聖職者の「性」犯罪と独身制について

トラネコ

2017年09月24日 10:00

「独身制」こそ聖職者の性犯罪の元凶 --- 長谷川 良
ローマ・カトリック教会関連施設で聖職者の未成年者への性的虐待が多発しているが、バチカン法王庁は、「聖職者の独身制と性犯罪の増加とは関係がない」という立場を強調してきた。しかし、オーストラリアの2人の学者が、「聖職者の性犯罪とその独身制とは密接な関係がある」と指摘した研究書をこのほど発表し、注目を集めている。

384頁に及ぶ研究書はペーター・ウィルキンソン氏とデスモンド・ケヒル氏の労作だ。2人は元神父だ。教会の組織、内部事情に通じている両氏は、「世界のカトリック教会には、聖職者を性犯罪に走らせる組織的欠陥がある」と考え、個々のケースを調査し、各ケースに共通する背景、状況を検証していったという。

オーストラリア教会の聖職者の性犯罪調査王立委員会は今年初めに暫定報告を公表したが、それによると、オーストラリア教会で1950年から2010年の間、少なくとも7%の聖職者が未成年者への性的虐待で告訴されている。身元が確認された件数だけで1880人の聖職者の名前が挙げられている。

すなわち、100人の神父がいたらそのうち7人が未成年者への性的虐待を犯しているという衝撃的な内容だった(「豪教会聖職者の『性犯罪』の衝撃」(http://agora-web.jp/archives/2024343.html)2017年2月9日参考)。

2人の学者は聖職者による過去の性犯罪を検証し、関連の研究書やレポートを参考に研究を進めていった。ちなみに、ロイヤルメルボルン工科大学=RMIT大学は、「聖職者の性犯罪の背景分析として、文化的、歴史的、組織的、社会的、心理学的、神学的要素を包括的に検証している」と、研究書を高く評価している。

2人の学者は聖職者の性犯罪の主因として2点を挙げている。

 (1)聖職者が結婚できる教会では性犯罪は少ない一方、聖職者の独身制を
 強いるカトリック教会では性的に未熟な若い神父たちが自分より幼い未成年者に
 性的犯行に走るケースが多い。すなわち、聖職者の性犯罪とその独身制には
 密接な関連がある。

 (2)カトリック教会が経営する孤児院や養護施設などが性犯罪を誘発する
 組織的背景となっている。カトリック教会は世界約9800カ所に孤児院、
 養護施設などを経営しているが、それらの施設に保護される未成年者は
 聖職者の性犯罪の犠牲となる危険性が高い。経営側の教会はその点に
 ついて余り自覚していない。


上記の2点は新しい事実ではない。多くのメディアや教会関係者が指摘してきた内容だが、今回は膨大な資料を分析、検証したうえでの結論だけに説得力がある。

例えば、オーストリアのローマ・カトリック教会最高指導者シェーンボルン枢機卿は、「性犯罪はカトリック教会の聖職者だけが犯す犯罪ではない。その件数自体、他の社会層のそれよりも少ない」と弁明したことがある。同枢機卿の見解が教会のこれまでの代表的な立場だった。

なお、前オーストラリア教会最高指導者ジョージ・ペル枢機卿(バチカンの枢機卿会議メンバー)は同国の検察庁から未成年者への性的虐待容疑で起訴され、現在、公判を受ける身だ。

カトリック教会の独身制については、このコラムでも何度も言及してきた。南米教会出身のフランシスコ法王は前法王べネディクト16世と同様、「独身制は神の祝福だ」と強調する一方、「聖職者の独身制は信仰(教義)問題ではない」と認めている。換言すれば、独身制は聖書に基づくものではなく、あくまでも教会が決めた規約に過ぎないわけだ。

編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年9月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』(http://blog.livedoor.jp/wien2006/)をご覧ください。
アゴラ 9/19(火)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170919-00010003-agora-int&pos=1



             カトリック教会の性的虐待事件


      ドイツのカトリック教会の聖歌隊にも「性的虐待」事件が・・・
https://www.telesurtv.net/news/Abusos-contra-menores-de-un-coro-de-la-iglesia-catolica-alemana-20160114-0030.html



今日は宗教界の「性」に関する考察をしてみる。
とはいっても、そんな生々しい話はしないのでご安心をw
あくまで宗教における人間論の一つの観方としての雑感である。

冗談にも聖職者が「性」職者になってもらってはいけないが、
現実的には宗教者の「性」犯罪は結構多いようだから、
宗教者を聖職者と見ることを疑う事から考えるべきである。

日本の仏教界などは既に聖職者などほぼ皆無に近いだろう。
僧籍が一職業に堕しているくらいで風俗通いの僧侶など珍しくもないし、
それがあっても誰も驚かないくらい日本仏教界は世俗化している。

・・・あ、いやこれは訂正しよう。

今も高野山奥の院や永平寺などでは真剣に修行に励む僧侶はいる
実際に今でも少数ではあるが人生の真理を求め修行の道を歩む人はいる。
私のような俗人にはない崇高な求道心をもった人である。少ないけどねw



              高野山奥の院
      今は交通機関も整備され誰でも簡単に行く事ができるが、
      昔は簡単に行けないし、行けば戻ってくるのも大変な所だ。




しかしそんな人でも俗界に戻って寺の住職にでもなれば大抵堕落する

まあこれは僧侶に限らず、常習的犯罪者にも同じことがいえる。
刑務所に入り規則正しい生活や反省や学習を強制されればマトモになる。
しかし出所し娑婆の生活に戻れば、昔の悪友と交わりまた元に戻るのだ。

ダイエットでもRIZAPみたいに集中的な個人管理下でトレーニングして、
短期間に結果を出したとしても、元の暮らしに戻り自己管理できなければ、
たちまちリバウンドしてしまうのと同じである。

そういう意味で、昔から修行を中心に行う寺は人里離れた山間部などにあった。
俗界と隔絶し閉鎖的空間で修行しないと世俗の誘惑が多いからであろう。
自分の意思の強さもそうだが、いかに環境が大事かという事だな。

もっとも・・・

悟りを開いた昔の禅の高僧などは完全な不動心を確立しているらしく、、
三条大橋の欄干の傍でも座禅を組めた(賑やかな場所でも瞑想ができる)、
というが、今はそこまで悟りを開いた僧侶はいないだろうな・・・


     人間って弱い生き物なんだよな・・・



          松村邦洋クンもスッキリした体形になったが、
          問題は今後これを彼が維持できるかどうか。




「聖職者の性犯罪とその独身制とは密接な関係がある」
そりゃあ、大有りだろう!

生命力にあふれる若い時代に性欲を抑えるなどは至難の業である。
俗に売春業が人類最古の職業といわれるのも、特に女性よりも、
男性の性欲の処理が人類史の始まりから社会の課題だったのだ。

いくら修行に励み俗界と縁を切った宗教者といえど生身の人間である。
現在はどうか知らないが昔の修道士は自慰も禁止されていたというから、
若い僧侶や修道士など、性欲の抑圧は拷問に等しかっただろうと思う。

そりゃあね、人間の性欲は食欲と並び個の生存と種の繁栄の基本である。
これは生物の生存本能として備わっている以上、抑止する方に無理がある。
だから特に精神修養を課題とする宗教者には禁欲が要求されるのはわかるが・・・

カトリック教会でも、若い修道士が性犯罪起こしても、
まあ驚かんわ、これは生理現象だし抑圧し続ければ、
こういう犯罪に走ることもわかるしな・・・





いくら強い志をもって神への道、仏の道、悟りの道・・・を歩もうと決心しても、
人間の生存本能に逆らう事の方がどんな厳しい修行より苦痛ではないだろうか?
性衝動は快楽を伴うから禁欲するほど抑止は難しいだろう。

そして人間は大なり小なり、安楽、快楽に流れやすいものだ。
それを忍耐し修行することが僧侶や修道士の人生目標だろうが、
自然に備わった本能を抑止する、逆らうのってキッツイだろうと思う。

だがしかし・・・

カトリックに小児性愛者が多いのは個人的には理解し難いものがある。
日本でも昔は寺の子坊主を「稚児」と言って性の対象にしていたらしい。
しかしこれは昔の俗世間と隔離された山寺の話だ。

俗世間と関わる教会の神父にロリ コンが多いのには驚く。それも男の子の・・・
まあ相手が子供なら騙しやすいし、言いなりにしやすいって事なんだろうが、
子供に「性欲」を感じる精神構造というか、感性が私はわからんなあ・・・
私ならその子のカーちゃんに手をだすが・・・(失礼)



         ウリスト教の牧師は100%小児「性」職者www


昔は宗教者には独身制を採用する宗教教団が多かった。
もちろん一般信者ではなく指導者に当たる者である。
現在でもカトリック、ラマ教、東南アジアの上座部仏教・・・などは皆独身制だ。

一方・・・ 

キリスト教でもプロテスタント系の牧師は妻帯し家庭をもっている。
イスラム教の指導者(ウラマー)も妻帯し普通に家庭をもっている。
そしてユダヤ教のラビもである。

まあこの方が人間として自然ではあると個人的には思う。

日本では親鸞以前は仏教界すべて独身制だったのだが、
現在は仏教界すべてが妻帯し子供をもうけて俗化している。
一部の僧侶は独身を通し修行に生涯を捧げている人もいるようだ。

なぜ宗教者には独身制がとられてきたのか?
それは恐らく快楽に溺れない為の戒めだたのだろうと思う。
しかし快楽に溺れない程度に快楽を享受することはいいのではないか?



         こういう修行僧はプロ中のプロ、世俗にはいない。


個人的に思うのだが、人間は肉体を持った状態で「悟り」は不可能だという事だ。
ただ快楽を極めつくした「性の達人」になれば性欲もコントロールできるかもしれない。
或いは性を極め尽くし一定の年齢に達すれ性欲も抑制できるとは思う。

要は若いころは遊びまくってある程度「性」を理解して後ならば、
宗教界に入って修行する事も可能だろうと思うが、これを実践したのが、
浄土真宗の親鸞である。彼も修行僧時代は飲む・打つ・買うやってたそうだ。
  ↓
<参考エントリ>
浄土真宗の不思議
http://ryotaroneko.ti-da.net/e2132946.html



               悪人正機説の親鸞


そもそも・・・

仏教の開祖釈迦(ゴーダマ・シッタルダ)がそうだったじゃないか。
彼は元々王子だから何不自由なく暮らし酒池肉林の暮らしだった。
今の北朝鮮のカリアゲ豚みたいな生活してたんじゃないだろうか。

それだけ快楽も知り尽くしたからこそ、カピラバースト城の四つの門から、
世俗人の暮らしを見て人生の虚しさを感じたのではなかったのだろうか。
そこで人生とは四苦(生老病死)を悟り、出家し苦行生活に入ったのだろう。

ちなみに、釈迦みたいな偉い人が家を出れば「出家」というが、
我々凡人が家を出て行方知れずになってももただの「家出」としかいわれない。
やっぱり偉大な人はちがうなあ・・・(溜息)



         我々凡人が家を出てもこんな事は悟れない



信者には叱られるかもしれないが、キリスト教の開祖イエスだって・・・

イエスも30歳前くらいに洗礼を受け荒野に出て修行したというらしいが、
それまでは女遊びや酒飲んで喧嘩した経験も大いにあったのではないだろうか?
意外にもイエスは母マリアを泣かせた悪ガキだったかも知れないぞ。

実際にイエスの生涯で30歳前後まではまったく記述がないのである。
これはあえて聖書編集者が記述したくなかったのではないだろうか?
つまりイエスも神の子になる前に人の子だったという事である。

神童とか言われて年端もいかないガキがエラソーに大人に説法など、
馬鹿バカしくて信じる気もしないね。マリアの処女懐妊、水をワインに変えた、
パンと魚に魔法をかけ5千人分に増やす、磔刑後三日で肉体を持ったまま昇天した・・・

こんなのは後世の教会あたりが勝ってに神格化し伝説化した作り話だと私は思う。





しかし彼らの快楽三昧の暮らしは、その後の厳しい修行と、
悪魔との闘いに打ち勝つためのこれまた修行だったのだ。
ここが快楽三昧で堕落していく凡人とは大きく異なる点である。

釈迦もイエスも断食修行している間、「魔」(悪魔)の誘惑を執拗に受けたが、
これに打ち勝てたのも「欲望」を知り尽くしていたからではなかったか。
つまりしっかりした「欲への免疫」を身につけていたのである。

やっぱり偉大な人物は地獄も天国も生前に経験させられ、
人生の酸いも甘いも理解できる人生の達人であったのだ。
生身の肉体を持って生きている以上、清濁併せ呑む生き方しか出来ないな。



                苦行中の釈迦
         釈迦に悟りを開かれて困る「魔」が脅し、誘惑など、
         様々な手段を使って悟りを開かせまいと攻撃した。




            荒野で40日間断食したイエスも
            悪魔の執拗な誘惑を受けた。




昔話題になった「親分はイエス様」という実話を基にした映画があった。

暴力、強盗、恐喝、麻薬・・・殺人以外の悪事をすべて行ったヤクザが、
あるきっかけでキリスト教に出会い、悪事の人生を反省、改心した後に、
自らが牧師になって同じ境遇の人びとを救済する話である。

私はこういう人は本物だと思う。
悪のどん底に身を落とし「地獄」を見てきた境遇から這い上がり、
宗教者としての生き方を実践し迷える人々を救う生き方は凄いと思う。

ヤクザが宗教者として生まれ変わる方が、凡人として生きるよりも難しいと思う。
元々道徳的な生き方してきた人には、ヤクザの生き方は理解できないし説得力もない。
こういう牧師に説得されればヤクザも改心して真人間になるのではないか。



             元ヤクザの鈴木啓之牧師





一方、同じ不道徳な生活をしまくった人物で、
出家はしたものの、全く対照的な俗人もいる・・・

若いころ不道徳しまくって出家しても全く悟りとは縁遠い暮らしで、
TVや週刊誌には出まくって愚論を述べ俗世間と縁がきれない俗物もいる。
マスゴミはこういう袈裟を纏った俗物には実に好意的である(笑)
              

            若いころにエロ事三昧で出家して、
            90歳越えてもいまだ悟れないBBA
            いい加減に逝けよ、老醜エロBBA!





独身制は聖書に基づくものではなく、
 あくまでも教会が決めた規約に過ぎないわけだ。

宗教教義ってすべてそうじゃないのか?

私はキリスト教も仏教も特に信仰していないが興味・関心から、
聖書や仏典はよく読んでいた。そこで常に疑問を抱いていた事は、
神学論争とか仏教哲学とか何故にこうも難解なのか? という事だった。

恐らくだが、イエスや仏陀の生きていた時代には民衆は無学文盲であり、
学問など一部の王族や貴族、宗教者くらいにしか学べなかったはずである。
偉大な救世主が民衆を救うのにこんな難しい事言ってわかるはずがない。

イエスや仏陀の教えとはもっと単純明快だったはずだ。
仏教の開祖・釈迦はすべての人間が出家しろなどと言ってないし、
僧侶という職業すら念頭にはなかったのではないかと私は思う。

そんな事したら社会が成り立たないしwww

釈迦が言いたかった事は、凡人は普通に生業を持ち家庭をもって、
快楽も抑圧するのではなく適度に行い、何事にも極端に流れず、
「足る事を知った暮らし」をせよと言うだけだったのではないか?

多分イエスだって似たような事を言っていたと思うぞ。





それが弟子たちの主観や解釈の違いなど時代を重ねるごとに、
後継者たちの解釈により複雑化し、それぞれが教団を出て
分派独立していったのだろう。だから宗派というのができるのだ。

カトリックは一つだがプロテスタントなど30000以上の分派の教会があるという。
だから宗教者の戒律なども、そうやって徐々に意味もなく増えて行ったのだろう。
いや意味はあったのだろうが、時代を経るうちに形式化していったといえるだろう。

カトリックもその時代の教皇の考え方でいろいろ解釈も生まれるものだし、
所詮人間は人間、神にはなれないのだから妻帯するのは自然ではないか。
ここいら辺でカトリックも妻帯を認めてみてはいかがなものだろうか?

<参考エントリ>
聖書は神の言葉か?
http://ryotaroneko.ti-da.net/e2784494.html





ま、私は宗教心は誰しも必要だと思うし、どの宗派でも良いと思う。
信仰は個人的なものと考えているからだ。それが教団を作り、
階級や活動ノルマができれば確実に堕落すると言っておこう。

また信仰心が大事なのは、共産主義みたいに人間万能論に陥れば、
人間の傲慢さが増長され、時に残酷にもなれるからである。
もっとも一部の原理主義みたいに狂信的になっても同じだが。

何事もほどほどに、適当に、偏らない中道の生き方がよい、
とお釈迦様も言ってます。イエスも似たような事言ってないだろうか? 
とにかく・・・

   笑顔と謙虚さを忘れずに、
   いつも感謝して生きよう!







<お知らせ>
読者の皆様、一時帰国しますので数日休みます。
ではまた、よろしくお願いいたします。






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