てぃーだブログ › トラネコ日記 › 歴史 › キリスト教禁止令とは何だったのか?

キリスト教禁止令とは何だったのか?

2008年05月30日

桃山時代の豊臣秀吉から江戸時代の徳川家康まで、
キリスト教への禁教令が敷かれていた。

クリスチャンから見るとこれは宗教弾圧だと見るだろう。

最近の中高生の歴史教科書を見ていないので、なんともいえないが、
私の頃には何故キリスト教が禁止されたかと言うことについては、
神の前の平等を説くキリスト教は、身分制度で人びとを支配する
武士側にとって不都合な教えだったから、と習った記憶がある。

しかしこれは一方的な見方であって、正しくない。
そもそも織田信長はキリスト教を一度も禁じていないし、
むしろ南蛮文化を学ぶために積極的にバテレンの宣教師と交流した。
豊臣秀吉も当初は同じだった。

ではなぜ秀吉はキリスト教を禁じたのか?

「九州御動座記」には九州平定のために博多に降りた秀吉は、
キリシタン大名とイエズス会宣教師達のあまりにも酷い、
住民弾圧と寺社破壊を目の当たりにするのだ。

キリシタン大名達はヴァリニャーノ神父と結託し、
ポルトガルから鉄砲に使う火薬の材料と交換に、
領地の若い男女を奴隷としてイエズス会に差し出していた。

さらにキリシタン大名は自分の領地の神社や寺の神主、僧侶に対し、
キリスト教への改宗を強制した。それに従わないものは殺すか、拷問にかけ、
神社や寺は焼き捨てた。それは一般住民に対しても同様だった。

こういった事実を見た秀吉は1587年にイエズス会のコレーリョ神父に、
日本人の奴隷売買を禁じる書簡を送っている。翌年にバテレン追放令をだし、
1596年ついにポルトガル国王は日本人奴隷の売買禁止令を出した。
同年土佐沖のスペイン商船サント・フェリーペ号事件で、
キリスト教とスペイン・ポルトガルの侵略がセットであることが明白になる。

その後秀吉のキリシタン禁教政策は徳川家康に受け継がれる。
鎖国は国家安全保障上の外交政策だった。

鎖国というが、厳密には外交制限であって、
スペイン、ポルトガルのようなキリスト教を、
侵略の道具に使う国とは交易しないというだけのことだ。

だからオランダとは交易を許した。
オランダはキリスト教布教には関心が無く、貿易という商売のみ熱心だった。
また明・清国そして朝鮮、薩摩を通じて琉球とは交易していた。
東南アジアとはオランダを介して交易していた。
この時代これだけの地域と交易していれば、鎖国とはいわないのだ。
教科書の鎖国の記述は改めるべきだろう。

こういった背景は日本の学校教育では明治以降教えなかった。

なぜか?
答えは簡単である。
欧米=キリスト教文明国に遠慮したに過ぎない。
それは明治維新の文明開化に、多くの欧米人お抱え教師を招き近代化への指導を受けた。
そのためにキリスト教の悪口ははばかられたのだ。
また戦後のマッカーサー統治時代も敗戦国の立場で、占領米軍に対し同様のことがあった。

日本人のお人よしも国民教育から見ると犯罪的ですらある。
現在も中国や半島国家に対する戦後の贖罪意識から、
自国の歴史すらも正しく教えない愚を何十年も続けている。

こういう国はいくらカネを世界にばら撒いても、
軽蔑こそされても決して尊敬されることはないのだw

私は今のチンパンジー首相と野党第一党党首の卑しい醜い顔が、
ヘドがでるくらい大っ嫌いである。



同じカテゴリー(歴史)の記事

Posted by トラネコ at 01:14│Comments(2)歴史
この記事へのコメント
キリスト教の国から来た船で持ち込まれた口蹄疫、コレラ、チフス等々の伝染病の進入を防いだ。伝染病のことを昔は「邪気」と言った。
Posted by tubaki at 2010年05月21日 21:45
目から鱗の真実です!

我が家の長男は現在、2歳。長男が小学校へ通う頃には正しい歴史の教科書が使われるようになっていますように、、
Posted by sumi at 2019年08月26日 14:21
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。