い理解し難いw ましてや違う時代を生きた人びとの生き方を批判する事は、軽々しい事ではないと思います。 でも、現代では私も含めてですが、個人の欲や満足を優先する事を良しとする風潮ではないかと思う今日この頃。昭和一桁生まれの母は結構、自己中な人でしたが、最近の日本人て年寄りも若いのんも自分勝手やなって呟いてた事あってお前が言うなぁ〜て思いましたけどね。 滅私奉公なんて言葉は死語になりつつですが、これは奴隷根性でもないですし、私利私欲を捨てると言う事は崇高な精神と思います。人間は、只、長生きして一杯お金儲けて贅沢して生き延びるが良いと思えません。それも人其々の感性でしょうが。私は嫌ですね。汚い。 特攻隊で、帰還する事はないを覚悟で出動して行く隊員の心の中は分かりませんが、多分ですが、死にたくない、だって若い子ですよ。でも、それを選択する事がその時代を生きる男としての誇りであったと。それで、70数年経った戦争の事は、何も知らない戦後生まれの私達が、命と引き換えに守ってくれた日本国をなんとかせなあかんと思うのですから。凄く先人として、素晴らしいお手本ですね。そんな世代もジジババなんが〜
Posted by うさこ at 2018年01月11日 18:27
ナポレオンソロ様の投稿にうん?ですが。 死ぬ事に無理強いですが。その中で嘘の中で英雄と称えられる人達が出て来ない済む様に戦争は本当にしたくないて。
どう言う意味ですか?
Posted by うさこ at 2018年01月11日 19:32
打倒 中共様
過分なお言葉恐縮でございます。
仰る通り、シナとの戦争は既に始まっています。
シナは数十年前から情報戦をしかけており、日本のマスメディアはNHKもふくめすべて乗っ取りが完了しています。人民解放軍の将軍がいみじくも言った超限戦ですね。しかし幸いにインターネットという情報戦を仕掛ける国がもっとも嫌がるツールが登場したことは、国民のテレビ離れとともにマスゴミへの不信感と疑惑を高める効果が絶大になっています。今後新聞もテレビも見ない世代が増加すれば変わる可能性はあるでしょう。



KOBA様
同意です。
それは確か沖縄タイムスの記事にもあった「60代以上で年金生活者で家庭に責任のない人」を、反基地運動の座り込みやデモにリクルートするって募集ですね。まあ左翼って旧ソ連やシナ国民党の督戦隊同様に、自分達は前面に出ないで後ろ手操る卑怯卑劣な糞どもだということがわかります。



猫宮とらお様
同意です。
特攻隊をイスラム狂信者の自爆テロと同じというバカ者がバカサヨにはいます。まあいかに無知蒙昧なバカかという証左でもありますが、アメリカの対日情報戦に投入された若き日のドナルド・キーン氏がいみじくも述べていましたが、特攻隊員に志願した若者は同じ世代のアメリカ人より遥かに成熟し、国家についても真剣に考えていたことが分かったと言っています。特攻隊は決してクレージーな狂信的国家主義者の先鋒ではないということですね。



西様
同意です。
鴻上氏のいうことも一理ありますが、すべてではないという事ですね。
保身意識の強い上官もいたでしょうが、将校も特攻に参加し散華していますから、多くの生き残った軍人は仰るように自分が生き残ったことに何かしら罪悪感をもって戦後を生きていったと思います。当時を知らない私たちが上から目線で批判など、思い上がり過ぎだと個人的には思います。謙虚に英霊には感謝すべきですね。



無銘様
同意です。
私も同じことを考えました。
これから死にのぞむ特攻隊員の明るい笑顔は、まさに死を覚悟しそれを十分理解した一種の悟りの境地なのでしょうか・・・それを思えばこそ、本当に胸が痛む思いです。改めて英霊に感謝をささげたいですね。



うさこ様
同意です。
戦時中の行き過ぎた間違った精神主義や国家主義が、戦後は個人主義、利己主義に走り、精神より物、国家や社会より個人という価値観が強くなって、戦後世代の私たちは多かれ少なかれその影響を受けています。まあ何事もバランス感覚が大事ですが、日本人はどういうのか極端に走りすぎる傾向があるのかな・・・
Posted by トラネコトラネコ at 2018年01月12日 00:34
私のかつての師匠が特攻隊の生き残りで、彼によると、飛行練習中(赤トンボ)の事故で無くなった方の方が多い、ということでした。昆虫のトンボの飛行は停止と全身しかできず、それが軍に好まれた、との説もあります。このような過酷な時代を生き、若い命を捧げて日本を守ってくれた、あるいは、守らざるを得なかった、先人に哀悼と感謝を捧げます。
それはともかく、非合理な精神主義がなければあそこまで戦い続けられなかったかもしれませんが、一方で、平和憲法を守って一億層玉砕しましょうという、石原寛治の戯言などは、戦後も非現実的な精神主義がまかり通ってきたことの、ひとつの証だろうと思います。
このような振り子運動は、極端から極端へ動き、全体主義的な性格を帯びています。日本を普通の国家にするためにも、現在の日本には、普通の軍事化や臨戦態勢が必要でしょう。平和ボケ全体主義が極限に達して、行き詰まり、大被害が出てから、その極端の逆に全体主義的に暴走する前に。
Posted by 丑寅の金さん at 2018年01月12日 00:53
>特攻隊志願の真実とは?
鴻上尚史氏が何を言いたいのかいまいちよくわからない。

 万朶隊は陸軍が編成した特攻隊です、陸軍特攻隊員は1900人程度お亡くなりになっています。
神風と米軍が恐れた特攻隊は海軍で、知覧から多くが出撃し4000名程の殉死者を出しています。
敗戦間際の極限状態にあった皇国軍が最後の反撃として出撃したのが特攻隊です。
志願と言われていますが、実際は皇国軍としての服務として出撃しているのですから命令でもあるわけです。
当時の状況では軍から出撃を打診され、断れる状況だったとは到底思えません。
断りたい、死にたくないと思う心の葛藤があった人もいるでしょう、でも行きますと志願せざるを得ない状況であったのが実態ではないでしょうか。

 それを出撃しながら生き残って帰って来た人がいた。
これはヒューマニストとして称賛されるべきなんでしょうか。
当時の状況では決して褒められはしないし、わかれば臆病者と罵られたでしょう。

 皇国軍には戦陣訓と言うものがありました。
戦陣での訓戒として昭16年陸軍大臣だった東条英機が示達した訓令です。
厳しいもので戦陣においては玉砕をいとわないものでした。
「敵を粉砕せずんば已まざるべし」
「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」

 殉死者260万人、靖国神社に祀られております。
今ある我々は、英霊の尊い犠牲があって今日があるのです。
Posted by 卜部 at 2018年01月12日 06:37
>うさこさん ソロです。
 レイテ沖海戦で連合艦隊が全滅し、その直後にマリアナ諸島(グアム、サイパン、テニアン)を陥落させられて、日本は制海権、制空権を事実上失った為に、本土空襲は指呼の間になって終った。 処が、日本の現有戦力は、未だ召集されて間もない飛行時間1000時間未満の若い飛行兵が多いのを看て、レイテ沖海戦で偶然に爆弾を抱いて居た攻撃機が体当たりをして戦果を挙げた例を持ち出して、大西中将が、提案したのが特攻でした。

 実はマリアナ陥落の時に、時の鈴木貫太郎首相は、降伏に向けての話し合いの打診を米国側にしたそうですが、帰って来た答えは、天皇陛下の処刑を意味する無条件降伏だったのです。 特攻は謂わば本土空襲を一日でも遅らせようと言う苦肉の策でしか無かったのです。

 私の言いたかったのは、「軍部が始めた戦争」の筈なのに、軍部の中の此の不統一や混乱は一体何だ、と言いたいのです。 トラネコさんの記事を読んで居ると、戦後も、のうのうと生きて居た敗戦責任者とも言うべき人々は、何の責任も問われて居ない。一方では、本土空襲を避けようと空母を目指して特攻を続けたが、最初は「まさか」と思って居た敵側も、慣れて来て、成功率は次第に落ちて来たそうです。それでも作戦を中止しなかったのは、非難されて然るべきだと思います。

 唯、貴方の呈された疑問の様に、私が書いた一文では、特攻は全て強制されたモノ、英雄像は全て作り事の様な印象を読み手に与えたかもしれないと、反省して居ます。
Posted by ナポレオン・ソロ at 2018年01月12日 16:35
ソロ様 丁寧なご返答有難うございます。
ソロ様の伝えたかったご主旨、理解致しました。私の読みが浅かったです。すみません。
Posted by うさこ at 2018年01月12日 19:10
卜部様
同意です。
鴻上尚史氏という人物を調べてみましたが、安保法に反対したり左翼系市民団体と接点があるところから、反日的傾向を持った人であることがわかります。するとこの著書の言わんとするところがわかります。一見ドキュメンタリー的なインタービュー形式をとりつつ、特攻隊志願者は嫌々参加させらた、無言の圧力で仕方なく参加させられた「強制」であった、と結論付けたいのでしょう。 実際こういう参加者もいたと思いますが、しかしそれが全員ではなかっただろうというのはエントリに述べた通りです。私の言いたいことは既に述べた通りです。
Posted by トラネコトラネコ at 2018年01月12日 19:58
今回のエントリーで何故か昔、父が酔っ払ったら軍歌をハーモニカで吹いたり歌ったり、最後は異国の丘と言う歌謡曲を歌って泣くんです。もう私は勘弁してよ〜でした。今の子の言葉使いでしたら知らんがなぁ〜ですかね。戦前戦中の教育が敗戦と共に、自虐史感、日本のそれまでの有り様を全否定極端に日本の伝統を破壊する教育に、今更ながら戦慄します。私なんかはど真ん中で育ってたんですね。そんな私が二人息子を生んで育ててた訳ですが、全然所謂なんかわからん左っぽいと言うかじゃないんですw息子達には、情報リテラシーがあるんですね。息子に限らず今の若い子で通常の頭なら普通なんでしょうね。私の知る限りでは、マトモな若い子多いです。極端を嫌う傾向があります。それがいいのか悪いのか。
Posted by うさこ at 2018年01月12日 21:55
「切羽詰まった国家存亡の危機に際して、国家=家族・郷土を守るために」これですよね、現代を生きる日本人に抜け落ちている感覚は。何故か国が滅びても個人はどこかに逃げればいい、日本以外でも今と同じように暮らすことができると考えている。あまりにも国という存在が軽んじられています。日本を存続させることができるか否かという瀬戸際に自分の命を賭けて散った先人たちは今の日本人を見てどう思うのでしょうか?
Posted by kabu at 2018年01月12日 23:06
うさこ様
私とうさこ様とは同世代ですが、この世代は親が全員戦中派ですから良し悪しは別にしても、まだ昔風の教育はあったのです。、まあいわゆる保守系の普通の日本人ですね。我々以降の親から徐々に戦後民主主義系の個人主義に代わっていくのかなと思います。しかし団塊世代がこうもアホが多いというのは意外でしたけどね・・・



kabu様
同意です。
戦後の左翼思潮には必ず国家と国民(奴らは人民という)が対立的に主張され、国民は常に国家に搾取され抑圧されるというニュアンスが付きまといます。エントリにも何度も述べてきましたが、国家あっての個人でありその逆は成り立ちません。それはユダヤ人2千年の放浪史をみればバカでもわかるはずでしょうが・・・左翼はバカ以下なんですねw 英霊はみんな泣いていると思いますよ。
Posted by トラネコトラネコ at 2018年01月13日 23:16
 
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