前回に続いて日本絵画の「
余白」を考えて見たい。
既に述べた様に、
西洋絵画では絵画とは三次元空間の二次元上での再構築である。
ところが日本の絵画はその表現目的が哲学的、
あるいは現象の本質の表現を目指す、と私は独断した。
なぜ日本画では余白を多くとった作品が描かれたのか。
これを考えていたときに
千利休と豊臣秀吉の朝顔の話を思い出した。
千利休の茶室のまわりの庭に朝顔の花がきれいに咲きそろった。
秀吉はその話を聞き、早速翌日朝顔を見に行くことを利休に伝えさせた。
翌朝秀吉が利休の茶室の庭に入ってみると、
朝顔の花などどこにも咲いていなかった。
秀吉はそのまま帰るのもなんだから、ちょっと茶室の中を覗いてみた。
すると、床の間に一輪のきれいに咲いた朝顔の花が生けられていた。
ひなびた薄暗い茶室の中に、一輪の朝顔の花の独自の美しさが強調されているのだ。利休はこのたった一輪の朝顔の美しさを秀吉に伝えたかったのだろう。
この一輪の花の美しさを表現するために他の何百本もの花を切り落としたのだった。
西洋では例えば「
百万本の薔薇の花」のほうがおそらく美的には価値があるだろう。
ベルサイユ宮殿あたりの庭にずらっと咲き誇る百万本の薔薇の花に人は感動するであろう。
もちろんこれはこれで日本人の感性でも豪華絢爛ですばらしいとは思う。しかし西洋人に利休の一輪の朝顔の花の話は理解しにくいのではないか。
話を
余白の美にもどそう。
実は一輪の朝顔の花の話はこの余白の美に関係あると思ったのだ。
西洋絵画では何も描かれていない空間は未完成の部分でしかない。
なぜなら三次元空間において何も無い空間はないからだ。
例え空気しかなくともそこは空であったり、遠くの景色であったりするから、
かならず具体性のあるものを描き入れなければならない。
真っ暗な夜であったら「闇」を描かねばならない。
だから
西洋絵画には未完成とエスキース(習作)以外、余白のある絵は存在しない。
日本の伝統絵画では対象の外見形態の再現を目指すのではなく、
対象の本質をいかに表現するかというコンセプトがあると述べた。
ものの本によると、西洋の空間表現は
有限空間で、日本は
無限空間であるという。
無限空間とは精神的空間という意味なのだろうか?
実は私はよくわかっていない(笑)
酒井抱一の名作「
秋夏草図屏風」である。これは宗達の風神雷神図、尾形光琳の紅白梅図屏風を意識したものらしい。
驟雨に見舞われた夏草と,強風に靡く秋草を描いた作品である。 右斜め上にある水の流れは俄かにできた雨の川である。
しかもこの構図は写生されたものではなく、抱一の美的感性が構成した哲学的空間である。
抱一は
突然の驟雨と風を夏草、秋草そして俄かにできた雨の流れで表現したかったのだろう。それ以外は一切よけいなものとして付け加えていない。
余白の意義は描かれた対象やテーマの本質的なる部分を引き出す演出効果であると考える。西洋絵画でも同じ発想はあるとは思うが、
日本の余白はあえて描かない部分の構図、構成をどうするかが重要な絵画制作の課題だったと思うのだ。
これは西洋人からみれば、余白はいわゆる「手抜き」に映るかもしれないが、日本画では
描かれた部分と描かれない部分は実は同等の価値が存在するということだ。
極めつけは以前にも取り上げたが、
天才円山応挙の氷図である。もはやここに描かれたのは池の凍った水面のひび割れのみである。このヒビによって凍てつく冬の寒さを見る者に感じさせるのだ。余計なものが描かれていない分、それだけ氷の亀裂が強調されてくる。しかも余白の部分がはるか彼方に冬の寒気の広がりをイメージさせる。
この絵を見ると先に述べた「
描かれた部分と描かれない部分の等価値」が理解してもらえるのではないだろうか?
あくまでこれも私の独断と偏見による試論である。
誤解、浅学は充分承知の上である。