「謝らない謝罪」が日本で蔓延している
<「誤解を与えたのであれば申し訳ない」とは、形を変えて加害を繰り返しているとすら言える言葉だ。ホテルから保健所、政治家、首相まで、そんな「謝らない謝罪」が多過ぎる>
この原稿を書いているのは東京五輪開会式の前日。今朝は開閉会式の演出担当である小林賢太郎氏が解任されたという速報で目が覚めた。
森喜朗大会組織委員会会長(当時)が女性差別発言で辞任したのが今年の2月だった。そこで明るみに出た人権意識の低さが、その後も繰り返し表面化し続けている。
つい先日もこんな報道があった。東京・赤坂のホテルがエレベーターに「日本人専用」「外国人専用」と掲示していたというのだ。コロナ禍で一般客と五輪関係者の動線を分ける目的だったとのことだが、そのための手段はあまりに稚拙で差別的だった。
加えて気になったのは、発覚後のホテルの「謝罪」コメントだ。
「差別する意図はなかったが、誤解を生じさせてしまいおわびする」
「誤解」を生じさせてしまったことについて謝るとはどういう意味だろうか。少なくとも差別をしたことそれ自体についての謝罪でないことは明白だ。
しかも、
誤解は理解の失敗(mis-understanding)であるわけだから、傷つけられた側、差別をされた側へと問題を転嫁し、「謝罪」風の言葉の中で、形を変えて加害を繰り返しているとすら言える。
英語には
non-apology やnon-apology apology という言葉があるそうだ。日本語に訳せば「謝らない謝罪」や「謝罪なき謝罪」などとなるだろうか。オックスフォード大学出版局などが運営する辞書サイトのレキシコを見ると、次のような意味の言葉として紹介されていた。
「謝罪の形式を取ってはいるものの、侮辱や怒りを生み出した原因に対する責任や後悔を認めることにはなっていない声明」
ホテル側のコメントはまさにこれだ。だが、「誤解」を挟んで謝罪を脱臼させるこのような「謝らない謝罪」は、日本でも特に珍しいものではない。むしろ、蔓延しているとすら思える。列挙してみよう。
5月、外国人労働者が働く農家に対して「外国人と一緒に食事をしないように」などと記した文書を配布した茨城県の保健所のコメント。
「差別する意図は全くありませんでしたが、誤解を招く表現があったとしたら申し訳ありませんでした」
3月、自分の目の前で国会答弁に立つ総務省幹部に、「記憶がないと言え」と発言したことについての武田良太総務大臣の釈明。
「誤解を与えたのであれば申し訳ない」
2月、辞任表明の際の森元会長の恨み節。
「まあこれは解釈の仕方だと思うんですけれども(中略)私は当時そういうものを言ったわけじゃないんだが、多少意図的な報道があったんだろうと思いますけれども」
昨年12月、政府が「会食は少人数に」と呼び掛けている最中に、自民党の二階俊博幹事長らと8人程度で会食をしていた菅義偉首相の弁明。
「国民の誤解を招くという意味において、真摯に反省している」
文字数の制限が来たのでここでやめる。
受け手側の「誤解」を引き合いに出して自分を守るのは謝罪ではない。意図にかかわらず、自分がしたことの責任を真っすぐ認めることが謝罪の根幹を成す。
「謝らない謝罪」は責任も信頼も言葉も壊す。もう、終わりにしよう。
望月優大
<本誌8月3日号掲載>
NEWSWEEK 2021年07月28日(水)
https://m.newsweekjapan.jp/mochizuki/2021/07/post-8_1.php
https://m.newsweekjapan.jp/mochizuki/2021/07/post-8_2.php
望月優大氏
>
「謝らない謝罪」は責任も信頼も言葉も壊す。もう、終わりにしよう。
欧米人やシナ朝鮮人は、
基本的には謝罪しないし、
責任も取らないよな(笑)
私はこういう西欧事大主義的な主張に疑問を感じる。
確かに記事にあるような
「誤解を招く表現」は軽薄であるし、
政治家を筆頭に日本人の人権意識の低さは大いに反省すべきであり、
時として非難されてしかるべきことも少なくないと思うが
これが趨勢ではない。
日本人は古来から
「和の精神」=協調性が精神的基層にあるので、
基本的に争いごとは好まず、円滑に事を進める方を選ぶ傾向がある。
そう言う意味で
「すみません」を連発する傾向は確かにあるのは事実だ。
もっとも
「すみません」は謝罪の意味もあるが、同時に
「失礼します」、
さらには
「ありがとうございます」と状況により使い分けるのも、
ある意味
日本語の複雑かつ面倒な表現でもある。
しかし、
安易に謝罪をしない文化の方が軋轢を生じやすいのではないか。
だから
欧米では訴訟社会が生まれているという背景を考えるべきである。
訴訟社会の方が返って世の中に混乱と停滞を招くのではないだろうか?
日本人はすぐに謝るというのは外国人からよく言われる事だが、
これは国民性や文化の違いである。日本人は過ちや失礼を犯したとき、言い訳せず、
まずそれを認め謝罪することが潔しとされ、被害者もそれで一定の許しを与える。
これが日本社会を円滑に回してきた知恵なのである。
いわば国自体が一つの村落自治体の住民が日本人である。
古来からほぼ一定地域で生涯を送り、大陸のような民族の大移動がなく、
四方海に囲まれた閉鎖的かつ、平和な島国が日本という国の特徴である。
こういう地理的環境では、住民全部が親族みたいな関係を築き、
農作業その他すべてが共同体の協力体制の下で進められるから、
地域内での争いを最も嫌い、多少のトラブルには目をつぶるのだ。
十七条憲法の「和を以て貴しとなす」精神はこういう風土から生まれる。
しかし反面、
ハッキリと意見を言う事をためらい、馴れ合いが常態化し、
嫉妬やイジメや陰口が横行するという欠点も生まれやすい。
そういう歴史的、文化的背景があるので、日本人はトラブルがあったら、
とりあえず「すみません」と言っておけばその場は丸く収まるという習慣があり、
それが徐々に形骸化していって、謝ってもその場限りという傾向はあるかもしれない。
しかし・・・
日本の社会はこれでうまく回ってきたし、発展もしてきたのだ。
これが日本の風土が生んだ国民性だから、異なる西欧社会と比較して、
日本人が「悪い」という西欧事大主義者の安易な決めつけは軽率である。
そこで望月優大氏の主張でわからないことがある・・・
>
受け手側の「誤解」を引き合いに出して自分を守るのは謝罪ではない。
意図にかかわらず、自分がしたことの責任を真っすぐ認めることが
謝罪の根幹を成す。
具体的にどういう事なのだ?
もちろん自分の意図とは異なった受け取り方をされることはある。
だから相手に不快感を与えた事実に対する謝罪は当然であるが、
具体的に「自分のしたことの責任を認める」とはどういう事なのか?
人は過ちを犯すものであり、過ちが事実であれば
それを認め素直に謝罪するのも当然なのだが・・・
↓
>
「誤解」を生じさせてしまったことについて謝るとはどういう意味だろうか。
少なくとも差別をしたことそれ自体についての謝罪でないことは明白だ。
じゃあ、どうせよというのだ?
望月優大氏は賠償責任を要求しているのだろうか?
「差別した」のではなく、
「差別」と誤解される言動をしてしまった、
だからその過失を認め謝罪すると発言するのは間違っているのだろうか?
やはり筆者の望月優大氏は金銭的な賠償を求めているように思う。
欧米人、特亜人は自分の過ちは素直に認めないし反省もしない。
安易に謝り責任を認めてしまうと
損害賠償請求される恐れがあるからだ。
だから
グダグダと言い訳をし、責任回避し保身に徹する習慣があるのだろう。
欧米では日本人みたいに安易に謝罪はしないから
訴訟社会になっている。
欧米型の訴訟社会の方が白黒ハッキリさせる意味で、
日本人の形式的謝罪よりも良いと望月氏は言っている
ように私には解釈できるのである。
確かに・・・
形式的で慣習的な謝罪は誠意がないし反省すべきことである。
もちろん私は謝罪には常に誠意が込められていることが前提であり、
謝罪したからには反省をもって言動を改めることは当然だと考える。
しかし・・・
これが日本の文化であり、日本に来る、或いは移住する、
外国人こそ学習し理解すべき日本の文化であると思う。
読者諸氏は如何お感じになっただろうか?