親ガチャ、社会ガチャ、それとも本人次第?

トラネコ

2021年10月04日 00:00

「親ガチャ」と格差と政治 羽鳥慎一「つまりは『社会ガチャ』」
「みなさん、『親ガチャ』という言葉をご存知でしょうか。子どもは親を選べないという意味なんですけれども、この言葉が今、議論になっています」と司会の羽鳥慎一が切り出した。15日(2021年9月)の放送。 「親ガチャ」とは、「どういう境遇に生まれてくるかは運任せ」ということを、何が出てくるのか分からないカプセル式のおもちゃに例えた言葉。自分の境遇に恵まれていなことを「親ガチャにはずれた」と嘆くなど、若者の間で使われている。

努力しても...
ネット上には、「親ガチャで容姿、頭の良さ、運動神経はほぼ確定。努力すればいいという話ではない」「親ガチャ、友達ガチャ、教師ガチャ、上司ガチャ。人生は運」「さすがに親ガチャという言葉は嫌い。自分の失敗を全部他人のせいにしている」「親ガチャを批判している人はだいたい親ガチャに当たった人」といった意見がある。

筑波大学の土井隆義教授は、この言葉が生まれた背景について「経済成長も乏しく、先の見えない社会で生きている若者たちは、人生は自分の思い通りにはならず、努力しても超えられない壁があると感じている。結果を自分のせいにされても困るという気持ちの表れでしょう」と話している。

羽鳥「斎藤さんの周りでもこの言葉は使われている?」

キャスターの斎藤ちはる「ネット上では見たことがあります。『親ガチャ』という言葉自体はどうかと思いますが、やはり家庭環境が及ぼす影響は大きいんだなとは思います」

浜田敬子(ジャーナリスト)「(若者の)気持ちはすごく分かります。昔は一億総中流みたいな形で、大学進学など、努力によって克服できることが多かった。今は親世代の格差自体が開いてしまって固定化されてしまっているし、格差を克服するための競争の土台も整っていない。これはやはり税金の再配分の問題だと思います。若者たちは嘆いているだけではなく、政治に参加し、格差の是正をしてくれる人たちに政治家になってもらうことにエネルギーを向けてほしいと思います」

羽鳥「親のせいというか、社会の仕組みのせいだということなのでしょうね。『親ガチャ』というと『親のせいなの?』って議論になりますが、つまりは『社会ガチャ』なのですね」
J-CASTテレビウォッチ 2021年09月15日
https://www.j-cast.com/tv/2021/09/15420310.html

<参考記事>
親ガチャ、反出生主義…若者たちは「人生のネタバレ」に絶望している
現代ビジネス 9/19(日)
https://news.yahoo.co.jp/articles/a571cc2168cd212c3412287141145f240ce02b02
https://news.yahoo.co.jp/articles/a571cc2168cd212c3412287141145f240ce02b02?page=2
https://news.yahoo.co.jp/articles/a571cc2168cd212c3412287141145f240ce02b02?page=3
https://news.yahoo.co.jp/articles/a571cc2168cd212c3412287141145f240ce02b02?page=4
       ↑
ここには記事の詳細をのべているが、

私はこの記事内容をほぼ全否定する。






ネット上には、「親ガチャで容姿、頭の良さ、運動神経はほぼ確定。
 努力すればいいという話ではない」「親ガチャ、友達ガチャ、教師ガチャ、
 上司ガチャ。人生は運」「さすがに親ガチャという言葉は嫌い。
 自分の失敗を全部他人のせいにしている」「親ガチャを批判している人は
 だいたい親ガチャに当たった人」といった意見がある。

~ガチャ論は負け犬の正当化だ!
努力が無駄なんて言ってる奴、
お前は生きる価値のないゴミだ!


子供は親を選べないが、親だって子供を選べないから、
親ガチャがあるなら子ガチャだってあるんじゃないのか?
優秀な親なのに子供はバカでグータラってのもあるしw

基本的に自分の不遇や失敗を家庭や社会や政治のせいにしているのは、
大抵は努力を嫌う負け犬や一度や二度の失敗でニートになるクズが殆どだと思う。
真面目に普通に努力や向上心を持った人はこういう嘆き以前に頑張っている。

こういう親ガチャ発想は、バカでクズで怠け者の自己正当化である。
人間のクズが親に責任転嫁して自分を可哀想な被害者に仕立てて、
世間からの同情を引こうとしているニートみたいな卑怯者
である。

ただし・・・

一つだけこれは同情できると思うことは・・・

    児童虐待の家庭で育った子供は不幸だ。
    子供の努力ではどうしようもないからだ。
    こういう家庭環境は100%親が悪い!







そもそも・・・

自分の努力を棚に上げて、家庭や社会の環境のせいにすることが間違いだ。
基本的に成人後自立できない者はクズだと私は思っている。
(ただし疾病障害、或いは学生は除くが。)

もちろん家庭環境や社会環境の影響は大きいことは否定はしないが、
劣悪な環境にあっても出世する者もいれば、堕落する者もいるし、
逆に恵まれた環境でも同じような人間は必ずいるのである。


これは環境とはまた別の要素もあるという事ではないか?

いつの時代もどの社会にも矛盾や不条理は必ず存在している。
私の亡くなった両親は戦争、敗戦で青春時代を奪われたと言っていた。
時々父母は私が平和な時代に生まれた事を感謝しろとも言っていた。

それでも私の時代と高度成長期、バブル時代に育った世代と比べるなら、
遥かに後者の方が経済的にも物質的にも社会的にも恵まれているが、
別に私はそれをうらやましいなどと思ったことはない。

時代ごとにいろいろな社会背景があり、それを嘆いても意味はない。

家庭環境なんて古今東西いつでもどこでも大きな格差はあるわけだし、
鎌倉時代と平成時代を比較して、どちらが幸せかなどの議論が無意味なように、
その時代に生きる者にとっては他の時代と比較しようがないから・・・

  家庭や時代や社会の不遇を、
  嘆いたところで仕方がないだろ!
  嘆く前にやるべき事をやったか?






さらに「自分の努力ではどうすることもできない」ことなど普通だろw
例えば私が医者になろう(思った事もないが)としても100%不可能である。
何故なら医者になりたい動機もないし、興味もないし、適正もないからだ。

しかし絵描きで飯を食いたいと半世紀以上生きてきたけれど、
意思もあり努力もしたが「自分の努力ではどうする事も」できなかった。
もちろん努力の仕方や量に問題があったといわれればそうかも知れない。

しかし私は自分の人生を反省点は多いが後悔はしていない。
何故ならすべての選択肢は自分で判断し選んできたからだ。
そう、人生はほぼすべて自己責任だということである。

田中一村という不世出の画家が死んだ後、偶然発見され注目されたが、
彼など才能もあり技術もあったが生きている間はずっと極貧であった。
しかしその道を選んだ田中一村は自分が不幸だと嘆いていただろうか?

普通夢を追いかけて頑張っても報われない事の方が多いのではないだろうか。
だが成功しないまでも、別の道でそれなりの生活や人生を送ることは普通である。
しかしこんなことは古今東西すべての時代や場所にも言えることである。

だから・・・

 才能や努力があっても成功しない?
 そんなこと当たり前じゃないかっ!
 世の中に腐るほどあるじゃないか!




               優れた才能や技術に恵まれながらも
               生涯無名の画家で逝った田中一村



先日メキシコに行ったとき5年ぶりで日本の友人と会い話に花が咲いた。
その中ので、人間の性格、人生観、成功は、遺伝などの先天的な要因か、
家庭環境や社会環境など後天的要因で決まるのか
、という議論をした。

友人は後天的な生活環境でそれらが決まるという意見だったが、
私は先天的&後天的両要因で決まるという考え方で平行線をたどった。
彼には彼なりの考えがあっての意見だろうが私はこれに賛同しなかった。

私の意見は、人間の生き方も才能も遺伝的要因は無視できないと思う反面、
これらを発現させる後天的な家庭や社会環境も同じく重要であるという考えだ。
人間の生き方も才能も先天的・後天的両要因が不可欠だという事だ。

つまり・・・

 その人間の人生の歩み方によって時と状況に応じて
 先天的或いは後天的要因のどちらかが強く作用する、
 或いは相互に均衡を保って作用するという事である。






さらに最新の遺伝学では遺伝子は環境の影響を受けるという事が事実になっている。
もっともこれは進化論において、そのような推論は既に19世紀から出ていたのだが、
私が驚いたのは、精神疾患も遺伝するという事実である!

もちろん家庭環境は親の教育が大きく影響はするから、
生活習慣や価値観など先代からの影響はあるといえるだろうが、
精神的疾患も遺伝も環境の影響を受けるという事は・・・

 遺伝(先天的)も環境(後天的)も、
 相互に作用するということならば、
 やはり両者の要因で人生は決まる!






例えば、野球のイチロー選手大谷選手のような天才は同じ指導者や、
同じ練習を積み重ねても、皆が皆あそこまでの結果が出せる選手になる、
という事は絶対ないのは先天的な才能の賜物だと思う。

また世界の偉人伝にもしばしば見られる偉業を成し遂げた人も、
必ずしも恵まれた家庭環境や社会に生きたひとではなかった

彼らもやはり何か先天的な才能があったという風に考えられる。

同じ両親や家庭環境に育った兄弟姉妹、双生児でさえ、
全く違う才能や性格に成長していくことは普通の事であり、
後天的要因よりも先天性の要因は大きい場合もあると思う。



                  全く同じ練習と量をこなしても
                  皆が皆大谷選手にはなれない。



しかし反対に・・・

いくら優れた才能の種があっても、それを開花させる土壌は不可欠だといえる。
きれいな花の種も滋養のある土壌、空気、水がないと開花しないということである。
つまり友人の主張する家庭や社会などの後天的要因の重要性である。

私はドミニカ共和国の美術学校で絵画指導をしていた時に素晴らしい才能がある、
と思われる小学生に出会った。彼を日本に連れてきて専門教育を受けさせれば、
相当なレベルまで絵画だけでなく芸術的技術や感性が伸ばせると確信した。

しかしこの国の教育レベルや社会環境では中々それは実現できないと思った。
この国の社会がそれほどの才能を必要としていない水準だからである。
逆に社会的需要が高まれば、それを育てる環境も整うということである。

ダイヤモンドの原石も設備の整った工房(学校)と優れた職人(教師)がいないと、
58面ブリリアントカットの輝く高給な宝石にはならないという事である。



            ダイヤの原石も見た目は水晶か石英と変わらない


この記事に述べられていることは一面事実であるが、
親が高学歴で資産家の子女が必ずしも人生の成功者になるとは限らない。
高級官僚や実業家になることが成功だと定義する人にはそうかもしれない。

東大生の多くは一定以上の年収をもった親の子女だという統計もあるし、
経済的裕福さがあれば、子供の教育費に投資することも可能だから、
東大合格の家庭は貧困家庭よりも経済的に高いことは事実である。

しかし東大に行きたくない子女の場合はどうなのだろうか?
東大進学ではなく料理人になりたい場合はどうなんだろうか?
また億万長者の親でも教育に理解のない場合はどうか?


人生の成功、或いは失敗などそれこそ個々人の価値観で異なり、
他人との比較でそれを決めることなど、意味のない事ではないか?
経済的貧富だって幸不幸を感じるのは個々人の価値観だからだ。

家庭環境や社会や政治の不遇に嘆き、できない言い訳を探す前に、
まずは自分のやりたい事を見つけ、一生懸命その目標に向かって
頑張る生き方こそ結果的にその人なりの成功をつかむと私は考えている。



    皆様は如何お感じに
    なっただろうか・・・?










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