虫で遊ぶ子供? 大切なのは遊び方だろ
2017年11月04日
むしで遊ぶ子供に「かわいそうだから逃してやれ」は大人の傲慢?
むしで遊ぶ子供に対して、大人はしばしば、かわいそうだから逃してやれ、という。その気持ちは理解できるが、かわいそう、は大人の主観、捕りたい、飼いたい、は子供の主観。主観の間に優劣はない。
では、子供からむしを救うにはどうしたらよいか。
「痛いよ!」これは効果がある。しかし、うそや出任せがばれると効果がなくなるため、正しく見極める知識と眼力が必要になる。捕りたい、という子供の学習能力は侮れない。捕るな、というにはそれ以上の能力が要求される。
「足が取れて痛がってるよ」など感情に訴える手がある。
小さい子には効くが、そのうち、むしに感情などないしバッタは脚を自ら切って逃げると知ると、それ以降、その大人の発言は重みをなくす。
「逃してやれ」は単なる傲慢
「無益な殺生はするな」と倫理観に訴える。これはすぐに、無益でないなら殺生も許される、と気付かれる。標本用、学習や研究用、害虫だから、など理由があれば、飼ったり殺したりしてもよいし、実際、大人はしているじゃないか、となる。大人がしていることを子供にするなと説得するのは難しい。専門家だから、害虫だから、には根拠がない。
日本では昆虫学の発展を常にアマチュアが支えてきた。子供の頃からむし捕りに興じ、そのまま趣味人として在野で知見を蓄えてきた経緯がある。その一部が大学などの研究者になったにすぎない。また、害虫か否かは、そのむしの生態的な地位とその人の立場で変わる上、そもそも多くの農薬や殺虫剤は無差別に殺すので論外となる。
あとは、逃したことによる自己満足くらいか。しかし多くの場合、大人の浅薄さが環境破壊に子供を加担させる結果を招く。養殖カブトムシを家の近くで逃がすと遺伝子汚染を生じるし、夜店の金魚や緑亀(アカミミガメ)を近くの川に放生するなどは外来種問題について無知蒙昧(もうまい)で、あまりに無頓着というものである。
客観的事実の積み上げなしに、感傷的なきれいごとによる「逃してやれ」は単なる傲慢(ごうまん)である。子供にとって、むしを捕ること、飼うことは、逃がすこと以上に大きな意味を持つ。
【筑豊の自然を楽しむ会(ちくぜんらく)・岸本×太(ばった)】
西日本新聞 10/22(日)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171022-00010003-nishinpc-sctch
私の子供時代には今みたいな娯楽のあふれてはいなかった。
たいてい屋外でいろんな遊びを友達とすることが普通であった。
もちろん部屋で読書したり、絵をかいたりすることもあった。
その中で虫捕り(昆虫採集)というのは夏場の遊びのひとつでもあった。
私は生き物好きだったので、虫に限らず魚やザリガニなど小動物なども、
毎日森や池に捕りに行って、自宅で飼育するのが楽しみだった。
こういうのは特に男子には身近な遊びのひとつであっただろう。
女子にも同じ趣味はいたかもしれないが、女子の場合は虫なんか
気持ち悪いとか、グロテスクだとか言って敬遠していたと思う。
近年の若い人は虫取りの経験がないせいか、
男女問わず、クモやトカゲを見つけただけで
悲鳴を上げる人が少なくないらしい。
ま、これも時代なのかな・・・

さて記事を読むと・・・
昆虫採集そのものを否定するのなら記事の通りである。
記事にもあるように昆虫研究者は虫大好き少年だっただろう。
この記事で問題になっているのは「虫と遊ぶ子供」である。
「昆虫記」でも有名なアンリ・ファーブルなども幼少期の頃から、
虫捕りが趣味以上の生活の一部ではなかっただろうか。
子供時代に生き物の観察をして生命の神秘を学ぶ事はよいことだ。
虫を捕る行為自体を動物虐待というのは過剰反応だろう。
問題は捕獲した後にその虫をどうするかである。
大抵の子供は家に持って帰りエサを与えて飼育していたと思う。
ところが子供って残酷なもので、相手の痛みを学習しないから、
虫の足や羽をちぎって遊ぶなどという事もしばしば行われる。
記事にあるように虫に痛感がないなどと考えてもいないのである。

>「無益な殺生はするな」と倫理観に訴える。これはすぐに、
無益でないなら殺生も許される、と気付かれる。
そりゃそうじゃないか
我々は人間以外の生命を食べて生かせてもらっている。
全生物一切の殺生を禁じれば生きていけないのである。
食物連鎖の中ですべての生物は捕食依存関係にあるのだ。
だから食べ物に感謝することは意味のある事なのだ。
そういう観点からも「無益な殺生はするな」も意味のある言葉だ。
ちなみに・・・
宗教的な理由でのベジタリアンも偽善だと私は考える。
彼らは動物は食べず、植物性の食物を摂取するというが、
動物と植物の命にどういう差異があると言うのだろうか?

>客観的事実の積み上げなしに、感傷的なきれいごとによる「逃してやれ」は
単なる傲慢(ごうまん)である。子供にとって、むしを捕ること、
飼うことは、逃がすこと以上に大きな意味を持つ。
概ね賛成だが・・・
この岸本×太(ばった)氏の主張にイマイチ釈然としない。
虫を取って飼育することにはそれなりの教育的意義はあるが、
虫を残酷にイジメる行為にはやはり止めろと注意すべきだろう。
虫や小動物を虐待や殺傷する行為を「喜び」と感じることは、
非常に危険性があり、人格障害に発展する可能性だってある。
エスカレートすれば人間にまでその行為が及ぶ危険性さえある。
現在でもしばしば報道されるが、猫やイヌを虐待死させる大人がいる。
こういう人の幼少期や精神常態がどうなっているのか興味はあるのだが、
これも一種の人格障害の範疇なのかもしれない。
とはいえ、私も子供時代には虫の足や羽をちぎったことはあったし、
それなりの虐待行為の経験はあったが、成長とともに自然になくなった。
別に誰から教えられた訳ではないが、こういう行為がいけないと感じてきたからだ。

しかし、やはり虫を虐待している場面に遭遇すれば、
大人としては一言注意することは「傲慢」ではないだろう。
もちろん場合によれば「逃がしてやれ」という事もあると思う。
この事は遺伝子汚染や生態系の破壊につながるという問題と別である。
生態系の破壊を云々するなら、外来種ペットの輸入を禁じるべきだろう。
現在飼っている人がペットを捨てれば厳罰に処する法律を制定すべきだ。
もしその手の虫や小動物なら可能なら大人が引き取ってもいいだろうし、
子供が虐待を理解し止めればそれでいいと思う。
要するに・・・
虐待がいけない行為だという事が子供に伝わればいい。

子供の頃、アブラゼミが成虫に脱皮する場面を
森の中で見たときはとても感動したものだった。
ペットであれ虫であれ、生き物を飼うことはいいことだと思う。
生き物を育てることで学ぶことは学問的な事以外にも多いし、
それこそ「命の尊さ」を知るきっかけにもなるからである。
読者諸氏にも生き物を飼育されている家庭もあると思うが、
毎日接していればやはり何らかの愛情というものが生まれる。
たかが虫や魚でさえも愛おしさが感じるものではないだろうか。
我々人間は自然界の支配者ではない。
生きとし生けるもの同士共に支え合って生きているのである。
「一寸の虫にも五分の魂」である。無益な殺生はすべきではない。



むしで遊ぶ子供に対して、大人はしばしば、かわいそうだから逃してやれ、という。その気持ちは理解できるが、かわいそう、は大人の主観、捕りたい、飼いたい、は子供の主観。主観の間に優劣はない。
では、子供からむしを救うにはどうしたらよいか。
「痛いよ!」これは効果がある。しかし、うそや出任せがばれると効果がなくなるため、正しく見極める知識と眼力が必要になる。捕りたい、という子供の学習能力は侮れない。捕るな、というにはそれ以上の能力が要求される。
「足が取れて痛がってるよ」など感情に訴える手がある。
小さい子には効くが、そのうち、むしに感情などないしバッタは脚を自ら切って逃げると知ると、それ以降、その大人の発言は重みをなくす。
「逃してやれ」は単なる傲慢
「無益な殺生はするな」と倫理観に訴える。これはすぐに、無益でないなら殺生も許される、と気付かれる。標本用、学習や研究用、害虫だから、など理由があれば、飼ったり殺したりしてもよいし、実際、大人はしているじゃないか、となる。大人がしていることを子供にするなと説得するのは難しい。専門家だから、害虫だから、には根拠がない。
日本では昆虫学の発展を常にアマチュアが支えてきた。子供の頃からむし捕りに興じ、そのまま趣味人として在野で知見を蓄えてきた経緯がある。その一部が大学などの研究者になったにすぎない。また、害虫か否かは、そのむしの生態的な地位とその人の立場で変わる上、そもそも多くの農薬や殺虫剤は無差別に殺すので論外となる。
あとは、逃したことによる自己満足くらいか。しかし多くの場合、大人の浅薄さが環境破壊に子供を加担させる結果を招く。養殖カブトムシを家の近くで逃がすと遺伝子汚染を生じるし、夜店の金魚や緑亀(アカミミガメ)を近くの川に放生するなどは外来種問題について無知蒙昧(もうまい)で、あまりに無頓着というものである。
客観的事実の積み上げなしに、感傷的なきれいごとによる「逃してやれ」は単なる傲慢(ごうまん)である。子供にとって、むしを捕ること、飼うことは、逃がすこと以上に大きな意味を持つ。
【筑豊の自然を楽しむ会(ちくぜんらく)・岸本×太(ばった)】
西日本新聞 10/22(日)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171022-00010003-nishinpc-sctch
私の子供時代には今みたいな娯楽のあふれてはいなかった。
たいてい屋外でいろんな遊びを友達とすることが普通であった。
もちろん部屋で読書したり、絵をかいたりすることもあった。
その中で虫捕り(昆虫採集)というのは夏場の遊びのひとつでもあった。
私は生き物好きだったので、虫に限らず魚やザリガニなど小動物なども、
毎日森や池に捕りに行って、自宅で飼育するのが楽しみだった。
こういうのは特に男子には身近な遊びのひとつであっただろう。
女子にも同じ趣味はいたかもしれないが、女子の場合は虫なんか
気持ち悪いとか、グロテスクだとか言って敬遠していたと思う。
近年の若い人は虫取りの経験がないせいか、
男女問わず、クモやトカゲを見つけただけで
悲鳴を上げる人が少なくないらしい。
ま、これも時代なのかな・・・

さて記事を読むと・・・
昆虫採集そのものを否定するのなら記事の通りである。
記事にもあるように昆虫研究者は虫大好き少年だっただろう。
この記事で問題になっているのは「虫と遊ぶ子供」である。
「昆虫記」でも有名なアンリ・ファーブルなども幼少期の頃から、
虫捕りが趣味以上の生活の一部ではなかっただろうか。
子供時代に生き物の観察をして生命の神秘を学ぶ事はよいことだ。
虫を捕る行為自体を動物虐待というのは過剰反応だろう。
問題は捕獲した後にその虫をどうするかである。
大抵の子供は家に持って帰りエサを与えて飼育していたと思う。
ところが子供って残酷なもので、相手の痛みを学習しないから、
虫の足や羽をちぎって遊ぶなどという事もしばしば行われる。
記事にあるように虫に痛感がないなどと考えてもいないのである。

>「無益な殺生はするな」と倫理観に訴える。これはすぐに、
無益でないなら殺生も許される、と気付かれる。
そりゃそうじゃないか
我々は人間以外の生命を食べて生かせてもらっている。
全生物一切の殺生を禁じれば生きていけないのである。
食物連鎖の中ですべての生物は捕食依存関係にあるのだ。
だから食べ物に感謝することは意味のある事なのだ。
そういう観点からも「無益な殺生はするな」も意味のある言葉だ。
ちなみに・・・
宗教的な理由でのベジタリアンも偽善だと私は考える。
彼らは動物は食べず、植物性の食物を摂取するというが、
動物と植物の命にどういう差異があると言うのだろうか?

>客観的事実の積み上げなしに、感傷的なきれいごとによる「逃してやれ」は
単なる傲慢(ごうまん)である。子供にとって、むしを捕ること、
飼うことは、逃がすこと以上に大きな意味を持つ。
概ね賛成だが・・・
この岸本×太(ばった)氏の主張にイマイチ釈然としない。
虫を取って飼育することにはそれなりの教育的意義はあるが、
虫を残酷にイジメる行為にはやはり止めろと注意すべきだろう。
虫や小動物を虐待や殺傷する行為を「喜び」と感じることは、
非常に危険性があり、人格障害に発展する可能性だってある。
エスカレートすれば人間にまでその行為が及ぶ危険性さえある。
現在でもしばしば報道されるが、猫やイヌを虐待死させる大人がいる。
こういう人の幼少期や精神常態がどうなっているのか興味はあるのだが、
これも一種の人格障害の範疇なのかもしれない。
とはいえ、私も子供時代には虫の足や羽をちぎったことはあったし、
それなりの虐待行為の経験はあったが、成長とともに自然になくなった。
別に誰から教えられた訳ではないが、こういう行為がいけないと感じてきたからだ。

しかし、やはり虫を虐待している場面に遭遇すれば、
大人としては一言注意することは「傲慢」ではないだろう。
もちろん場合によれば「逃がしてやれ」という事もあると思う。
この事は遺伝子汚染や生態系の破壊につながるという問題と別である。
生態系の破壊を云々するなら、外来種ペットの輸入を禁じるべきだろう。
現在飼っている人がペットを捨てれば厳罰に処する法律を制定すべきだ。
もしその手の虫や小動物なら可能なら大人が引き取ってもいいだろうし、
子供が虐待を理解し止めればそれでいいと思う。
要するに・・・
虐待がいけない行為だという事が子供に伝わればいい。

子供の頃、アブラゼミが成虫に脱皮する場面を
森の中で見たときはとても感動したものだった。
ペットであれ虫であれ、生き物を飼うことはいいことだと思う。
生き物を育てることで学ぶことは学問的な事以外にも多いし、
それこそ「命の尊さ」を知るきっかけにもなるからである。
読者諸氏にも生き物を飼育されている家庭もあると思うが、
毎日接していればやはり何らかの愛情というものが生まれる。
たかが虫や魚でさえも愛おしさが感じるものではないだろうか。
我々人間は自然界の支配者ではない。
生きとし生けるもの同士共に支え合って生きているのである。
「一寸の虫にも五分の魂」である。無益な殺生はすべきではない。


Posted by トラネコ at 00:00│Comments(12)
│社会
この記事へのコメント
「弱肉強食」は自然の法則ですが、人間は自らが生きる為に他の生物の命を奪うことを罪悪視するようになり、「人間以外の生物は人間に喰われる為に生まれて来た」と屁理屈を捏ねる者・「人間が生きる為に他の生物の命を奪うのは、人間が持つ業である」と解ったようなことを言う者が出て来ました。何故生き物を虐めることがいけないかを教える為、今上陛下は御幼少の皇太子殿下を池に落とし、「お前は今苦しかったように、お前に虐められた生き物も苦しかったのだ」と諭されました。居直ることも、業を受け入れてより善く生きようとすることも、人間が知恵を持つが故のことですが、作家を兼業している愛欲尼さんに言われるとどうも・・・。すみません、うまくまとまりませんでした。
Posted by NTRC特撮軍団長・ヤラセロウ大元帥 at 2017年11月04日 11:57
>トラネコさん、こんにちは。
>>我々人間は自然界の支配者ではない。 生きとし生けるもの同士共に支え合って生きているのである。 「一寸の虫にも五分の魂」である。無益な殺生はすべきではない
その通り! 良く宗教をやって居る人で、「人は、神に選ばれた特別な存在である」とか宣う人がいるが、全く賛同できない。 神がこの宇宙や地球を創られたとしても、人類が神の前に現れたのは、神にして見ればほんの数秒だろう。
確かに自分達が置かれて居る環境の精妙さを考えれば、奇跡が連続で起こっていなければ、人間はおろか、この地球には、生物すら住めなかっただろう。 ダカラ、「神の経綸=ご計画」と言うものはあるのかもしれない。然しダカラと言って人類が神にとって、特別な存在であると言う事にはなるまい。
この地球上で生命あるものは、全て同じ元素構成でできて居ます。 炭素、酸素、窒素、珪素の四大元素、それにミネラル分です。
つまり人類も「唯の地球の欠片」に過ぎないのです。すると、地球上の命あるモノは動植物全て、犬猫は言うに及ばず、小さなミジンコや花や野菜、果てはキノコ粘菌類すら、同胞なのです。勿論、昆虫も生命ある存在としてかなり身近なものです。 昆虫には、色々ありますが、害虫、益虫等の区別はこの際関係がないと思います。
神が生きるものを平等に造られた点があります、其れは、自分の命を護ろうとする生存本能、そして、自分の子孫を遺そうと言う生殖から生じる保存本能です。ですから、小さな蟻でも、ゴキブリでも、ナントか生き延びようとします。でも、生き物は。結局、他の生物の命を奪わないと、自身が生きて行けません。
是が、神が創られた世界の掟なのです。 当然、人類とて例外ではありません。分り易い例でいえば、動物には「天敵」と言うものがいますが、人類にはいない様に思えます。 然し、良く考えて看れば、人類の天敵は人類であると分ります。
子供は簡単に、昆虫を殺したり、可愛がったり、しますが全て遊びです。然し、可愛がっていても大抵の生き物は人間より早く死にます。 幾ら、長生きしてほしいと願っても、生物は決められた寿命と言うものがあり、生命は何時か終わるのが、掟なのだと知ります。 そして、次に、何故寿命があるのかを考え始めるのです。
ですから多寡が、と思うかもしれませんが、昆虫に接する事は、命を学習する事なのです。 仏教はアーリア人が持ち込んだ転生輪廻思想を否定して居ません。つまり、生命とは肉体が生きて居る裡ダケのものでは無く、魂という次元の異なる存在にもなり、其れは次に肉体を持つ機会があれば、魂として連続すると言う事です。
昆虫は苦痛を感じない様にできて居るそうですが、仏教では、「自分が他に為した事は時空を超えて我が身に倍旧して還る」(重々無尽の理、華厳経)と教えます。
つまり、自分が今、して居る行為を何れ自分が受ける事になる、と言う事です。ダカラ無益な殺生をすれば、自然に地獄へ落ちるのです
>>我々人間は自然界の支配者ではない。 生きとし生けるもの同士共に支え合って生きているのである。 「一寸の虫にも五分の魂」である。無益な殺生はすべきではない
その通り! 良く宗教をやって居る人で、「人は、神に選ばれた特別な存在である」とか宣う人がいるが、全く賛同できない。 神がこの宇宙や地球を創られたとしても、人類が神の前に現れたのは、神にして見ればほんの数秒だろう。
確かに自分達が置かれて居る環境の精妙さを考えれば、奇跡が連続で起こっていなければ、人間はおろか、この地球には、生物すら住めなかっただろう。 ダカラ、「神の経綸=ご計画」と言うものはあるのかもしれない。然しダカラと言って人類が神にとって、特別な存在であると言う事にはなるまい。
この地球上で生命あるものは、全て同じ元素構成でできて居ます。 炭素、酸素、窒素、珪素の四大元素、それにミネラル分です。
つまり人類も「唯の地球の欠片」に過ぎないのです。すると、地球上の命あるモノは動植物全て、犬猫は言うに及ばず、小さなミジンコや花や野菜、果てはキノコ粘菌類すら、同胞なのです。勿論、昆虫も生命ある存在としてかなり身近なものです。 昆虫には、色々ありますが、害虫、益虫等の区別はこの際関係がないと思います。
神が生きるものを平等に造られた点があります、其れは、自分の命を護ろうとする生存本能、そして、自分の子孫を遺そうと言う生殖から生じる保存本能です。ですから、小さな蟻でも、ゴキブリでも、ナントか生き延びようとします。でも、生き物は。結局、他の生物の命を奪わないと、自身が生きて行けません。
是が、神が創られた世界の掟なのです。 当然、人類とて例外ではありません。分り易い例でいえば、動物には「天敵」と言うものがいますが、人類にはいない様に思えます。 然し、良く考えて看れば、人類の天敵は人類であると分ります。
子供は簡単に、昆虫を殺したり、可愛がったり、しますが全て遊びです。然し、可愛がっていても大抵の生き物は人間より早く死にます。 幾ら、長生きしてほしいと願っても、生物は決められた寿命と言うものがあり、生命は何時か終わるのが、掟なのだと知ります。 そして、次に、何故寿命があるのかを考え始めるのです。
ですから多寡が、と思うかもしれませんが、昆虫に接する事は、命を学習する事なのです。 仏教はアーリア人が持ち込んだ転生輪廻思想を否定して居ません。つまり、生命とは肉体が生きて居る裡ダケのものでは無く、魂という次元の異なる存在にもなり、其れは次に肉体を持つ機会があれば、魂として連続すると言う事です。
昆虫は苦痛を感じない様にできて居るそうですが、仏教では、「自分が他に為した事は時空を超えて我が身に倍旧して還る」(重々無尽の理、華厳経)と教えます。
つまり、自分が今、して居る行為を何れ自分が受ける事になる、と言う事です。ダカラ無益な殺生をすれば、自然に地獄へ落ちるのです
Posted by ナポレオン・ソロ at 2017年11月04日 13:23
>我々人間は自然界の支配者ではない
環境破壊は勿論、環境保護と言う発想も、と言うよりこの発想は環境破壊以上に人間の傲慢さ感じますね。乱獲で激減した鹿を「保護」するために禁猟措置を取ったら今度は数が増え過ぎて畑や森林を荒らすようになってまた駆除せざるを得なくなった、と言う本末転倒な例がありますからね。環境破壊も保護も、結局は「人間の生きていくうえで避けて通れない都合」で行われている事を我々は「謙虚に」受け止める必要がありますね。
ナポレオン・ソロ様
>、仏教では、「自分が他に為した事は時空を超えて我が身に倍旧して還る」(重々無尽の理、華厳経)と教えます
まさに何処ぞの野党の十八番ですな(爆笑)。
環境破壊は勿論、環境保護と言う発想も、と言うよりこの発想は環境破壊以上に人間の傲慢さ感じますね。乱獲で激減した鹿を「保護」するために禁猟措置を取ったら今度は数が増え過ぎて畑や森林を荒らすようになってまた駆除せざるを得なくなった、と言う本末転倒な例がありますからね。環境破壊も保護も、結局は「人間の生きていくうえで避けて通れない都合」で行われている事を我々は「謙虚に」受け止める必要がありますね。
ナポレオン・ソロ様
>、仏教では、「自分が他に為した事は時空を超えて我が身に倍旧して還る」(重々無尽の理、華厳経)と教えます
まさに何処ぞの野党の十八番ですな(爆笑)。
Posted by KOBA at 2017年11月04日 19:28
インドに行ったとき、ジャイナ教という宗教についてききました。なんでも、血を吸う蚊を叩き潰してもいけない、あらゆる殺生を嫌う宗教ということで、虫を払いのけて踏みつぶさないようにほうきを持ち歩いている、ということでした。
しかし、今日では明らかなように、我々は体のなかで、細菌やウイルスや新生物を殺しまくっているわけで、そうしなければ、エイズ患者のようになって死んでしまうわけです。
つまり、自然界は、弱肉強食の、食うか食われるかの相克の世界であって、そこに情けは無用ということかもしれません。
しかし、この弱肉強食の世界は、不必要な殺生はしない世界でもあるでしょう。あるいは、肉食動物の残虐さは、獲物を獲るための、必要性から来るものと解すべきものでしょう。
連続殺人鬼になる者が、動物虐待等から入門するのは、彼らが人間狩りをするための予行演習をしているものと考えてよいかもしれません。彼らは、人間社会内部に巣くう、人間の「天敵」ですから、いち早く発見して、それなりの処置を行うべきだと思います。
しかし、今日では明らかなように、我々は体のなかで、細菌やウイルスや新生物を殺しまくっているわけで、そうしなければ、エイズ患者のようになって死んでしまうわけです。
つまり、自然界は、弱肉強食の、食うか食われるかの相克の世界であって、そこに情けは無用ということかもしれません。
しかし、この弱肉強食の世界は、不必要な殺生はしない世界でもあるでしょう。あるいは、肉食動物の残虐さは、獲物を獲るための、必要性から来るものと解すべきものでしょう。
連続殺人鬼になる者が、動物虐待等から入門するのは、彼らが人間狩りをするための予行演習をしているものと考えてよいかもしれません。彼らは、人間社会内部に巣くう、人間の「天敵」ですから、いち早く発見して、それなりの処置を行うべきだと思います。
Posted by 丑寅の金さん at 2017年11月04日 22:57
NTRC特撮軍団長・ヤラセロウ大元帥様
同意です。
仰りたいことは理解できます。
>今上陛下は御幼少の皇太子殿下を池に落とし・・・
これ本当ですか?
私は今上陛下と皇太子殿下の間にこんな逸話があったことを知りませんでした。確か先帝陛下は世界的な生物学者であらせられました。そして世界平和を祈る神道の聖職者というお立場からも、今上陛下がこのような躾を皇太子殿下に為さったことは理解できます。こんな教育をする他国の王族がいるでしょうかね・・・
私は以前あのキモイ愛欲老婆の説法なるものを聞いたことがありましたが、別に修行僧が言うほどの大した話ではなかったですね。なんであんな戯言など有難がって聞きにいく庶民がいるのでしょうか、まあそれだけ日本人も劣化しているのかもしれません。
ナポレオン・ソロ様
同意です。
>良く宗教をやって居る人で、
「人は、神に選ばれた特別な存在である」とか宣う人・・・
これってキリスト教系の宗派の人でしょう。
仏教徒や神道系の信者は、絶対にこんな傲慢不遜な事は言わないとおもいますよ。まずは神道的世界観からみても、仏教的世界観からみても「山川草木悉皆成仏」といわれるくらい、人間と自然は対等な関係なんです。そして仰るように因果の法則とは物理学でいう作用反作用の法則と同じで、自分がなした行為は必ず返ってくるのです。だから自然も他人も社会も破壊したり、傷つけたりしてはいけないのです。いい加減西欧人も一神教の限界を知るべきでしょうね。
同意です。
仰りたいことは理解できます。
>今上陛下は御幼少の皇太子殿下を池に落とし・・・
これ本当ですか?
私は今上陛下と皇太子殿下の間にこんな逸話があったことを知りませんでした。確か先帝陛下は世界的な生物学者であらせられました。そして世界平和を祈る神道の聖職者というお立場からも、今上陛下がこのような躾を皇太子殿下に為さったことは理解できます。こんな教育をする他国の王族がいるでしょうかね・・・
私は以前あのキモイ愛欲老婆の説法なるものを聞いたことがありましたが、別に修行僧が言うほどの大した話ではなかったですね。なんであんな戯言など有難がって聞きにいく庶民がいるのでしょうか、まあそれだけ日本人も劣化しているのかもしれません。
ナポレオン・ソロ様
同意です。
>良く宗教をやって居る人で、
「人は、神に選ばれた特別な存在である」とか宣う人・・・
これってキリスト教系の宗派の人でしょう。
仏教徒や神道系の信者は、絶対にこんな傲慢不遜な事は言わないとおもいますよ。まずは神道的世界観からみても、仏教的世界観からみても「山川草木悉皆成仏」といわれるくらい、人間と自然は対等な関係なんです。そして仰るように因果の法則とは物理学でいう作用反作用の法則と同じで、自分がなした行為は必ず返ってくるのです。だから自然も他人も社会も破壊したり、傷つけたりしてはいけないのです。いい加減西欧人も一神教の限界を知るべきでしょうね。
Posted by トラネコ at 2017年11月04日 23:11
丑寅の金さん 様
同意です。
>この弱肉強食の世界は、不必要な殺生はしない世界でもあるでしょう
ここなんですね。
人間も含め食物連鎖は互いの命の犠牲の上に成り立っているが、決して必要以上に殺生はしないのです。例えば満腹のライオンは目の前に鹿やウサギが歩いていても知らん顔しています。しかし人間だけは金儲けという欲望のために必要以上に殺生を繰り返しています。これが自然破壊であり、その反動が地震・津波・台風・旱魃・・・という自然の怒りなんでしょうね。
同意です。
>この弱肉強食の世界は、不必要な殺生はしない世界でもあるでしょう
ここなんですね。
人間も含め食物連鎖は互いの命の犠牲の上に成り立っているが、決して必要以上に殺生はしないのです。例えば満腹のライオンは目の前に鹿やウサギが歩いていても知らん顔しています。しかし人間だけは金儲けという欲望のために必要以上に殺生を繰り返しています。これが自然破壊であり、その反動が地震・津波・台風・旱魃・・・という自然の怒りなんでしょうね。
Posted by トラネコ at 2017年11月04日 23:15
>「逃してやれ」は単なる傲慢
これを言う大人は、幼少期にどんな遊びしてたんですかね?青白い顔して学校通って塾へ行き、そのままマクドナルドでメシ食うような、それこそ、ある意味飼育されてるラットみたいな生活してたんですかね?
クワガタを越冬させ、数年生かし、尚且つ子孫まで繁栄させ・・・って経験したことないんでしょうね。それに、サワガニ食ったり、病気になって亀に酒飲ませて川に戻したとか、そういうのがないのでしょう。
確かに、虫を取りに来る子供が減った気がします、ですが、、友達連れだって晩飯の時間くらいまで虫をとりに行って、新しい場所を見つけて散々取りまくって、メチャクチャデカい虫かごに、木くずや木の枝を入れて、お互い喧嘩させない様にして、その虫の変化、樹液吸わせるにも、与え方間違えると吸い過ぎて死んじゃうようなことがないようにしたり、かっていうワクワクするような経験がないのでしょうかね??
そんな事言うなら、極論飲食するなよって思います。これを言ったりする大人から見れば、私見たら、卒倒するんじゃないかなwwww
>「無益な殺生はするな」と倫理観に訴える。これはすぐに、無益でないなら殺生も許される、と気付かれる
無益な殺生は直向きに生きる人間が被害に遭う事で、無益でない殺生は、反日日本人、左翼、シナ人、トンスラーをミンチにする事であり、無益でないどころか地球にとって計り知れないほどの有益な事です。
これを言う大人は、幼少期にどんな遊びしてたんですかね?青白い顔して学校通って塾へ行き、そのままマクドナルドでメシ食うような、それこそ、ある意味飼育されてるラットみたいな生活してたんですかね?
クワガタを越冬させ、数年生かし、尚且つ子孫まで繁栄させ・・・って経験したことないんでしょうね。それに、サワガニ食ったり、病気になって亀に酒飲ませて川に戻したとか、そういうのがないのでしょう。
確かに、虫を取りに来る子供が減った気がします、ですが、、友達連れだって晩飯の時間くらいまで虫をとりに行って、新しい場所を見つけて散々取りまくって、メチャクチャデカい虫かごに、木くずや木の枝を入れて、お互い喧嘩させない様にして、その虫の変化、樹液吸わせるにも、与え方間違えると吸い過ぎて死んじゃうようなことがないようにしたり、かっていうワクワクするような経験がないのでしょうかね??
そんな事言うなら、極論飲食するなよって思います。これを言ったりする大人から見れば、私見たら、卒倒するんじゃないかなwwww
>「無益な殺生はするな」と倫理観に訴える。これはすぐに、無益でないなら殺生も許される、と気付かれる
無益な殺生は直向きに生きる人間が被害に遭う事で、無益でない殺生は、反日日本人、左翼、シナ人、トンスラーをミンチにする事であり、無益でないどころか地球にとって計り知れないほどの有益な事です。
Posted by やま at 2017年11月04日 23:17
やま様
私の知人(30代後半)に虫が大っ嫌いな男性がいます。
都会っ子でありますが、一度も昆虫採集も飼育もしたことがないそうですが、犬やリスみたいな愛玩用ペットは飼っていたみたいです。でも葉っぱにいた小さなクモみただけで悲鳴を上げるくらいでも虫はすべてダメみたいです。まあこういう時代なんでしょう。電車でもスマホでゲームやってる人って、年齢関係なく結構いますしね。まあ人間が一番無益な殺生をしている、自然界で最も罪深い生き物でしょう、特に共産主義者やカルト教団は死ねば、こいつら間違いなく地獄に墜ちる糞どもです。
私の知人(30代後半)に虫が大っ嫌いな男性がいます。
都会っ子でありますが、一度も昆虫採集も飼育もしたことがないそうですが、犬やリスみたいな愛玩用ペットは飼っていたみたいです。でも葉っぱにいた小さなクモみただけで悲鳴を上げるくらいでも虫はすべてダメみたいです。まあこういう時代なんでしょう。電車でもスマホでゲームやってる人って、年齢関係なく結構いますしね。まあ人間が一番無益な殺生をしている、自然界で最も罪深い生き物でしょう、特に共産主義者やカルト教団は死ねば、こいつら間違いなく地獄に墜ちる糞どもです。
Posted by トラネコ
at 2017年11月04日 23:26

ベジタリアンに偽善を感じるのは私もです。人ってあらゆるお陰様で生きてると思います。人間がこの世の頂点なんておもいませんし、その人間を創造した神。絶対的な存在あるなんて疑問を持つ今日この頃です。人は一人では生きられないと言いますが。この地球及び太陽系宇宙の中で人間なんてチリ
みたいなもんですね。
みたいなもんですね。
Posted by うさこ at 2017年11月06日 21:49
うさこ様
同意です。
仰ることは理解しますが、これを一神教の観点からも同じ解釈はできるんですね。でも私は日本教の信者ですから八百万の神々と共に生き、八百万の神々のお陰を感謝して生きていきたいです。
同意です。
仰ることは理解しますが、これを一神教の観点からも同じ解釈はできるんですね。でも私は日本教の信者ですから八百万の神々と共に生き、八百万の神々のお陰を感謝して生きていきたいです。
Posted by トラネコ
at 2017年11月06日 22:12

キリスト教の教会でのお祈りで天のお父様で始まるお祈りにはずーと違和感ありましたね。訳あって教会に行ってたんですが。祖母が近所のお地蔵様に、この子を守ってやって下さいと手を合わせてくれてた時、何故か安心してた記憶あります。母がクリスチャンで無理くり連れて行かれたんですが、子供の私は、泥臭い祖母より素敵な?紳士淑女。ピアノ弾いたり手作りケーキとか出来る人ばかり。祖母はヤソが〜てって毒ずいてました。祖父母と私の生活費は父、頼みなので、うさこをバテレンに連れて行くなって言えなかったんですね。ごめんね。でも、私は今、ばあちゃんが大好き。会いたいなあ。
Posted by うさこ at 2017年11月07日 19:00
うさこ様
同意です。
やっぱりおばあちゃんの知恵ってすごいですね。
小難しい言葉は知らなくても、長年の人生で学んだ生活の知恵がある。
私も子供時代は祖母の言葉を、恥ずかしながらバカにしていた事がありました。祖母が学問はなくても言ってることはまったく正論だったのを、自分が大人になってから気が付いた事を思い出します。自分も年を取ってわかる事が結構ありますよね・・・
同意です。
やっぱりおばあちゃんの知恵ってすごいですね。
小難しい言葉は知らなくても、長年の人生で学んだ生活の知恵がある。
私も子供時代は祖母の言葉を、恥ずかしながらバカにしていた事がありました。祖母が学問はなくても言ってることはまったく正論だったのを、自分が大人になってから気が付いた事を思い出します。自分も年を取ってわかる事が結構ありますよね・・・
Posted by トラネコ
at 2017年11月07日 19:48
