てぃーだブログ › トラネコ日記 › 社会 › 死刑が復讐で何が悪い!

死刑が復讐で何が悪い!

2012年02月22日

光市事件
不条理をテーマにした小説「異邦人」などで知られるアルベール・カミュ(1913~60年)は死刑廃止論者だった
▼ノーベル文学賞受賞(57年)の半年ほど前に書いた「ギロチン」と題する論考は、故郷アルジェリアでの父親の思い出から書き起こしている。
それは第1次世界大戦が始まる少し前、子供たちもろとも農民一家を虐殺した男に対する公開処刑が行われた際の出来事だ
▼カミュの父親は犯人に憤慨し、群衆に交じって町外れにある刑場に赴いた。だが、その日に目撃したことを後に誰にも語ることはなかった。
母親がカミュに話したところによると、気の転倒した面持ちで帰宅した父は口もきかずにベッドに横たわり、嘔吐(おうと)したという
▼作家の幼少期の心によほど深く刻まれたのか、類似エピソードは「異邦人」にもある。
カミュは精緻に論を組み立て「死刑の本質的な姿は犯罪の予防ではなくて復讐(ふくしゅう)だ」と説いた。その24年後、フランスは死刑を廃止する
▼山口県光市の母子殺害事件で、最高裁は犯行当時18歳と30日だった被告に死刑を言い渡した。遺族が強く極刑を求め、注目された事件だ。
「当然」と受け止める人もいるだろう。一、二審判決は無期懲役だった。少年犯罪の厳罰化に暗然とした思いを抱いている人もいるはずだ
裁判員として同種の事件を裁く立場になったら―鉛をのんだように胸が苦しい。

北海道新聞 卓上四季 2012・2・21
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/fourseasons/352159.html



前回の光市事件の死刑判決のエントリを書いたあと、
こんな記事を見つけたので死刑と復讐について考えてみたい。
同時に人権屋がよく言う国家の名の下に死刑はけしからんww
についても考えてみたいと思う。


北海道新聞も売国左翼の地方新聞の代表である。
今はどこの地方紙もほとんど売国紙だから、ここも特別な存在ではないな。
この記事の言わんとすることは当然死刑廃止である。

いや~しかしあの文豪で実存主義哲学のカミュ先生が、
私と同じ死刑概念をお持ちだったとは光栄である。
しかしカミュが死刑廃止論者だったというのは知らなかった。

死刑とはカミュの言うように、社会正義の実現とか犯罪抑止などではない。
そう、死刑とは復讐なのである。そして復讐権は基本的人権である!
ただし死刑には犯罪抑止効果はあるというデータもあるらしい。

日本も江戸時代までは復讐は社会的に公認された権利であった。
身内(年長の親族)を不当に殺害された相手に対する報復である。
これは仇討ち・敵討ちと呼ばれた。

仇討ちはきちんと法制化されお上の手続きをへて許可された。
まず所属する藩や奉行所に願書を出し、認可を得て幕府にも届け出る。
そこで許可が下りれば仇討ちの実行がOKとなる。
もちろん仇討ちの許可を得た殺人はお咎めはない。

江戸時代に書かれた日本三大仇討ちは戯曲にもなっている。
1193年曾我兄弟の仇討ち『曽我物語』、1634年伊賀越の仇討ち『鍵屋の辻の決闘』
または『伊賀の水月』、1702年おなじみ赤穂浪士の討ち入り『忠臣蔵』である。

ただし仇討ちが許可される被害対象は年長の身内の者に限ってである。
赤穂浪士のように仇討ちが君主の場合は認められないのである。
それゆえ吉良家討ち入り後、四十七士は切腹を命じられたのである。

また仇討ちはあくまで武士階級にのみ認められた権利であったが、
実際は庶民の間でも行われることがあり、刑罰の対象になっていたが、
当時の風潮から処罰も大目に見られることが多かったらしい。

そうすると、現実には仇討ちされた側も黙っていないことも多い。
やったらやり返す、さらにまたやり返す、そしてまた・・・・
復讐の連鎖が延々と続くことになっていったのだ。

それで明治新政府になってから復讐禁止が法で決められた。
1873年に司法卿・江藤新平が復讐禁止令を公布した。
(仇討ち禁止令。太政官布告第37号)

仇討ち禁止令公布後は、個人の復讐を政府が代行するという、
国家権力復讐代行システムにとって代わったといえるだろう。
少なくとも私はそのように解釈している。

これは応報刑論の考え方である。
私はインマニュエル・カントの絶対的応報論を支持している。
犯罪の対価として同等の苦痛と損害を犯人に与える考え方である。
つまり死刑に限らず刑罰は復讐の一つと考えるのである。

復讐心を悪なる感情ととらえるならば、悪でない人間はいないのではないか?
自分の身内を快楽の餌食にされて殺した犯人を恨み、
復讐を望む感情を持つことは悪いことなのか?

私はこれはごく自然な人間の感情であると思う。

人間の自然な感情行動を認め、社会的に合法性を築くなら、
法学的にもそれを実現する法律を制定すべきなのは、
少なくとも民主主義国家と、その社会を構成する国民の役目である。

そこで・・・

明治になって近代刑法が公布されてから仇討ち・敵討ちは、
法によって厳重に禁止されたが、それは上述したように、
復讐の連鎖を防ぐことと同時に、国民の殺人を犯す権利を、
近代国家が是認することを認めないからである。


ただし正当防衛と戦争への参加に関してのみ、
国家は一般国民にも殺人を認めるのである。

だから司法権を持つ警察官は拳銃を携帯し、場合によっては犯人に、
発砲殺害する権利が付与されている。また軍人も同様に、
国家の命令で殺人を実行する業務が規定されているのだ。

つまり・・・

国家権力は殺人の許認可権を保有しているのだ。
交戦権と正当防衛権を法律的に認めるすべての国において、
死刑執行(禁止するしないは別として)はなんら人道に反するものではない。

ただし、シナ・北朝鮮・シリアのような人権思想がなく、
国民の意見が政治に反映しない独裁政治システムでは、
民主主義国家の刑罰や死刑とは、かなり意味合いが異なってくるだろう。

これらの国では平気で国民を大量虐殺することが正当化されている。
日本の人権屋や反戦平和屋は、こういう国家が大好きな連中である。


大体死刑廃止を唱える日本の人権屋など、ほとんど左翼系である。
政党でいえば民主・共産・社民のイデオロギー政党である。
左翼の大元はマルクス主義である。

マルクス主義とは共産・社会主義である。(社民思想が別)
歴史的にマルキストの国家は大量虐殺してきているし、
現在もシナ共産党、朝鮮労働党の国家では大量の虐殺を、
国家のもとに正当化しておこなっている。


日本の人権屋どもはこういう非人道的国家にシンパシーを感じ、
シナ・チョーセンを擁護し、支援し、殺されている国民を助けない。
いわば悪魔の団体が日本の人権団体である。

人権屋のいう死刑廃止論など笑止千万である!


さて、そこで北海道アホ新聞への突っ込みを入れる。

>▼カミュの父親は犯人に憤慨し、群衆に交じって町外れにある刑場に赴いた。
  だが、その日に目撃したことを後に誰にも語ることはなかった。
  母親がカミュに話したところによると、気の転倒した面持ちで帰宅した父は
  口もきかずにベッドに横たわり、嘔吐(おうと)したという

だから何なんだ、道新?
要するにギロチンの処刑を見て、親父さんが具合が悪くなったということだろう。
私とてTVニュースの死体みただけでも具合が悪くなるんだもん、
実際に断頭台の処刑をみれば、常人の感覚ならこうだろうな。

ギロチンで首を切り落とす処刑方法が残酷なのは認めるが、
しかしこれと死刑廃止論とはまったく関係ないことだ。
道新の記事は死刑が残忍だから禁止しろと暗に言いたいだけだろう。
安っぽい世論誘導である。


>▼作家の幼少期の心によほど深く刻まれたのか、類似エピソードは「異邦人」にもある。
  カミュは精緻に論を組み立て「死刑の本質的な姿は犯罪の予防ではなくて
  復讐(ふくしゅう)だ」と説いた。その24年後、フランスは死刑を廃止する

これも部分のつなぎ合わせで死刑廃止~といいたいのだろう。
確かに死刑は復讐だと私は思うが、それが悪いとは思わないのは上述の通りである。
また、カミュは日本の安っぽい人権屋のいう死刑反対論者ではなかったらしいが、
これは別の機会に考察し述べてみたい。

それで、何? 人権屋みたいにカミュは死刑廃止運動でもやってたのか?
フランス政府はカミュの意見を聞いたから死刑廃止したのか?
私は知らんけどな・・・


>▼裁判員として同種の事件を裁く立場になったら―鉛をのんだように胸が苦しい。
これは個人差があるだろう。
私が裁判員なら何の躊躇なく、光市の事件の場合なら死刑を出す。
むしろ大月孝行を生かしておくことのほうが『胸が苦しい』。





同じカテゴリー(社会)の記事

Posted by トラネコ at 16:00│Comments(6)社会
この記事へのコメント
日本のあだ討ちについて西洋人のこのような解釈があるのです。

武士があだ討ちをするため相手に向かう正にそのとき、恐怖に駆られた相手が武士の顔に唾をかけた。武士はかっとなり感情的になった。
そのとき武士は抜いていた刀をしまい黙って立ち去った。

この解釈ですが、彼は感情的に相手を憎み殺そうとするのではなく、理不尽な事に対し正そうとしているのみで、相手を憎んでいるわけではない。たぶん正確には同じ生き物としての哀れみがあるということでしょうが、その行為は許されない。
重んじるのは名誉である。

.>ありとあらゆる困難と苦境に、忍耐と高潔な心を以って立ち向かうことを武士道は教えている。そうすることで初めて真の名誉を得ることができるのである。真の名誉は、天から自分に与えられた使命をまっとうすることである。そのために死すことは不名誉なことではないが、天が与えようとするものから逃げようとすることは卑怯なことであった。
>http://yururi.aikotoba.jp/samurai/spirit/nitobe3.html

木村氏の態度は武士に通じるものがあると思いました。
私はトラネコ さまの考えを否定したり議論しようと思っているわけではないです。復讐心も素直な人の心でしょうから。

何で私がこのように書いたか、今わかりました。たぶん、親から「罪を憎んで人を憎まず」と教わったからですね。(笑)
Posted by 人形焼 at 2012年02月22日 21:29
人形焼 様
書き忘れましたが、仇討ち、敵討ちは、感情的な復讐ではなく、武士としての面目や『家』の名誉を保つためのものだったといわれます。だから武士階級のみに許された特権だったのかも知れませんね。人形焼様のおっしゃることも十分理解できます。

「罪を憎んで人を憎まず」は素晴しい人生訓であると思います。私もこのような気高い寛大さを持てる人間でありたいと思います。ただ近年海外に暮らしていると、やはり日本にしか通用しない論理や価値観は、良くも悪くも確かに存在すると実感するのです。いや日本国内においても在日など実に特殊な感性や価値観の生物がはびこって、政界やマスゴミ界に工作している現状や、在日などの凶悪犯罪に感化される日本人を見るにつけ、性悪説は必要な価値観だと思うようになりました。

また以前は思わなかったのですが、天才という人種がいるのと同じように、『生来の悪人』なる者もこの世にいると考えるようになりました。社会環境による人間形成も認めますが、悪の遺伝子ともった人というのもいると確信するようになりました。そして民族的にもそのような民族がいるのだと思います。もちろんだからといって、ヒトラーみたいな考えは同意しませんが、しかし安全のためには、極力排除し自己防衛する権利が個々人も民族にもあると思います。

ま、日本人の性善説という考えも、時代の転機を向かえたのではないでしょうか。また素直な復讐感情は誇張する必要はないにせよ、単なる宗教観や左翼的似非ヒューマニズムなどに影響されず、人間の素直な気持ちとして大事にしたいと思います。

死刑制度は社会正義の実現や犯罪抑止力に貢献する、しないという議論も大切かと思いますが、少々きれいごと過ぎるように思いました。単純に『罪を犯す人間』を憎んでもいいように思うのですが・・・済みません、未熟な人格なもんで・・・
Posted by トラネコ at 2012年02月23日 04:05
トラネコ さま

私は誠実さと勇気をもって書かれている事に敬意を持っています。
私もトラネコ さまのおっしゃる事わかります。

思うにこの事は、綱渡りのようなものです。細心の注意で綱をわたらないと落ちてしまいます。
Posted by 人形焼 at 2012年02月23日 09:08
人形焼様
恐縮であります。
ブログというのは普通の国民がネットという媒体を通じて、意見などを発信する手段ですから、それまでの放送局や新聞、出版社などの極めて限られた人のみの意見の発信場所から、無限の広がりを実現したことは大きいと思います。

私がネットのサイトやブログに接して感じたことは、名もない普通の国民の知的レベルの、いかに高いことかということでした。むしろ新聞記者や評論家などの上から目線のエラそーな『ご意見』などより、遥かにレベルも高く見識に富んだ内容のものが無数にあります。毎日新聞みたいにあの子供の作文紙など、お金をだして購読する価値はまったくないこともわかりました。

新聞の時代は終わりですね。今のような偏向丸出しの新聞は不要です。これからの国民はいかに価値ある情報を取捨選択するかということが課題でしょうね。
Posted by トラネコ at 2012年02月23日 10:39
>日本にしか通用しない論理や価値観は、良くも悪くも確かに存在すると実感するのです。

私も欧州に合計で4年ほど住んだ経験がありますが、「日本人の性善説」というのは日本でしか通用しないと痛感しています。 おそらく、日本以外の全ての国では、『性悪説』『人を見たら泥棒と思え』の態度を保たなければ生きていけないのではないでしょうか。 海外では、他人を気安く信じると、いつ騙されて身包み剥がされることになるか分かりません。 常に、自分の身は自分でしっかり守らなければならないのです。 水と安全はタダというのは、日本だけです。

報道で耳にしたのですが、日本のお嬢さん達が憧れのフランス・パリに住んで、社会が日本と全く異なることにショックを受ける例が多いそうです。 実際のパリは人間関係が冷たく、がさつで、普通の人々はおしゃれとは程遠く、想像していたお洒落なパリジャンなどほとんど存在しない。 特に、若い日本女性は不良フランス人男性にとっては格好のカモであり、性と暴力で縛られて金を巻き上げられ続けて最後には捨てられる事件が後を絶たないとのこと。 さらに現地では、彼女達は誰からも同情されず、逆に警戒しない本人が悪いと馬鹿にされることも容易に想像されます。

海外で生活したことがない普通の日本人は、日本がいかに清潔で安全で、人が優しく、食事が素晴らしく、一般国民の民度が高く勤勉で、高度な文明と文化を有しているのかを知りません。 逆に日本は駄目な国であると信じたり、日本の国や社会を守ることの大切さを理解できていない人が多いのは、とても残念なことです。
Posted by もえおじ at 2012年02月23日 14:52
もえおじ様
まったく同感です。
日本という国はやはり世界でも特殊な国なんでしょうね。というか、極東アジアの国々は変な国ばっかりかも知れません(笑)。でも近年考えることですが、日本って俗に『世界で最も成功した社会主義国家』と冗談と真面目混在で言われます。或る意味人類が目指すべきお手本みたいな国なんじゃないでしょうか?これっていい過ぎですかね?

自分も日本に帰るたびに、持ち物に神経を使わなくていいことにホッとします。先日のこちらの図書館で調べもので数分席をはずした隙に、机上においた筆箱を盗まれました。安心した自分がうかつだったです。

自分も若いころは日本は駄目な国だと思ってました。もっともそういう教育を受けてきましたから、南京大虐殺も信じてましたし・・・やはり自分の国を誇れる教育は必要ですね。もちろんお隣の半島生物とは違う意味で。
Posted by トラネコトラネコ at 2012年02月23日 15:08
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。