先日私のデッサンクラスに来ている小学校の補助教員から、
宗教論議を持ちかけられた。論議というよりたまたまキリスト教のカトリックから、
プロテスタント各派の考え方、さらに仏教とはいかなるものか?という話だ。
私は一応、宗教に関心があり、付け焼刃の知識も多少は持っているが、
宗教の話となると、日本語ですら結構難しく言葉を選ぶのに苦労する。
ましてやスペイン語なら言葉を選ぶどころか、言葉を知らないときている。
彼女はカトリック信者ではなく
福音派のクリスチャンである。
スペイン語では
エバンヘリコと呼ばれ、教会もカトリックとは別である。
また
福音派は聖書を絶対視し、すべて神の言葉であり一切の誤謬はないとする。
これは現在アメリカの
原理主義者も同じことを言っている。
私はそう思わない。
それで聖書は神の直接の「お言葉」ということへの疑問を述べたい。
聖書が「
神の言葉」といっても、
所詮は
人間が書いたものである。
神の言葉を当時のすべての人々が、その「肉声?」を聞いた訳ではあるまい。
いまでも沖縄のユタや恐山のイタコ、新興宗教にも「神の声」を聞く教祖がいるが、
神の声を聞けるのは、すべて
霊能者か神の許しを得た特定の人間である。
我々庶民すべてが「神の声」など聞けるわけがない。
とくに私のような不信心者など、神の声など到底聞けるものではない。
またそれを「
神の声」と感じ、そう解釈するのも聞いた本人であって、
何をもってそれが「神の声」なのかは、
本人の主観的判断でしかない。
そうすると・・・
まず「
神の言葉なるものを聞いた人」がいて、その人にそれを取材する
記者がいたはずだ。
そしてそれらの「言葉」をまとめたり、構成する
編集者がいたはずだ。
さらに編集されたものを
公正し製本する作業をする人もいたはずだ。
しかも聖書は
旧約・新約ともそれぞれ内容の成立時期も場所もばらばらである。
尚更のこと、
伝聞情報になったものを
取材・編集する作業は絶対不可欠である。
いわば
出版社と同じ作業工程が聖書を生み出すまでにあったはずである。
新約聖書の各福音書は4人の弟子の口を通しているから、まず
弟子の主観が入る。
それに加え上のような過程を経れば、当然、
神の声は人の言葉に変化する。
つまり聖書を作本するにあたって複数の関係者が話し合い、検討しあい、
協力しながら一冊の聖書という本を制作していったということがわかる。
すなわち
聖書には、人間の手作業と主観が随所にちりばめられているのだ。
だから
神の言葉といってもその製作過程から、
相当いろんな人々の主観的フィルターを通じて、
言葉そのものが変化しているはずだ。
さらに
言語の時代的変化と他言語への翻訳の問題がある。
旧約聖書は一番初めに書かれた言語が
ヘブライ語とアラム語だという。
ヘブライ語は現在のイスラエル語に当たるが、当然現代とは異なる
古代ヘブライ語である。
それが後の新約聖書の
ギリシャ語からラテン語、そしてスペイン語やフランス語や、
ドイツ語、英語、さらにはアジアのシナ語や日本語などに翻訳されてきた。
つまり
言語の時代的な経年変化とその
翻訳過程においてすら、
多くの人々の思考回路と主観的解釈を経由しており、
また各言語間においても該当単語の有無もあったり、意味上のニュアンスの違いもある。
果たして日本語の聖書のある言葉の意味が、原典の古代ヘブライ語の該当単語と、
全くおなじ意味あるいは、ニュアンスかどうかもわからない。
聖書とは数千年に渡って数億人の思考回路を経た、
「壮大な伝言ゲーム」みたいなものである。
・・・と、私は考えている。
これは
仏教の経典においても同じことが言えるだろう。
すべてが仏陀の直接の言葉かどうかなんてわかるわけがないのだ。
<参考>
「自由主義神学」http://ryotaroneko.ti-da.net/e2133389.html