見えない何かを畏れる文化

トラネコ

2011年12月07日 10:00

北米、無神論者の信頼度は最底辺 大学調査で明らかに
カナダのブリティッシュ・コロンビア大学から発表された最近の研究で、信仰を持つ人々が無神論者を嫌う第一の理由が「信頼できないから」というものであることがわかった。また、研究は、状況によって無神論者は強姦犯罪者よりも信頼されていないと指摘している。

「宗教を持つ人が多数派を占める場所においては、それは世界のほとんどの場所においてであるが、無神論者はもっとも信頼されていない人々の中に位置する」と、今回の研究の主執筆者で、同大博士課程のウィル・ガーバイス氏は述べる。「世界には5億人以上の無神論者がいるが、この先入観は多くの人々に影響を与える可能性を持っている」と言う。

オンラインの科学雑誌「パーソナリティ・社会心理学ジャーナル」で発表された今回の研究は、6つの調査から成っており、米国人成人350人とカナダ人大学生420人を対象に行われた。調査は、仮定の質問に対して答えるという形式で行われた。

ガーバイス氏は、無神論者を好まない人たちは、「無神論者らを、首尾一貫していない、明確でない、力のない社会グループ」と見なしていると指摘する。一方、今回無神論者へ対する不信頼が研究で明らかになったのは、「神が自身の行動を見ていると感じていれば、人はよりよい行動を取る」という共通的な感覚によるものだとしている。

「無神論者たちは、自分たちが信仰を持たないことを形而上学上の問題における個人的な事柄だとみなすであろうが、信仰を持つ人々は、無神論者らの信仰の不足を、協力と公正に対する社会的な脅威としてみなすのであろう」と言う。

研究の協力者の一人であるアラ・ノレンザヤン同大準教授は、今回の調査を実施しようと動機付けた最も大きな要因は、大統領としての資質を有していても、無神論者である場合、その大統領候補に投票すると答えた人はわずか45パーセントに過ぎないというギャラップ調査の報告だと言う。

アメリカ世俗連合(Secular Coalition for America)は最近、米議会議員の中に28人の無神論者がいると発表したが、それを公にしているのは、カリフォルニア州選出のピート・スターク議員だけだという。
クリスチャントゥデイ 2011年12月6日火曜日
http://www.christiantoday.co.jp/article/3829.html




これは非常に興味深い調査・研究報告である。

こちらメキシコも含めラテンアメリカはカトリック文化圏である。
無論プロテスタントもいるにはいるが少数派である。
驚いたことにメキシコには仏教徒も意外にいるのである。

こちらの人々がもっとも嫌う人物は無心論者と共産主義者である。
理由は両者とも神の存在や宗教を認めないからである。
だから私が宗教を尋ねられたときは必ず、神道か仏教と答えている。

もう1つは西欧では宗教教育が道徳教育を代替しているので、
無宗教の者は道徳がないから、道徳を身に着けていない故に、
反社会的な犯罪性を持った人物とみなされるのだ。

さて・・・

正確にいえば、私は特定の宗教も宗派にも属していないが、無神論者ではない。
神か、仏か、霊魂か、目には見えない畏敬の存在とでもいうか、
一応何かわからないが、そういう存在はあるだろうと思っている。
そしてそういう存在を恐怖ではなく、畏怖している。

かなり昔私が中学校教員をやっていたころ、
ポーランドの方が自国の教育について語るシンポジュウムがあった。
ポーランドもカトリック教国だが、共産主義時代には表向き信仰は禁止だったが、
各家庭では子供にキリスト教思想に基づく教育を行っていたという。

そこで聞いた話に、今回の記事にも述べてあることと同じものがあった。
たとえば古今東西、子供は親の目にかくれて悪さやイタズラするものである。
そこで母親は子供にこういう。

 『いいかい、ママはいつもお前を見守っていることはできないけどね、
 神様はいつでもどこでも、お前を見守ってくださっているんだよ。
 良い事も悪い事も、常に神様は見てらっしゃるのを覚えときなさいね。』


毎日こういって聞かされると悪さをすることに躊躇いが生まれるのだ。
『神が自身の行動を見ていると感じていれば、人はよりよい行動を取る』
と記事にあるのと同じことである。

子供の教育・躾けだから、まあウソも方便的な言い方かも知れないが、
この文言には目に見えない何か偉大な存在を畏れよということだと思う。

その『畏怖すべき存在』を意識すると、悪い思いにブレーキがかかるのだ。
そして子供のころそれを刷り込まれば、大人になっても有効に機能する。

これをまやかし・迷信・非科学的とかと、かたずけるのは簡単だが、
人間は理性や理屈だけですべてを律しきれるものではない。
理性や理屈を掲げて大失敗したのが、フランス革命やロシア革命である。

もっとも・・・

悪徳宗教やカルト宗教はこれを逆手にとって、
水子の霊とか、先祖の浮かばれない霊が祟っているとか脅して、
信者から金品を巻き上げてビジネス化しいることも事実である。

どんなものにも使う人間の意志により善にも悪にもなるという証左である。



クリスチャンにはカトリックであれ、プロテスタントであれ、
人間存在の上に『神』が唯一絶対の存在として認識される。
そしてその認識は彼らの一生を支配する思想になっているのだ。

仏教の場合は如来、菩薩、天など諸々の仏が、人の上に来て我々を導く存在である。
神道は先祖の御霊や諸霊など八百万の神々が、常に我々と共にある存在である。
そしてすべて目に見えない畏怖すべき存在である。

『目に見えない存在』は不条理であり科学的証明を認めない。
にもかかわらず、その不条理さゆえに、こういう発想は或る意味、
文化や歴史を継承している文化基盤には重要である。

もっとも文化というのは各地域に様々な形があって、
その多くは不合理であり、非科学的なものである。
しかしその不合理さを信じる文化とそうでない文化とでは、
歴史的な文化の重厚性が大きく異なってくることも事実である。

ご先祖の御霊が存在するという思想は、先祖に恥じない生き方を喚起し、
先祖から受け継いだ物的・精神的遺産を大切に継承していこうとする。
これが文化や文明の蓄積になっていくのである。

これは一神教世界でも、先祖からの精神遺産の継承を重視する点は同じだろう。
先祖の優れたものは神の御心にかなった生き方をしたからこそ、
子孫の自分たちにもその恩恵があると考えているのだろうと思う。
そこでより一層の信仰心が増すのではないだろうか。



シナにはこういう宗教文化の社会的精神基盤は存在しない。
だから簡単に前代のものを否定し、焚書坑儒を行うのである。
シナ地域4千年の歴史とは、各時代の王朝ごとに独立分断しているのである。

だから現在の中華人民共和国は、過去の王朝とく文化的歴史的につながりのない、
まったく異なった別の国家なので、日本や欧米のパクリばかりやっているのである。
それが歴史的継続性や文化の蓄積がまったくない証拠なのである。

またチョーセンも元々文化不毛の国であったため、
シナ文明の属国としてシナ・コピーをするのが文明と信じた国だから、
当然そこにも文化の継承は(といっても元々ないのだが)ほとんど存在しないし、
宗主国のシナ同様に日本や欧米のパクリばかりやっているのだ。


無神論者共産主義者も一種の宗教と見做せるのだが、
共通している点は両者とも神という概念は存在しない、ということだ。
神(目に見えない畏怖すべき存在)のいない宗教とでもいうべきか。

彼らには神が存在しない分、人間が最高の存在ということになり、
さらに階級闘争の結果淘汰された共産党トップが人類最高の存在になる。

北朝鮮のキム親子みたいに神格化されているのが典型例だろう。
神のいない社会は神を畏れない人間の傲慢と不遜が増長拡大される。
そこには人間の傲慢が神への畏敬に勝り、人間が神になる。

人間が神に成り代わる社会では、
どんな残虐な行為も正当化され、
どんな理不尽な言動も神聖化される。


過去共産主義独裁国家で行われてきた、いや今もシナや北朝鮮で続いている、
人権弾圧や人民虐殺、さらに少数民族の絶滅政策をみれば明らかだ。
また日本でもオウム真理教のサリン事件がそれを証明している。

もっとも西洋の中世の時代にはローマ教皇庁が、
神の権威を代行することが増徴して、自らが神になってしまい、
異端審問や魔女狩り、果ては十字軍にまで発展した暗黒歴史も忘れまい。


さて・・・

日本の天皇は戦前現人神といわれていたが、
一神教的な神でないことはご承知の通りである。
尊い存在としての、上位におわします上(カミ)である。

ちなみに天皇とは神主の長みたいな存在である。
天皇陛下は、日本の神代の時代から、我々の先祖の御霊を祭り、
様々な神事を司る重要な国家の位置にあらせられた存在なのである。

それゆえに・・・

左翼や売国奴が執拗に天皇を否定したがる根拠は、
日本人の先祖崇拝と天皇が密接に関係しているからである。
天皇を否定することで、日本人の精神性の根幹を分断し破壊するのである。
しいては日本の国体の破壊である。

彼らからみれば天皇は単なる人間にすぎない。
共産主義者や西洋的合理主義からみれば、『人類平等』の原則から外れる。
同じ人間がなぜ、あのように特別扱いされねばならないのか、と。

しかしアメリカ製ケンポーが不幸中の幸いを作ってくれた。
すなわち、天皇陛下は人間ではないのだ。
天皇陛下は人格権を持たない『象徴』なのだ。

法律的に人格権のない象徴なればこそ、一般国民と同等に扱う必要はないし、
逆に国家・国民の象徴であればこそ、特別な存在として遇されるべきである。
天皇の存在が2670年以上続く日本国の象徴そのものだからである。

不敬な言い方という誤解があればお許し願いたいが、たとえば、
国宝の茶碗はただの土で出来たモノであるが、百均の湯のみや茶碗とは違う。
文化の象徴としての特別な芸術品だから特別扱いされるのだ。

天皇も皇族方も生物学的には、我々とおなじ日本人であり、人間である。
しかし社会学的、法的、文化的にはまったく別の存在である。
もっというなら、天皇=日本でもあるのだ。

現民主党政権を含めほとんどの政党は、皇室を認めないか軽視である。
自民党内にもそういう国賊は少なくないみたいである。
我々日本人はこいう国賊の政治腐敗の跋扈を許してはいけない。

今の日本は国家存亡の危機の時代である。
我々日本人は日本人としてのアイデンティティを守るためにも、
皇室の存続と尊厳は国民として守っていくべきである。


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