鎌倉仏教は仏教の庶民への普及に功績があったと思う。
平安時代の仏教は貴族など特権階級の救済ばかりで、
一般庶民の宗教ではなかった。
浄土宗、浄土真宗、日蓮宗(法華宗)などが庶民に広がった。
また禅宗の臨済宗や曹洞宗は武士に広まった。
さてこの中でも一般の信仰を広く集めたのが、
親鸞聖人の浄土真宗である。
阿弥陀如来を本尊としてその慈悲にすがる
他力本願の教えである。
一般に
浄土宗は法然上人が開祖で浄土真宗は親鸞になっている。
しかし
浄土宗も浄土真宗も教義はまったく同じである。
親鸞は法然の忠実な弟子であり、浄土宗の信者なのである。
両者の大きな違いは
浄土真宗は肉食、妻帯すること、
教義にあまりこだわらず、阿弥陀如来を一心に信じることのみである。
親鸞聖人
浄土真宗は南無阿弥陀仏と念仏を唱えるだけで極楽往生するという。
しかし親鸞はそんなこと言っていないのだw
親鸞は現代的に要約すると大体、以下のように言っている。
「念仏を唱えれば、極楽往生するだって?さあ・・・どうだろうか・・・よくわからんな。
先生の法然聖人がそう言ってたから、私はそう信じているだけだ。
それがウソでもそんなの関係ない。真偽を確かめる能力は私には無いからね。
例え法然聖人に騙されていても別に悔いはないね。」
「大体私のような人間は死んだら真っ先に地獄へ堕ちる大馬鹿者である。
そんなこと百も承知さ、しかしなあ、そんな救いようのない私ですら、
阿弥陀仏の慈悲は救って下さるのだと、
法然上人が仰っているのだ。
だからそれを信じているだけですが、何か?」
「
教行信証」より
これを見ると親鸞は正直な人である。
ある意味実に人間的である。
彼が比叡山を下りて京都・烏丸三条六角堂に篭り、座禅三昧に入ったときに
最も苦しんだことは、
修行僧の身でありながら酒や博打や女にうつつを抜かしたことだ。
今風にいえば、坊さんが飲む、打つ、買うをやっていたのだ。
もっとも今の坊さんはこんなことはごく当たり前だろうが・・・
この教行信証を読むと、
正直に法然の教えを信じているだけで、
極楽往生が出来るかどうかなど自分は知らないといっている。
その真偽を確かめる能力も無い「救いようの無いバカ、禿親父」であると、
親鸞は自著の中で自分をボロカスに書いている。
こんなこという宗教開祖はすごい!
本来宗教団体の教祖がその教えるところの根拠が、
自分の師匠であるというのはよいが、なぜそうなのかわからない、
などという教祖はいないだろう。
しかも開祖自身がなぜだかわからないといっている教義を、
ありがたがって信じている信者も実に奇妙だ。
ここに浄土真宗の不思議さを感じるのだ。
それは
後の後継者の都合の良い親鸞の教えの解釈や、
庶民の安易なご都合主義の解釈が、これを広める一因になったと思う。
ただ親鸞のすごいところは
絶対他力という
他力本願をうち立てたことだ。
これは
禅宗の自力本願のある意味において、逆説的アプローチではないだろうか。
つまり自己滅却の方法論の違いなのだ。
これはJ・マーフィーやN・ヒルの思考の現実化の理論に通じるではないか。
また密教の三密加持の「仏になりきる」行法にも通じる。
親鸞ほど人間的煩悩にドップリつかり、宗教者としての破戒すら平気に行えるのは、
そこまで自分を突き放せた自己否定の成果とは見れないだろうか。
これは我々凡夫には真似できない。
そんな安易に念仏で往生できるというものではない。
彼が肉食、妻帯できたのも自分が阿弥陀如来と強く繋がっており、
後に弟子の
唯円の「
歎異抄」でいう
悪人正機説にある、
自分のような「悪人」ですら阿弥陀仏の慈悲は救ってくれるのだという、
否、悪人だからこそ往生できるのだ。
そういった強い信念に導かれていたからではないだろうか。
親鸞の人間的煩悩の苦しみをイエスの弟子
パウロに見る。
もともとキリスト教迫害者であったパウロがイエスによって救われる。
ここに人間的な弱さと自己矛盾の葛藤に悶々とするのである。
庶民の共感を得る要素は、元からの立派な聖人君子ではなく、
ごく一般的な庶民的感性や苦悩をもって信仰の成就を成し遂げたからこそである。
そんな意味から親鸞が人気があったのだろう。
そして今でも親鸞の人気は静かなブームらしい。