日本には「とりあえず仏教徒」「無宗教」が多く、
キリスト教などの「一神教」が広まらない理由
日本人は「無宗教」?「仏教」?
日本人の多くは、自分のことを「無宗教」と言います。また「うちは仏教です」という人も、「宗教なんて怪しいから嫌いだ!」という人も、それに負けず劣らずたくさんいます。
しかしその割に、お正月は神社やお寺へ「初詣」に行き、イエス・キリストの誕生を記念した日である「クリスマス」を祝い、国内外の観光地へ行けば宗教に関係なく神社やお寺や教会へ行き、何のためらいもなく手を合わせる…という人がほとんど。あなたにも、もしかしたら心当たりがあるかもしれません。
日本におけるこのような現象の原因については、様々な説がありますが、今回は
・仏教(禅宗)の学校で7年間仏教にどっぷりと浸かる
・その中でキリスト教徒の友人たちと意見をぶつけ合う
・成人してからカトリック教会にて受洗する
・新型コロナウイルス騒動で信仰から離れる
という極めてまれな経歴を持つ筆者の実体験も交えながら、考えてみたいと思います。
仏教や神道は「偶像崇拝の邪教」!?歴史の中にも原因が?
日本人の中で「とりあえず仏教」ではなくキリスト教など特定の宗教を熱心に信仰している人の割合は、決して高くはありません。
世界では最も多い信者数を誇るキリスト教(カトリック・プロテスタント・オーソドックスなどすべて含む)でさえ、日本人の信者は全人口の1%前後に留まっています。
その原因として、「一神教」特有の考え方の影響が考えられます。
筆者が大学(禅宗の僧侶なら知らない人はいない仏教校)時代、クリスチャンの友人たちからよく聞かされたのは「仏教は、偶像崇拝を行う邪教だ!」という主張でした。
それならなぜ彼らは仏教校に敢えて入学したのか!?という根本的な疑問は残りますが、キリスト教に関しては「日本人とキリスト教:なぜ「信仰」に無関心なのか?」によれば
・キリスト教こそが唯一正しい宗教であり、他のものはすべて間違ったもの、
邪悪なものである
・仏教は、悪魔によって考案された偶像崇拝
という教義上の理由により、日本へ入ってきて間もない
16世紀にも宣教師が日本人クリスチャンに「仏教の寺に放火せよ」とそそのかしたり、仏像を破壊したりといったトラブルがあったとのこと。
当時日本に既に存在した仏教や神道などは多神教ということもあり、宗教を超えた日本の伝統文化さえ「邪教」「悪魔」として消し去ろうとする一神教の不寛容さは、到底受け入れがたかったのでしょう。
自国の文化を全否定されると反発したくなるのは、宗教に限らない
この他にも、一般的な日本人と日本人クリスチャンの間で意見が合わない現実を目の当たりにすることはあります。
たとえば、新元号「令和」が発表された頃、某SNSのキリスト教系のグループにこのような内容がいくつも書き込まれました。
・元号など即刻廃止するべき!なぜなら元号とは「神の栄光」ではなく
「天皇の栄光」を表しているものだからだ。
また、新型コロナウイルス騒動で高齢の愛猫を案じる筆者に対し、あるクリスチャンは次のような発言をしました。
・あなたの命の価値は猫と同等だと思いますか?私は絶対にそうとは思いません。
聖書の言葉からもそう思います。(人間である)あなたの尊厳の方が、
どんな可愛い大切な動物よりもあると思いますよ。
現代の、ペットを家族同然に愛する人の多い社会でこのような発言をするのは、本当に勇気があるとしか言いようがありません。
多くの日本人の感覚としては、人間と動物の命の価値に上下の差はないでしょう。だからこそ日本人は、食事の前に自身が生きるために頂く命に対して「いただきます」と手を合わせるのです。
このように、自国の文化を全否定されると反発したくなるのは、なにも「宗教」に限った話ではないでしょう。
多くの日本人が「無宗教です」と言う背景には、宗教を超えた「伝統や文化の否定に対する反発」が強く存在するのかもしれません。
Japaaan ライブドアニュース 2020年5月7日
https://news.livedoor.com/article/detail/18225370/
<関連エントリ>
21世紀における宗教の役割 前・後編
https://ryotaroneko.ti-da.net/e11071221.html
https://ryotaroneko.ti-da.net/e11078169.html
>
日本人は「無宗教」?「仏教」?
いいえ、八百万神教ですw
厳密にいえば
日本人には無宗教や無神論者は殆どいない。
というか、積極的無神論者というのは人間の中にすら少ないと思う。
もし日本人が無宗教ならむしろキリスト教はすぐ広まったはずである。
禁教令が解禁され100年以上も経ち、ミッションスクールも多く建ち、
各地にキリスト教の教会も数多くあるのにも関わらず、
なぜ日本人のクリスチャン人口は増えないのであろうか?
それは
既に無意識の信仰があるからだと思う。
それは神道的信仰であると思うが、日本は
神仏習合の宗教である。
厳密に言えば、神道化した仏教とでもいうのが日本人の宗教である。
初詣には百万人単位で参拝する
国民が無宗教なはずはないだろ。
縄文時代から連綿と続く自然信仰が神道となり、そこに外来の仏教が取り込まれたのだ。
だから
神も仏も、神社もお寺も日本人には優劣なくどちらも大切なのである。
信仰形態は神社仏閣参りくらいだが、日本人の生活観そのものが宗教なのである。
神道には教義はないが、暮らしや人生観が神道の「思想」に沿っている。
極端な言い方すれば、
生活の中に信仰が定着しているので逆に無意識、
無関心な状態になっているのではないかと、個人的に考えている。
神道に「思想」と呼べるような体系化されたものはない。
自然崇拝、御霊崇拝、祖霊崇拝が神道の信仰である。
これらを恐らく縄文時代の遥か昔から何とはなしに尊んできたのだ。
自然に対する感性、食事への感謝、先祖への信頼、生命観、人間関係・・・
そんなこと特段に意識して暮らしている人など誰もいないのだ。
だから自然に聞かれれば無宗教と答えてしまうのである。
>
多くの日本人が「無宗教です」と言う背景には、
宗教を超えた「伝統や文化の否定に対する反発」が
強く存在するのかもしれません。
う~ん、ちょっと違うなあ・・・
さらなる理由だが、日本人は自分がなぜ無宗教だと思うのかといえば、
教義や教祖のいる宗教団体、教団などに所属していないからである。
八百万の神々を無意識に信じているから、その必要性を感じないのである。
欧米ではたいていどこかの教会に所属してカトリック、プロテスタントは、
毎週日曜日などに教会に行き、その宗教の儀式や、聖書の勉強会などに
参加する事が一般的である。日本人もクリスチャンは大抵講ではないか?
もちろん・・・
日本も江戸時代の
檀家制度の影響で、一応どこの家も宗旨というものがあり、
必ずどこかの仏教宗派に所属した形にはなっているが既に
形骸化しており、
葬式や法事のとき以外は坊さんや寺とは関係が殆どないのが実情である。
最近の若い人なら自分の家の宗旨がどこかも知らないことも珍しくないし、
ましてや所属する宗派の開祖や教義すらも知らないことは普通である。
だから日本人は無宗教だとか無神論だとかいうのである。
葬式とお盆以外に坊さんと会う機会も少ない・・・
しかし記事にもあるように正月には神社詣で、お盆には坊さん呼んで墓参り、
クリスマスやバレンタインデイ、最近ではハロウィンなども「祝う?」のである。
無宗教や無神論の者は絶対にこんなことはしないだろう。
もっともこれらも宗教行事というより、単なる
年中行事の一環といった方が適切だ。
だから熱心な一神教徒から見れば、
日本人は宗教的に無節操に見えるらしい。
しかし
宗教など無節操な方が争いがなくてむしろいいと個人的には思う。
一神教の教条主義信者は常に神との契約を守ることが信仰の証である。
だから
一神教徒には精神的自由がなく、常に教義に束縛された人生である。
そしてその契約を守った結果が
永遠の命と天国行きの切符なのである。
だから・・・
一神教徒は同じ神を信じて殺し合いをするのである。
各々の宗派やセクトは契約内容が異なり、
契約違反は神の意思に背く罪だからである。
だから
一神教は教条主義という恐ろしいカルト性が付帯しているのである。
私が日本で会った「熱心な」クリスチャンは皆
非寛容な人々だった。
排他性が強く信仰心を要求される教条的な宗教だからである。
一方、神道は教義はないし、
仏教は教義はあるが日蓮宗以外は
宗派間の抗争や激しい教義論争はほとんどないから平和そのものである。
つまり
日本人は宗教的に無節操ではなく寛容なのである。
日本人は神道、という言葉すらも意識の範疇にはない八百万の神々が
生活の至る所にいて、御先祖という神々もいるから、世の中神様だらけなのだ。
だから特別どの神様を信仰する必要性もなければ、教義もないから喧嘩もしない。
また
仏教が日本に入ると、
神仏習合なんて都合のよい思想を考えだしてきて、
神道と共存して仏教に帰依する天皇なども出たりして、
神も仏も同じになった。
だから
神宮寺などという神社と寺の合体した社も出てきたのである。
神仏習合が案外うまくいったのは、
神道と仏教は多神教であったことと、
神道は共同体思想であり、
仏教は個人救済思想という
相補性があり、
神道に教義がなく、難解な哲学教義だらけの仏教と相性がよかったからであろう。
神仏習合の日本では神主も坊さんも仲良し~♪
一神教みたいに憎しみ争い殺し合いはしない。
余談だが仏教は個人救済思想だと述べたが、・・・
正確にはこれは東南アジアに伝搬した
小乗仏教の思想である。
チベットからシナに伝搬した
大乗仏教は衆生済度の思想があり、
個人の解脱を達成した後は大衆を救う使命(菩薩業)があった。
神仏習合した日本の仏教はオリジナルのインド仏教とはかなり異なる。
元来仏教には輪廻も霊魂も仏も極楽地獄も自分すらも存在しないのである。
般若心経にある
一切皆空、
法相宗の
唯識論の世界である。
本来の仏教には偶像崇拝もないし、すべてが「無」の世界と解釈する。
あえていえば
禅宗がオリジナルに近いかも知れない。
仏教も日本に来てからは神道の影響を受け大変貌したのだ。
空海は唐で
景教(キリスト教の一派)の影響も受けているそうだ。
また
親鸞も日本に伝わった
景教の経典を勉強したという話もあるらしい。
もしかしたら・・・
日本の仏教は様々な宗教の複合したハイブリット宗教なのかもしれない。
日本に来ればあらゆる文化は、日本の文化的風土に化学反応を起こし、
形態変化して日本化されるが、これこそが日本流の文化的変容だからである(笑)
聖徳太子の幼少を厩戸皇子というのも
馬小屋で生まれたキリストを彷彿とさせる。
これも景教の影響であるともいわれている。
話を戻す。
これが
教条主義で不寛容な一神教同士のキリスト教とイスラム教ならそうはいかない。
もちろんユダヤ教もだし、仏教やヒンズー教なども同じくダメであろう。
だからこいつらは二千年以上も殺し合いを続けているのである。
なんせ旧約聖書には奴らの唯一神が、
自分以外の神を拝むな!
拝んだら嫉妬して怒りまくってやるぞ!、という恐ろしい神だから、
否応なしに一神教信者になれば
熱心な信仰心が要求されるのである。
日本の神様で「自分以外の神を信仰すれば怒るぞ!」なんて言う神はいない。
仏教の仏様も「自分を信仰しないなら罰をあたえるぞ!」なんて言ってない。
人間が信仰心や恐怖心から勝手に「罰」を考えだして言ってるだけである。
一神教の神は嫉妬したり怒ったりするんだ・・・
さて、以前にも述べたが・・・
近年欧米では若者の宗教離れが加速化しているそうだ。
これは数年前にBBC放送の世論調査で明らかになったことだが、
私も知り合いのスペイン人、フランス人、ドイツ人、ポーランド人に
直接聞いて確かめたが、若者層の宗教離れは本当であった。
実際に聖書を読んだ事が殆どなく特に関心もないというし、
教会に行ったのは子供の頃に親に連れられて行ったくらい、
特別に宗教そのものにも関心はないと全員がいうのである。
メキシコはまだそこまでもないが、でも若い世代は年配者に比べれば、
やはり教会にもいかないし聖書もあまり読まなくなってきているようだ。
若者の宗教離れはキリスト教世界では世界的なのかもしれない。
むしろ正月の神社詣りやクリスマスなどを見る限り、
現象面なら日本人の方が宗教熱心にも見えるだろう。
否、普段でも神社に手を合わせる若い人は結構いるようだし・・・
しかし宗教離れ=キリスト教離れといった方が正確かもしれないが、
この思想的原点は19世紀の実存主義哲学者
フリードリッヒ・ニーチェの著書、
「ツァラトゥストラはかく語りき」の中に
「神は死んだ」という言葉に表されている。
これは欧州における
啓蒙思想の普及と科学の発達の中で、
これまでの
宗教の決めた道徳的価値概念の崩壊を意味している。
特に
フランス革命での教会の権威は完全に失墜した点も大きい。
つまり
キリスト教の「神」による絶対的価値概念は存在しない、
ある意味
キリスト教権威主義の相対化、或いは古典化(迷信化)であり、
科学的、客観的価値観が新たなる発展的価値観を生むということである。
このあたりが原理主義的信仰であるイスラム教との違いだろうか。
キリスト教文明圏がイスラム教のそれよりも科学や思想や文化などが、
多岐に展開し発展してきたのも宗教の相対化があったからだろう。
イスラム教徒は全員原理主義者である。
ニーチェの思想の興味深いことはキリスト教的世界観や価値観を否定し、
「永劫回帰」説を唱えた。これは
ハルマゲドンも最後の審判などは来ないし、
世界自体に意味はなく、そして現象は何度も繰り返されるという思想だ。
これがニーチェの唱える
虚無主義=ニヒリズムであるが、
見方を変えると
永劫回帰とは仏教の世界観そのものである。
つまり
自身の存在もすべての現象も「無」であり存在しないのだ。
では目に見える現象は何かといえば、
個々人の認識の幻影にすぎないのだ。
ニーチェから100年後の20世紀後半から
ニューエイジサイエンスという思想が生まれた。
これも
一神教への疑問と否定であり、東洋思想や古代思想への回帰でもある。
さらにオカルティズム要素もあるが、
科学と宗教の一致という視点も生まれた。
もはやキリストもユダヤもイスラムも人類救済はできないどころか、
世界を破壊し殺戮を繰り返すことが分かり宗教の限界に達したのだ。
欧米の宗教離れとはこういった潮流があることも大きな原因である。
<参考記事>
イギリスで「自分は無宗教だ」とする成人の数が過半数を上回り過去最高に
カラパイア 2017年11月29日
http://karapaia.com/archives/52249770.html
「デジタル布教活動が未来のカギだ」 若者の教会離れは「映え」で引き止める!?
God’s Conversion Rate
Newsweek 2019年09月27日(金)
https://www.newsweekjapan.jp/stories/woman/2019/09/post-249_2.php
若者が教会を離れるいちばんの理由
CHRISTIANITY TODAY 2019年2月4日
https://www.christianpress.jp/church-drop-out-college-young-adults-hiatus-lifeway-survey/
https://www.christianpress.jp/church-drop-out-college-young-adults-hiatus-lifeway-survey-2/
<関連エントリ>
イギリスで無宗教者が増加、いよいよ神道の時代だ!
https://ryotaroneko.ti-da.net/e10133877.html
私は個人的には・・・
宗教心は大事だが、
宗教団体は必要ないと考えている。
しかし
「神」の存在を否定する無神論は危険な思想につながると思う。
もちろん「神」をどう解釈し定義するかにもよるが、難しい事は置いても、
人間よりも偉大な畏怖すべき「何か」が存在するという考えは必要だと考える。
これは宗教的というより、
人間としての愛と理性のバランスを維持しながら、
世界と共存する為の哲学的前提となるのではないか、と考えるからである。
哲学と言うとややこしいから、
道徳的に、と言い換えてもいいと思う。
何故ならば・・・
宗教を認めず人間がこの世で最高の存在だと考える
唯物論や
共産主義などは、
人間が「神」と同等の存在になりえるし、どんな残虐な行為も正当化できるし、
自然や生き物を殺戮しても何ら罪の意識すら感じない傲慢さが生まれるからだ。
やはり人間の宗教心とは・・・
日本の神道における曖昧模糊とした、
八百万の神々信仰が平和的でよい。
無意識に神聖な存在を尊ぶ宗教が、
人々を平和共存する工夫をする
知恵と民度を醸成させると私は思う。