馬鹿平等主義は不滅です!?
2009年02月14日
久しぶりのボヤキブログを更新する。
たまたま先日Webに出ていた記事である。
鳥取の小学校は「学級委員長」なし 「なれない子供が傷つくから」?
2月12日19時25分配信 J-CASTニュース
鳥取県の公立小学校には「学級委員長」がいない。リーダーを決めれば差別につながる、との抗議を人権団体などから受け自粛した結果なのだそうだ。しかし、2009年春から鳥取市で1校だけ20年ぶりに「学級委員長」が復活する。市の教育委員会が2、3年前から子供達の社会性、自主性を育てるために復活を呼び掛けてきた成果らしいが、後に続く学校が現れるかはわからないという。
■徒競走もコースを変え、同時にゴールする
鳥取県の公立小学校が「学級委員長」を無くしたのは、人権団体などから「委員長になれなかった子供が傷つく」「自分にはできないと劣等感が生まれる」などの抗議があり、自粛が全県に広がったためだという。図書委員、保健委員といった担当者はいるが、これらの委員は全て横並びの関係にしている。また、「差別」の観点から、運動会の徒競走でも全員が同時にゴールできるように、走るのが遅い子供に対しては、コースをショートカット(近道)したり、スタートラインを他の生徒より前にしたりする学校もあるのだそうだ。
そうした中、鳥取市では2009年春から1校だけだが「学級委員長」を復活させる。鳥取市教育委員会はJ-CASTニュースの取材に対し、「横並びで生徒は『誰かがしてくれるだろう』と考え社会性、自主性が育たない。2、3年前から市内の小学校に委員長の復活を呼び掛けてきた」と打ち明ける。人権団体とも交渉し「苦情は受け付けない」と突っぱねたのだそうだ。
<中略>
■愛媛県は半数の小学校に「委員長」がいない
そのうえで、「指導要領を見ても、子供の自主、自立という言葉が盛んに使われている。さらに、みんなをまとめて行くような人材、リーダーを育てていかなければならないとも考えている」と復活する理由を語った。
ただし、市の教育委員会によれば、「湖南学園」に続き市内で復活させる小学校が出るのかどうかは分からず、県内の地方の小学校ほど復活は難しいのではないか、と話している。小学校の「学級委員長」を「人権」の視点から無くす自治体は大阪以南に多い。愛媛県が04年に調査したところ、同県の約半数の小学校が「学級委員長」を置いていなかったそうだ。同県の教育委員会はJ-CASTニュースに対し、「様々な子供に活躍の場を与えることを目的に、リーダーの固定を避けているのだろう。必ず学級委員長を置かなければならないという規定はないため、それぞれの学校の判断に任せている」と話している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090212-00000002-jct-soci
今さらながらこの悪平等主義ならぬ、「馬鹿平等主義」と私が呼んでいる
キチガイ思想団体は健在である。
すでに20年以上前に、お手手繋いで徒競走というのがあったが、
いまだに同じような馬鹿をむさぼって商売できる団体が蠢いている。
馬鹿を売り物して飯が食えるこの国って、
別な意味で素晴らしい!
しかも馬鹿団体の主張には「ごもっともでございます!」と、
平身低頭して素直に言うとおりにする、
主体性のないイカレた学校長というのも、
実に馬鹿さが香ばしいではないか。
ここで一句。
お馬鹿さもほどほどにせよ教育界
政治も阿呆太郎などと揶揄されても恥じない首相をいただく日本である。
しかもその阿呆にもまともに太刀打ちできず、外野で騒ぐしか能のない馬鹿野党。
オール馬鹿総出演の馬鹿ステージが今の政界だから、
教育も馬鹿丸出しの行政があっても、なんら不思議はない。
いまの日本の不幸の一つは国を引っ張るリーダーが、
政界の与野党のどこにもまったくいないことだ。
単なる利権と名誉心の亡者の集団が、いまの日本の政界である。
今の日本はまさにお馬鹿天国である。
これでも滅びない神州不滅の日本は、世界の七不思議に入るのではないか・・・
さて・・・
リーダーを決めることは差別なのだろうか?
世界中の学校でクラスや学校のまとめ役としてのリーダーはないのだろうか?
人権馬鹿団体にはリーダーはいないのだろうか?
あの人権思想華やかな日本共産党ですら、
厳然とした階級組織を形成し、トップは東大卒しかなれない
徹底したエリート主義集団である。
同じく人権にうるさい弱者の味方の公明党も、
池田名誉会長を神のごとく崇め、創価学会への貢献度に応じた階級制度が
厳然と存在するときいたことがある。
どの社会にも集団ができれば、必ずリーダーはいるものだし、
また必然的にリーダーは出来上がってくるものである。
猿や鹿や狼の世界、渡り鳥の社会も群れを導くリーダーがいるし、
蟻や蜂の社会も高等動物とは意味合いが異なるが、
ヒエラルキーが形成されリーダーのような位置づけが存在する。
それが生物学的にも自然なのではないのだろうか?
むしろ優秀な子供の素質を摘み取り、
素質を伸ばすことを拒否する教育は差別ではないのか?
人間は生まれたときから能力差をもって生まれてくるのである。
それがどんな素質でどれほどの能力かはわからないが、
誰もがすべて違った能力や才能をもって生まれてくることは事実だと思う。
数学が出来る能力、歌が上手な能力、何かを作る能力、物事を処理する能力・・・
リーダー性もその能力の一つに過ぎない。
それを差別の一言で切り捨てる単純馬鹿さに脱帽!である。
かなり昔の話だが、自己啓発教育をやっているある女性がいた。
彼女は夫と二人の子を持ち、子育てをしながら社会へ啓蒙活動をしていた。
人間的に私は嫌いなタイプだったが、ある意味立派な方である。
この女性が「お手手繋いで徒競走」の熱烈な支持者であった。
なんでも彼女は体育が苦手だったので、
運動会の徒競走はいつもビリで恥ずかしかったというのだ。
だから足の遅い子供の気持が良くわかるというのだ。
足の速い子も遅い子も「平等に差別なく」ゴールインすることは「弱者救済」の
「思いやりの精神」に繋がるというのだ。
そして「お手手繋いで徒競走」の学校を大評価していた。
まったく馬鹿人権団体の「徒競争」は差別に繋がる思想と同じである。
そこで意地の悪い私はすかさず彼女に尋ねた。
彼女はいわゆる優等生タイプで勉強が良くできたらしい。
「勉強の出来ない子供の気持をあなたはわかるのだろうか?
私は小中学校時代、勉強ができなかったので、
すごくコンプレックスを持っていた。試験のたびに恥をかいた。
だったら私のような出来の悪い子供のために、
すべてのテストは白紙で出そうが、間違いだらけで出そうが、
全員100点つけてあげても構わないのか?」
この問いに彼女は返答しなかった。
私は昔札幌で中学校教員をやっていたころに、
「お手手繋いで徒競走」の話を生徒にして、
生徒からの意見を聞いたことがあった。
生徒からは、意外にもこの馬鹿平等主義への批判が相次いだのだった。
一番多かった意見は「徒競走の意味がない。」、
「勉強はできないが、運動の得意な子が浮かばれない。」というものだった。
私もまったく同感である。
生徒のほうが、日教組や人権団体よりかなり人権感覚はまともである。
教職員組合も、人権団体もまあどちらも馬鹿同士だから、
言ってもしようがないが、区別と差別の違いがわからない。
また正当な評価と差別の違いもわからない。
こんな当たり前のことすら理解できない拙劣な知性しかないのだ。
そしてこんな人権馬鹿が学校教育に圧力をかけ、
教育界を監視しているのだから、何をかいわんやである。
しかもまともに正論をもって、反論できない各校の校長も馬鹿教師である。
一応教育委員会の対応は評価できるが、指導力があまりにもなさ過ぎないか?
やっぱり情報遮断は続けるべきだった・・・
気分が悪い。
たまたま先日Webに出ていた記事である。
鳥取の小学校は「学級委員長」なし 「なれない子供が傷つくから」?
2月12日19時25分配信 J-CASTニュース
鳥取県の公立小学校には「学級委員長」がいない。リーダーを決めれば差別につながる、との抗議を人権団体などから受け自粛した結果なのだそうだ。しかし、2009年春から鳥取市で1校だけ20年ぶりに「学級委員長」が復活する。市の教育委員会が2、3年前から子供達の社会性、自主性を育てるために復活を呼び掛けてきた成果らしいが、後に続く学校が現れるかはわからないという。
■徒競走もコースを変え、同時にゴールする
鳥取県の公立小学校が「学級委員長」を無くしたのは、人権団体などから「委員長になれなかった子供が傷つく」「自分にはできないと劣等感が生まれる」などの抗議があり、自粛が全県に広がったためだという。図書委員、保健委員といった担当者はいるが、これらの委員は全て横並びの関係にしている。また、「差別」の観点から、運動会の徒競走でも全員が同時にゴールできるように、走るのが遅い子供に対しては、コースをショートカット(近道)したり、スタートラインを他の生徒より前にしたりする学校もあるのだそうだ。
そうした中、鳥取市では2009年春から1校だけだが「学級委員長」を復活させる。鳥取市教育委員会はJ-CASTニュースの取材に対し、「横並びで生徒は『誰かがしてくれるだろう』と考え社会性、自主性が育たない。2、3年前から市内の小学校に委員長の復活を呼び掛けてきた」と打ち明ける。人権団体とも交渉し「苦情は受け付けない」と突っぱねたのだそうだ。
<中略>
■愛媛県は半数の小学校に「委員長」がいない
そのうえで、「指導要領を見ても、子供の自主、自立という言葉が盛んに使われている。さらに、みんなをまとめて行くような人材、リーダーを育てていかなければならないとも考えている」と復活する理由を語った。
ただし、市の教育委員会によれば、「湖南学園」に続き市内で復活させる小学校が出るのかどうかは分からず、県内の地方の小学校ほど復活は難しいのではないか、と話している。小学校の「学級委員長」を「人権」の視点から無くす自治体は大阪以南に多い。愛媛県が04年に調査したところ、同県の約半数の小学校が「学級委員長」を置いていなかったそうだ。同県の教育委員会はJ-CASTニュースに対し、「様々な子供に活躍の場を与えることを目的に、リーダーの固定を避けているのだろう。必ず学級委員長を置かなければならないという規定はないため、それぞれの学校の判断に任せている」と話している。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090212-00000002-jct-soci
今さらながらこの悪平等主義ならぬ、「馬鹿平等主義」と私が呼んでいる
キチガイ思想団体は健在である。
すでに20年以上前に、お手手繋いで徒競走というのがあったが、
いまだに同じような馬鹿をむさぼって商売できる団体が蠢いている。
馬鹿を売り物して飯が食えるこの国って、
別な意味で素晴らしい!
しかも馬鹿団体の主張には「ごもっともでございます!」と、
平身低頭して素直に言うとおりにする、
主体性のないイカレた学校長というのも、
実に馬鹿さが香ばしいではないか。
ここで一句。
お馬鹿さもほどほどにせよ教育界
政治も阿呆太郎などと揶揄されても恥じない首相をいただく日本である。
しかもその阿呆にもまともに太刀打ちできず、外野で騒ぐしか能のない馬鹿野党。
オール馬鹿総出演の馬鹿ステージが今の政界だから、
教育も馬鹿丸出しの行政があっても、なんら不思議はない。
いまの日本の不幸の一つは国を引っ張るリーダーが、
政界の与野党のどこにもまったくいないことだ。
単なる利権と名誉心の亡者の集団が、いまの日本の政界である。
今の日本はまさにお馬鹿天国である。
これでも滅びない神州不滅の日本は、世界の七不思議に入るのではないか・・・
さて・・・
リーダーを決めることは差別なのだろうか?
世界中の学校でクラスや学校のまとめ役としてのリーダーはないのだろうか?
人権馬鹿団体にはリーダーはいないのだろうか?
あの人権思想華やかな日本共産党ですら、
厳然とした階級組織を形成し、トップは東大卒しかなれない
徹底したエリート主義集団である。
同じく人権にうるさい弱者の味方の公明党も、
池田名誉会長を神のごとく崇め、創価学会への貢献度に応じた階級制度が
厳然と存在するときいたことがある。
どの社会にも集団ができれば、必ずリーダーはいるものだし、
また必然的にリーダーは出来上がってくるものである。
猿や鹿や狼の世界、渡り鳥の社会も群れを導くリーダーがいるし、
蟻や蜂の社会も高等動物とは意味合いが異なるが、
ヒエラルキーが形成されリーダーのような位置づけが存在する。
それが生物学的にも自然なのではないのだろうか?
むしろ優秀な子供の素質を摘み取り、
素質を伸ばすことを拒否する教育は差別ではないのか?
人間は生まれたときから能力差をもって生まれてくるのである。
それがどんな素質でどれほどの能力かはわからないが、
誰もがすべて違った能力や才能をもって生まれてくることは事実だと思う。
数学が出来る能力、歌が上手な能力、何かを作る能力、物事を処理する能力・・・
リーダー性もその能力の一つに過ぎない。
それを差別の一言で切り捨てる単純馬鹿さに脱帽!である。
かなり昔の話だが、自己啓発教育をやっているある女性がいた。
彼女は夫と二人の子を持ち、子育てをしながら社会へ啓蒙活動をしていた。
人間的に私は嫌いなタイプだったが、ある意味立派な方である。
この女性が「お手手繋いで徒競走」の熱烈な支持者であった。
なんでも彼女は体育が苦手だったので、
運動会の徒競走はいつもビリで恥ずかしかったというのだ。
だから足の遅い子供の気持が良くわかるというのだ。
足の速い子も遅い子も「平等に差別なく」ゴールインすることは「弱者救済」の
「思いやりの精神」に繋がるというのだ。
そして「お手手繋いで徒競走」の学校を大評価していた。
まったく馬鹿人権団体の「徒競争」は差別に繋がる思想と同じである。
そこで意地の悪い私はすかさず彼女に尋ねた。
彼女はいわゆる優等生タイプで勉強が良くできたらしい。
「勉強の出来ない子供の気持をあなたはわかるのだろうか?
私は小中学校時代、勉強ができなかったので、
すごくコンプレックスを持っていた。試験のたびに恥をかいた。
だったら私のような出来の悪い子供のために、
すべてのテストは白紙で出そうが、間違いだらけで出そうが、
全員100点つけてあげても構わないのか?」
この問いに彼女は返答しなかった。
私は昔札幌で中学校教員をやっていたころに、
「お手手繋いで徒競走」の話を生徒にして、
生徒からの意見を聞いたことがあった。
生徒からは、意外にもこの馬鹿平等主義への批判が相次いだのだった。
一番多かった意見は「徒競走の意味がない。」、
「勉強はできないが、運動の得意な子が浮かばれない。」というものだった。
私もまったく同感である。
生徒のほうが、日教組や人権団体よりかなり人権感覚はまともである。
教職員組合も、人権団体もまあどちらも馬鹿同士だから、
言ってもしようがないが、区別と差別の違いがわからない。
また正当な評価と差別の違いもわからない。
こんな当たり前のことすら理解できない拙劣な知性しかないのだ。
そしてこんな人権馬鹿が学校教育に圧力をかけ、
教育界を監視しているのだから、何をかいわんやである。
しかもまともに正論をもって、反論できない各校の校長も馬鹿教師である。
一応教育委員会の対応は評価できるが、指導力があまりにもなさ過ぎないか?
やっぱり情報遮断は続けるべきだった・・・
気分が悪い。
Posted by トラネコ at 06:00│Comments(2)
│社会
この記事へのコメント
トラネコ先生、こんばんは。
この記事読みました。
どこの宇宙の話???と思うくらい
別次元の感覚です。
20年間、父兄もよくおとなしく
言う事をきいていたなあと
感心します。
ストレス大きかった方々が
多いことを祈りますが。
わが息子の通う小学校では
男も女も「○○さん」と呼ばせ
先生を呼ぶ時には「太郎先生」「花子先生」等と
下の名前で呼ばせています。
(先生同士も名前で呼び合っている)
苦情を申したてましたが
返答は
さんづけ呼びは、今の学校教育の流れとして行っている
先生を名前で呼ぶのは、家庭から指導していってほしい
だそうです。
穏やかに戦ってゆくつもりでいます。
この記事読みました。
どこの宇宙の話???と思うくらい
別次元の感覚です。
20年間、父兄もよくおとなしく
言う事をきいていたなあと
感心します。
ストレス大きかった方々が
多いことを祈りますが。
わが息子の通う小学校では
男も女も「○○さん」と呼ばせ
先生を呼ぶ時には「太郎先生」「花子先生」等と
下の名前で呼ばせています。
(先生同士も名前で呼び合っている)
苦情を申したてましたが
返答は
さんづけ呼びは、今の学校教育の流れとして行っている
先生を名前で呼ぶのは、家庭から指導していってほしい
だそうです。
穏やかに戦ってゆくつもりでいます。
Posted by 三時の母 at 2009年02月14日 23:43
三時の母様
早速のコメント有難うございました。
沖縄の学校では先生同士がファースト・ネームで呼び合うのは普通みたいです。私もそう呼ばれていました。これは地域の特性で、沖縄は同じ苗字が多いため、苗字で呼ぶと複数の人が返事をしてしまいます。とくに離島や郡部の小規模校では、生徒も同姓が多いので、先生も生徒もすべてとは言いませんが、ファーストネームで呼び合う習慣みたいですね。
「さん」付け呼称は知りませんでした。私の勤務した学校は「さん、君」で呼んでいました。ほかには男女混合名簿というのがありましたね。
お手手繋いでゴールインの徒競走は、今は知りませんが、浦添のU小学校では実施されていたそうです。地域の人から聞いたはなしですが・・・
狂った人権感覚は地域文化を破壊する可能性も大ではないか、と個人的には考えています。
早速のコメント有難うございました。
沖縄の学校では先生同士がファースト・ネームで呼び合うのは普通みたいです。私もそう呼ばれていました。これは地域の特性で、沖縄は同じ苗字が多いため、苗字で呼ぶと複数の人が返事をしてしまいます。とくに離島や郡部の小規模校では、生徒も同姓が多いので、先生も生徒もすべてとは言いませんが、ファーストネームで呼び合う習慣みたいですね。
「さん」付け呼称は知りませんでした。私の勤務した学校は「さん、君」で呼んでいました。ほかには男女混合名簿というのがありましたね。
お手手繋いでゴールインの徒競走は、今は知りませんが、浦添のU小学校では実施されていたそうです。地域の人から聞いたはなしですが・・・
狂った人権感覚は地域文化を破壊する可能性も大ではないか、と個人的には考えています。
Posted by トラネコ at 2009年02月15日 09:07

















