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低学力の「擬似」大学は要らない。

2014年11月15日

L型大学とG型大学、一流以外は職業訓練校に
── 日本の教育と産業構造の行方は?
文部科学省の有識者会議で提案されたL型大学とG型大学というキーワードをめぐってちょっとした騒動になっています。提案内容が、旧帝国大学と早慶といったいわゆる一流大学以外の大学は、アカデミックな教育をやめ、職業訓練に専念すべきという刺激的なものだったからです。


L大学とG大学とは?

この提案を示したのは、経営共創基盤CEOの冨山和彦です。冨山氏は著名な経営コンサルタントで、産業再生機構のCOOを務めた人物としても知られています。冨山氏によれば、日本はグローバルに戦うごく一部の人材と、地域密着型の仕事に従事する多数の人材に二極分化しているとのことです。

圧倒的に多数を占める、地域密着型の労働者の生産性を上げなければ、日本経済全体の底上げは難しいとして、一部の大学を除き、カリキュラムを職業訓練的なものに切り替えるべきだと主張したのです。いまの大学を、グローバル人材を育てる「G(グローバル)型大学」と、職業訓練校的な教育をほどこす「L(ローカル)型大学」とに分けて、教育しようというわけです。

具体的には、職業訓練大学の経営学部や経済学部では、難しい経済理論を教えるのではなく、会計の基本知識や弥生会計といった会計ソフトの使い方を学ばせることを想定しているようです。


低学力の「擬似」大学は要らない。



当然といえば当然ですが、この提案に対しては賛否両論が出ています。

肯定的な立場の人は、現在の大学教育があまりにもビジネスの現場から遠いことなどを引き合いに、就職に結びつきやすいカリキュラムにすることは学生にとってメリットがあると考えているようです。一方、否定的な人は、大学のカリキュラム分離が一種の階層の固定化につながる可能性があることや、実利ばかりが重視され教養が軽視されることなどを懸念しています。

これはあくまで冨山氏の提案で、具体的な議論はこれからなのですが、冨山氏が指摘する日本経済の状況とその対策は、かなり本質を突いたものであると考えられます。ここ20年、日本や米国、ドイツといった先進工業各国は、韓国や中国といった途上国の躍進を前に、自国の産業をどう展開するのか選択を迫られました。

米国はグーグルやアップルといった超先進的な製造業、あるいは知識産業や金融業といった高付加価値サービス業に集中する道を選択し、従来型の製造業の存続はあきらめました。ドイツは製造業中心の産業構造を続けていますが、すべて高付加価値なものにシフトしています。いずれも痛みを伴う産業構造の転換を実施したわけです。

一方、日本は米国型を選択しなかったものの、ドイツ型にもなっていません。工場の海外移転によって製造業の輸出は減りましたが、ドイツよりも内需が厚いため、国内需要だけでも産業をなんとか成り立たせることができます。このため、付加価値の低いサービス業が数多く存在する状態になっています。

この先、日本が産業構造を大きく変えなかった場合、日本の労働者のほとんどは、外食、介護、建設、流通といった従来型サービス業に従事する可能性が高くなります。そうなってくると、この部分の生産性を上げない限り、賃上げは難しいですし、GDPも増えないということになるでしょう。

もしそうだとすれば、多くの大学を何らかの形での職業訓練校にするというのは、意味のあることと考えられます。
(The Capital Tribune Japan)
THE PAGE 2014.11.07
http://thepage.jp/detail/20141107-00000003-wordleaf?utm_expid=72375470-20.R0Pqy_MbRfeXQAc6SF7PFQ.0&utm_referrer=http%3A%2F%2Fwww.2nn.jp%2Fnewsplus%2F
http://thepage.jp/detail/20141107-00000003-wordleaf?page=2&utm_expid=72375470-20.R0Pqy_MbRfeXQAc6SF7PFQ.0&utm_referrer=http%3A%2F%2Fthepage.jp%2Fdetail%2F20141107-00000003-wordleaf


低学力の「擬似」大学は要らない。

             「G型L型大学の区分に全面的に賛成する」
             BLOGOS 大石哲之 2014年10月25日 19:46



圧倒的に多数を占める、地域密着型の労働者の生産性を上げなければ、
 日本経済全体の底上げは難しいとして、一部の大学を除き、
 カリキュラムを職業訓練的なものに切り替えるべきだ

私はこの意見に賛成である。

基本的に日本には大学という名の「変な学校」があふれすぎである。
大学の名にふさわしい学力や専門育成がなされているならともかく、
入学段階で中学校の学力も満足にない「大学」など無くてよい。

・・・っていうか、そんなもの大学じゃないだろwww

底辺大学は学生数の減少にともない経営難になり、
その代替策としてシナ人留学生を大量に受け入れている。
そして安易に学位や修士資格を乱発しているのである。

これは福田康夫元首相のシナ人留学生30万人計画の一環でもある。
彼らがいずれは反日活動のリーダーになり、いざ有事には国内工作員になるのだ。
これは国家安全保障上由々しき問題になっていく可能性が大きい。

こんな危険な大学に私学助成金が支払われているのだ。
私学といっても莫大な国民の税金が投入されているから、
日本政府はここでも税金を使って売国やっているのであるwww


低学力の「擬似」大学は要らない。

              ワシの母校のバカ田大学はいらないのだ~♪


さて・・・

私はすべての人間が大学で高等教育を受ける必要は無いと考えている。
経営共創基盤CEOの冨山和彦氏の言うように、地域に密着し地域を発展させ、
基礎技術を磐石にする教育が必要だと思う。

またそれがハイテク産業を発展させてきたのである。
日本が「職人国家」として数千年の技術蓄積を行ってきた、
歴史を維持発展させる必要性があると考えるのである。

それに日本は職人や技術を大事にし尊ぶ伝統のある国である。
これが現在のハイテク産業と先進技術の発明を支える基盤なのである。
シナや朝鮮が逆立ちしても日本を追い越せない理由がこれである。


低学力の「擬似」大学は要らない。



以前私は高校の専門学校化=多様化を述べたことがあった。

一律的な普通科中心の悪平等主義の高校制度を止めて、
専門性や特性科目を生かした多様化した高校制度を、
充実させてはどうだろうか?というものであった。

工業、商業、農業系に加え、保育、調理、芸術、介護、福祉・・・
もちろんこれらは今もあるのだが、まだまだ少数なので、
さらに拡充するというものである。

今は同世代の半分が大学進学する時代だというから、
冨山和彦氏のような意見が登場するのだと思うが、
基本的に私が昔述べた意見の大学版と同じだと思う。


低学力の「擬似」大学は要らない。





一方、否定的な人は、大学のカリキュラム分離が
 一種の階層の固定化につながる可能性があることや、
 実利ばかりが重視され教養が軽視されることなどを懸念しています。

階層の固定化などするわけない。
インドのカースト制や全体主義国家で無い限り、階層は固定化などしないし、
階層から抜け出すのは本人の努力で何とでもなるのが日本である。

江戸時代の士農工商の身分制度でさえも、固定化などしていなかった。
あの身分制度もきわめて流動的であったことは歴史が証明している。
歴史の偉業をなした人々は町人階級から数多くでているではないか。

さらに・・・

家業や職業を子孫が継ぐことを社会階層の固定化という考えてはいないか?
西欧でも親子代々に渡ってひとつの職業を引き継ぐ家系がある。
ルイ・ヴィトンやエルメスなどのブランドもそうしたものであろう。

これが日本の産業技術の発展に貢献してきたのだと思う。
日本では創業100年以上の会社や老舗が10万以上もあるという。
このことからも同一職業階層の固定化が悪いはずがない。

たとえば大企業の研究部門などには親子二代、三代というのも珍しくない。
これも日本の産業育成と発展のひとつの特徴ではないだろうか。
ある意味、現代版徒弟制度みたいなものではないか。

これは社会階層の固定化ではなく、自分の職業に誇りを持って、
代々引き継いできた証拠であろう。嫌なら継がなきゃいいだけの話であり、
それを社会階層の固定化というのは、短絡的な馬鹿サヨ的発想だと思う。。


低学力の「擬似」大学は要らない。

           西欧では職人養成学校なるものがあるそうだ、
           そういえばものつくり大学なんてのもあったな・・・


実利ばかりで教養軽視というならば、
総合大学に一学部そういう部門を設ければいい。
或いは私学が高度な教養専門学科・学部を担当するのもよい。

何もすべての大学が技術的専門性に特化することもないし、
文学部など、まあ教養以外にメシの種にはならない学部もあっていい、
そこは柔軟に考えればすむことではないか。

一般教養といえば・・・

現在みたいな教養課程2年必須制は実に無駄である。

大学に入学してまで高校に毛の生えた授業などいらない。
なくす必要はないにせよ、1年或いは半年に短縮した形式で、
もっと専門性に教育課程を集約した方がいいと思う。


最後に・・・

「グローバルな人材」などと、意味不明な言葉が飛び交っているが、
外国語を話せて何かの技術や、教養を持っているだけの人材では話にならない。
そんな人材なら外(害)務省にはゴロゴロいるが、職能的にはほとんど役立たずである。

国際人とかグローバル人材などという言葉を安易に解釈し、
無国籍人間みたいに思っている企業人も少なくないのだが、
いわゆる国際的に活躍できる人材を「国際人」と解釈するならば・・・

まず何よりも・・・

日本人としての文化的教養と矜持を持ち、異文化理解をするが、それに感化されないアイデンティティを備えた専門的人材でなければならないと、私は思う。

そういう人材作りも大学教育には必要だと思う。


低学力の「擬似」大学は要らない。

           売国左翼のエリートしかいなくなるのも問題だけどな・・・




低学力の「擬似」大学は要らない。

         グローバル人材などよりも、主体的に物事を考える人材造りだな・・・




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Posted by トラネコ at 00:00│Comments(2)社会
この記事へのコメント
大学というもの自体が、帝国大学であれ、権威の権化で何も役に立ってません。大学が役に立ってるのであれば、年間数万人の自殺者など出さなくて済み、国を売るようなこともしなければ、戦争で負けることも、税金を上げて動物に貢ぐ事もありません。寺子屋、藩校、私塾出身者は、戦争に勝ち、国際的な位置づけも上げてくれました。大学卒業生は、その上に胡坐をかいた揚句、いくら大義があった戦争であっても、戦争で負けてなお、他者に責任を擦り付けて、戦後も要職の一角を占めていたこと、更に現代に至っては、私のような、知ったかぶりをあちこちでわめいて、鼻につくことを言って周りを困らせる人物さえ出現してきた、そう考えると、教育された人が、如何に有為の人材になってくれるかですので、寺子屋、藩校、薩摩の郷士教育、塙保己一、その他江戸時代に居たの専門の学者たちのように、師弟関係で学びたい人が学べばいいと思います。

特に医学も、職能的なものに重点を置くべきだと思います。大学病院では、人事争い、私立の大学病院に負けてる、特に、手術などの医療行為はどう考えても、手先が器用な切れ者じゃないと怖いですからね。ペーパーテストで教養もあるけど、上から目線でなのに本番ビビるでは心もとないです。
Posted by やま at 2014年11月15日 20:08
やま様
ご指摘の点は一理あると思いますが、やはり個々人の学びの意義と目的ではないかと思います。私に関して言いますと、正直、大学の講義で勉強になったと感じるものは専門にはほとんどなく、教育学でかなり学ぶものがありました。専門は自主学習で技術も知識体得し、教授からはあまり得るものはなかったと感じています。それでもそれが社会人になって職業においても、その他いろんな分野で役に立ちましたし、自虐史観からの脱皮にも役立ちました。

まあ、学習や研究というなら、大学が必ずしも必要ではないと思います。エジソンなどは小学校もロクに通わず、母親の教育であそこまで偉業をなしていますし、要は本人の意思と目的意識ではないでしょうかね・・・
Posted by トラネコトラネコ at 2014年11月16日 03:18
 
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