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プレイ・ボーイの巨匠・尾形光琳 その1

2008年06月29日

おそらく尾形光琳ほど現代のアートでも幾度となくとりあげられ、
いまだにお手本にされ、美術界の神様的な江戸の芸術家はいなかっただろう。

浮世絵とならび光琳の流派・琳派の作品は、
19世紀末のヨーロッパ美術に大影響を与えている。

光琳は1658年京都の呉服商「雁金屋」の次男として生まれた。
光琳30歳の時、父が死去し、光琳の兄が家督を継いだ。
生来遊び人であった光琳は遊興三昧の日々を送って、
相続した莫大な財産を湯水のように使い果たしてしまった。
それで仕方なく喰うために画業に真面目に取り組みだした。

しかし裕福な京都の町衆の贅沢三昧のプレイボーイではあったが、
遊興生活がかえって美術的センスに磨きをかけたのである。

しかも生家は今でいう高級ブティックだったので、
着物のデザインに囲まれて育っており、お洒落センスも抜群である。
光琳は今で言うファッション・コーディネーターみたいなこともやっており、
元々お茶屋遊びで鍛えたプレイボーイだった事もあり、
町衆の奥さん連中からも人気があったらしい。

当時のお茶屋というのは今の高級クラブである。
そんなところで遊びまくっていた関係から、
大名や公家や幕府の高級役人と親交があり、
何人かのパトロンもいたようだ。

プレイ・ボーイの巨匠・尾形光琳 その1

また幼い頃から、書道、茶道、能楽などを学び、
教養人としての素養も身に着けていたので、
充分レベルの高い会話もできたのだ。
そういった諸要素が天賦の才能と相俟って、
40代にアーチスト光琳が花開いたのだと推測される。

だから光琳は他の絵師のように、幼い頃より画業一筋の絵師とは違う。
障壁画や水墨画はもちろん、着物のデザインや陶芸の絵付け、蒔絵・・・と、
むしろ絵師と言うよりもマルチ・アーチストであったようだ。
                                         つづく



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Posted by トラネコ at 00:01│Comments(0)美術
 
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