琉球王朝と海賊 その2・王権の成立と倭寇
2008年11月30日
倭寇は前回述べたように前期と後期ではその陣容も内容も異なる。
細かく時代を区切ると、初期・前期・中期・後期となるのではないか。
これは私の勝手な独断によるもので、専門の学者の説ではないので了承願いたい。
初期は対馬や壱岐島民らの元寇への復讐による倭寇の発生。
初期はそれへ西国豪族が多数合流した職業的強盗軍団の発生、
活動範囲は東シナ海全域。複数の独立軍団が活動する。
中期は朝鮮人が主体の対朝鮮半島成りすまし強盗団。
後期は中国人主体の多国籍強盗軍団。活動範囲も東シナ海沿岸全域から、
琉球諸島、そして東南アジアまでの広域で、多数の独立組織が活動した。
さて琉球王国はその成立にいくつかの説がある。
羽地朝秀の「中山世鑑」(1650年琉球初の歴史書)では、
源為朝伝説を取り入れ、日琉同祖論を述べている。
羽地朝秀は摂政(せっせい)であり、今の総理大臣職である。
だから彼の編纂した中山世鑑は当時の薩摩との関係から、
歴史書とはいえ、政治的配慮があったといわれる。
これは薩摩の琉球支配を正当化するための補足的史論とされる。
また国語学者の奥里将建の「沖縄に君臨した平家」は
読み物としては面白かったが、ややこじつけが過ぎる気配があった。
しかし平家の落ち武者の一部が沖縄に来ていた可能性は否定できないと思う。
また後で述べるが、私は平家の落ち武者が倭寇になって、
沖縄となんらかの関係を築いた可能性も否定できないと考えている。
琉球諸島と本土との人的影響への考察だが、琉球大学医学部・土肥直美準教授の
形質人類学の近年の発掘研究では、沖縄から発掘される人骨を見ると、
10世紀前後を境に大きく骨格形態が変化しているという。
10世紀以前では縄文系の鼻が低く、目の大きな丸型の顔なのに対し、
10世紀以降では弥生系、即ち大陸系の面長で鼻が高く、
目の細い顔立ちが増えているという。
つまり九州から「倭人」の南下があったということは事実だろう。
10世紀前後の日本本土は平安時代末期から鎌倉時代への移行期である。
ここに琉球王朝が源氏や平氏との関係が推測される背景があるのだ。
まあ事実関係はどうあれ、琉球王朝の成立の背景に関しては、
日本本土と何らかの人的要素が起因していることは間違いないと思われる。
琉球王朝の成立や、外交関係において倭寇がなんらかの関わりがあったのではないか、
という説はとくに目新しいものではない。
恐らく何らかの友好関係にあったことは想像に難くない。
例えば琉球の進貢船が一度も倭寇に襲われたことがないのは、
「大交易時代」と呼ばれる15世紀の沖縄では不思議なことである。
なにせ琉球の貿易船は北は日本の堺や博多、朝鮮、南はジャワ、シャム(タイ国)まで、
交易に出ており、琉球の貿易船は「宝船」であった。
それをみすみす逃す倭寇ではあるまい。
しかしあえて見逃したのには何か理由があるはずだ。
ここで少しこの時代の背景を簡単に見ておく。
倭寇が始まる13世紀から14世紀の琉球は、三山戦国時代であったといわれる。
今帰仁を中心に北山、浦添を中心に中山、佐敷を中心に南山と三つの勢力権があった。
それぞれが勢力争いをしていた。
日本本土では1185年に壇ノ浦で平家が滅亡し、
源頼朝が1192年に鎌倉幕府を開いた。
この平家滅亡の壇ノ浦の戦いに登場する「松浦水軍」という西国武士団がいる。
もともと平戸の松浦党を名乗り清和源氏の流れであるが、
平清盛に認められ平氏方についていた。
しかし壇ノ浦で平氏が絶望的と判断したのか、ころっと源氏方に寝返った。
これが決定的になって平氏は滅亡、敗走したのである。
このとき松浦水軍の一部は敗走する平氏の残党を助け、かくまった。
それが後に倭寇化して独自の道を進み始めたのではないか。
13~4世紀は鎌倉時代から南北朝さらに室町時代へ移行する。
14世紀に足利氏は日明貿易を行うが、
倭寇の活動と区別する為に勘合符を使った勘合貿易を行う。
同時に明国皇帝から倭寇の取り締まり要求を受け、
室町幕府は倭寇化した一部の松浦水軍をとりしまった。
また李氏朝鮮も倭寇の甚大な被害に対して掃討作戦を展開する。
1419年李氏朝鮮は200隻の兵船と約2万の軍勢をもって、
対馬を攻撃した(応永の外寇)。
これらによって倭寇化した松浦水軍の一部は打撃を受けて、
本格的に南下し、南西諸島に活路を見出そうとしたのではないだろうか?
後に彼らが南西諸島へ進出してきたことも想像に難くない。
海上で行動するには必ず寄港地が必用になる。
しかし倭寇=海賊となるとどこの地域でも安全な寄港地とならず、
その場所は自ずと限られてくる。
南進した倭寇が目をつけたのが飛び石伝いに続く南西諸島であった。
ここを寄港地にできれば、中国沿岸や呂宋(フィリピン)にも近く、
そこから阿南(ベトナム)などへも容易くいけるメリットがある。
密貿易も海賊もやり放題の利便性がある。
そこで倭寇は、琉球王朝と相互安全保障条約みたいな取り決めを交わして、
琉球国の各離島を寄港地として、水や食料の補給、乗組員の休養などを提供してもらう。
その代わりに琉球国の進貢船には決して手出しせず、場合によっては他の海賊から守る、
護衛の役割みたいなものを負っていたのではないか。
統一琉球王の第一尚氏の尚巴志の父・尚思紹は伊平屋島出身である。
伊平屋島は沖縄本島北部の離島であり、尚 思紹は本島の今帰仁に渡る。
息子の巴志は本島南部に行き佐敷按司になり、中山王を滅ぼし父を王に据える。
北山、南山を制して三山統一する。父思紹の死後第二代王として王位につく。
この尚巴志は明への朝貢はもちろん、日本、朝鮮、東南アジア方面にまで交易を広げる。
さてここからは私の妄想的独断と偏見を述べていく。
伊平屋島や後の第二尚氏金丸の出た伊是名島は、倭寇の寄港地であったと思う。
もしかすると尚巴志は倭寇の子孫かも知れない。
倭寇の子孫ならば、武士としての教養や剣術など文武両道を身につけ、
充分に戦国時代の沖縄でも実力を発揮することが出来たと思う。
この海外交易への野望は、恐らく、尚巴志が松浦水軍の遺志を継ぎ、
倭寇の血を引く者のDNAがそうさせたのではないか。
倭寇という私貿易または海賊という、後ろめたさがない一国の王として、
堂々と海外との交易事業に着手し、国を富ませることが可能になり、
ここに倭寇の一大国家が琉球になったと考えられないか。
福里教授の平家説ではないが、平家の末裔が、
かつて先祖がおこなった日宋貿易を明に再現し、
夢見た一国一城の主となって国を治めることが出来たと想像するのも楽しい。
ちなみに平清盛は日本初の人口港博多港を築き、瀬戸内海航路を整備し、
大輪田泊(神戸港)を拡張整備して日宋貿易を盛んにした。
平家の残党が水軍と結びつくのは極自然なことであったと思われる。
ただしあくまでこれは私の個人的・ロマンの妄想であることをお断りしておく。
細かく時代を区切ると、初期・前期・中期・後期となるのではないか。
これは私の勝手な独断によるもので、専門の学者の説ではないので了承願いたい。
初期は対馬や壱岐島民らの元寇への復讐による倭寇の発生。
初期はそれへ西国豪族が多数合流した職業的強盗軍団の発生、
活動範囲は東シナ海全域。複数の独立軍団が活動する。
中期は朝鮮人が主体の対朝鮮半島成りすまし強盗団。
後期は中国人主体の多国籍強盗軍団。活動範囲も東シナ海沿岸全域から、
琉球諸島、そして東南アジアまでの広域で、多数の独立組織が活動した。
さて琉球王国はその成立にいくつかの説がある。
羽地朝秀の「中山世鑑」(1650年琉球初の歴史書)では、
源為朝伝説を取り入れ、日琉同祖論を述べている。
羽地朝秀は摂政(せっせい)であり、今の総理大臣職である。
だから彼の編纂した中山世鑑は当時の薩摩との関係から、
歴史書とはいえ、政治的配慮があったといわれる。
これは薩摩の琉球支配を正当化するための補足的史論とされる。
また国語学者の奥里将建の「沖縄に君臨した平家」は
読み物としては面白かったが、ややこじつけが過ぎる気配があった。
しかし平家の落ち武者の一部が沖縄に来ていた可能性は否定できないと思う。
また後で述べるが、私は平家の落ち武者が倭寇になって、
沖縄となんらかの関係を築いた可能性も否定できないと考えている。
琉球諸島と本土との人的影響への考察だが、琉球大学医学部・土肥直美準教授の
形質人類学の近年の発掘研究では、沖縄から発掘される人骨を見ると、
10世紀前後を境に大きく骨格形態が変化しているという。
10世紀以前では縄文系の鼻が低く、目の大きな丸型の顔なのに対し、
10世紀以降では弥生系、即ち大陸系の面長で鼻が高く、
目の細い顔立ちが増えているという。
つまり九州から「倭人」の南下があったということは事実だろう。
10世紀前後の日本本土は平安時代末期から鎌倉時代への移行期である。
ここに琉球王朝が源氏や平氏との関係が推測される背景があるのだ。
まあ事実関係はどうあれ、琉球王朝の成立の背景に関しては、
日本本土と何らかの人的要素が起因していることは間違いないと思われる。
琉球王朝の成立や、外交関係において倭寇がなんらかの関わりがあったのではないか、
という説はとくに目新しいものではない。
恐らく何らかの友好関係にあったことは想像に難くない。
例えば琉球の進貢船が一度も倭寇に襲われたことがないのは、
「大交易時代」と呼ばれる15世紀の沖縄では不思議なことである。
なにせ琉球の貿易船は北は日本の堺や博多、朝鮮、南はジャワ、シャム(タイ国)まで、
交易に出ており、琉球の貿易船は「宝船」であった。
それをみすみす逃す倭寇ではあるまい。
しかしあえて見逃したのには何か理由があるはずだ。
ここで少しこの時代の背景を簡単に見ておく。
倭寇が始まる13世紀から14世紀の琉球は、三山戦国時代であったといわれる。
今帰仁を中心に北山、浦添を中心に中山、佐敷を中心に南山と三つの勢力権があった。
それぞれが勢力争いをしていた。
日本本土では1185年に壇ノ浦で平家が滅亡し、
源頼朝が1192年に鎌倉幕府を開いた。
この平家滅亡の壇ノ浦の戦いに登場する「松浦水軍」という西国武士団がいる。
もともと平戸の松浦党を名乗り清和源氏の流れであるが、
平清盛に認められ平氏方についていた。
しかし壇ノ浦で平氏が絶望的と判断したのか、ころっと源氏方に寝返った。
これが決定的になって平氏は滅亡、敗走したのである。
このとき松浦水軍の一部は敗走する平氏の残党を助け、かくまった。
それが後に倭寇化して独自の道を進み始めたのではないか。
13~4世紀は鎌倉時代から南北朝さらに室町時代へ移行する。
14世紀に足利氏は日明貿易を行うが、
倭寇の活動と区別する為に勘合符を使った勘合貿易を行う。
同時に明国皇帝から倭寇の取り締まり要求を受け、
室町幕府は倭寇化した一部の松浦水軍をとりしまった。
また李氏朝鮮も倭寇の甚大な被害に対して掃討作戦を展開する。
1419年李氏朝鮮は200隻の兵船と約2万の軍勢をもって、
対馬を攻撃した(応永の外寇)。
これらによって倭寇化した松浦水軍の一部は打撃を受けて、
本格的に南下し、南西諸島に活路を見出そうとしたのではないだろうか?
後に彼らが南西諸島へ進出してきたことも想像に難くない。
海上で行動するには必ず寄港地が必用になる。
しかし倭寇=海賊となるとどこの地域でも安全な寄港地とならず、
その場所は自ずと限られてくる。
南進した倭寇が目をつけたのが飛び石伝いに続く南西諸島であった。
ここを寄港地にできれば、中国沿岸や呂宋(フィリピン)にも近く、
そこから阿南(ベトナム)などへも容易くいけるメリットがある。
密貿易も海賊もやり放題の利便性がある。
そこで倭寇は、琉球王朝と相互安全保障条約みたいな取り決めを交わして、
琉球国の各離島を寄港地として、水や食料の補給、乗組員の休養などを提供してもらう。
その代わりに琉球国の進貢船には決して手出しせず、場合によっては他の海賊から守る、
護衛の役割みたいなものを負っていたのではないか。
統一琉球王の第一尚氏の尚巴志の父・尚思紹は伊平屋島出身である。
伊平屋島は沖縄本島北部の離島であり、尚 思紹は本島の今帰仁に渡る。
息子の巴志は本島南部に行き佐敷按司になり、中山王を滅ぼし父を王に据える。
北山、南山を制して三山統一する。父思紹の死後第二代王として王位につく。
この尚巴志は明への朝貢はもちろん、日本、朝鮮、東南アジア方面にまで交易を広げる。
さてここからは私の妄想的独断と偏見を述べていく。
伊平屋島や後の第二尚氏金丸の出た伊是名島は、倭寇の寄港地であったと思う。
もしかすると尚巴志は倭寇の子孫かも知れない。
倭寇の子孫ならば、武士としての教養や剣術など文武両道を身につけ、
充分に戦国時代の沖縄でも実力を発揮することが出来たと思う。
この海外交易への野望は、恐らく、尚巴志が松浦水軍の遺志を継ぎ、
倭寇の血を引く者のDNAがそうさせたのではないか。
倭寇という私貿易または海賊という、後ろめたさがない一国の王として、
堂々と海外との交易事業に着手し、国を富ませることが可能になり、
ここに倭寇の一大国家が琉球になったと考えられないか。
福里教授の平家説ではないが、平家の末裔が、
かつて先祖がおこなった日宋貿易を明に再現し、
夢見た一国一城の主となって国を治めることが出来たと想像するのも楽しい。
ちなみに平清盛は日本初の人口港博多港を築き、瀬戸内海航路を整備し、
大輪田泊(神戸港)を拡張整備して日宋貿易を盛んにした。
平家の残党が水軍と結びつくのは極自然なことであったと思われる。
ただしあくまでこれは私の個人的・ロマンの妄想であることをお断りしておく。
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