イギリスで無宗教者が増加、いよいよ神道の時代だ!

トラネコ

2017年12月13日 00:00

イギリスで「自分は無宗教だ」とする成人の数が過半数を上回り過去最高に
イギリスで社会調査を行っている国立社会調査センター(National Centre for Social Research)が発表した信仰している宗教に関する調査によると、現在イギリスで何の宗教も信じていないという人の割合が、半数以上の53%に達したという。 2015年の調査の48%から5%増えたことになる。

「無宗教」は特定の宗教を信仰しない、または信仰そのものを持たないという思想のことで、神の存在すら存在しないという「無神論」とは違うと解釈されている。


■ 減っていくイングランド国教会支持者
イギリスでは、無宗教の人の割合は、調査を始めた1983年当初に31%だった数字が、それ以降徐々に上がってきていている。 特定の宗教を信仰している人の数が減っていることは、特にキリスト教であるイングランド国教会に大きな打撃を与えている。 自分はイングランド国教会派だと考えている人はわずか15%で、2000年の半分になってしまったそうだ。

■ 特に顕著な若年層の宗教離れ
宗教を信じる人の減少は、特に若い人たちの間で顕著になっている。 2016年には、18~24歳の若者の71%が、なんの宗教も信じていないと答え、2015年の62%から増えている。

2015年から2016年にかけて、すべての年齢層で宗教を信じている人の数は減少しているが、高齢者はまったくの無信仰という人はやはり少ない。 65~74歳の4割は無信仰だと言うが、75歳以上になると27%とぐっと減る。

だが、イングランド国教会を信じる若者は特に少ない。 18~24歳でイングランド国教会派だという人はわずか3%で、75歳以上の40%に比べると非常に低い。

■ リベラル化が進むイギリスの現状。
国立社会調査センターのロジャー・ハーディングは、この状態は、長期的に宗教乖離がますます進む傾向につながると言っている。 年齢による信仰心の違いははっきり分かれ、多くの若者は相変わらず無宗教で、この傾向がすぐになくなるとは考えにくい。

イングランド国教会信者数の減少がもっとも顕著だが、こうした数字はあらゆる宗教団体リーダーを考え込ませてしまうはずだという。 信心深い人たちの間でも同性愛や中絶といった問題に社会的にますますリベラルになっているという。

信者数の減少を受けて、宗教の指導者たちは、新しい社会の変化に適応していくよう信者たちを主導していくために、考え方ややり方を変える時期が来ているのかもしれない。
カラパイア 2017年11月29日
http://karapaia.com/archives/52249770.html



            信者離れが進むイギリス国教会



私の想像だが、無宗教者が増加しているというより、
一神教離れではないかと思う。もっと厳密にいうならば、
一神教の束縛からの「解放」を求めているのではないだろうか?

つまり一神教は教会経由もあるが、個人と神との契約により、
教義(ドグマ)を厳格に守ることが信仰の前提条件になっている。
教義を守るというのは宗教による精神の束縛である。

真面目な信者であればあるほど教義に忠実であり、それ故に
自縄自縛になっていくのである。つまり宗教による心の解放は、
一時的にあっても長期的には束縛しかないのでないだろか?

しかも同じ神を信じ、愛を説く宗教同士が憎しみ合い殺し合っている。

これが21世紀になって起こってきた一神教世界の自己矛盾の結果である。
一神教の教義と現実、或いは歴史的経緯においての矛盾の露呈である。
「全知全能」と規定される神の「限界」が人々に見えてきたのである。

誰だかが聖書を分析して神と悪魔のどちらが多くの殺人をしたのか調べた。
すると悪魔が殺した人数はたった10人に対し、2,038,344人も殺したのだ!
圧倒的に愛と平和の神の方が異教徒殺しをしてきたのだ!

そしてこの人殺しの「神」を信仰した人々は世界中で異教徒の大虐殺を繰り返し、
今もなお中東や中央アジアやアフリカで神の名の下に人殺しを続けている。
これが二千年以来の一神教の矛盾した世界の現実である。



     神による大量殺人―「従わない者を殺す神」は本当に正しいのか?
     http://true-ark.com/bible-faq-gods-rightousness/



現在イギリスで何の宗教も信じていないという人の割合が、
 半数以上の53%に達したという。 2015年の調査の48%から
 5%増えたことになる。 「無宗教」は特定の宗教を信仰しない、 
 または信仰そのものを持たないという思想のことで、
 神の存在すら存在しないという「無神論」とは違うと解釈されている。

無宗教だが無神論者ではない・・・
な~んだ、日本人の我々と同じじゃないか(笑)


この傾向は非常に重要な示唆をしていると思う。
無宗教者は宗教という枠組みから逃れたいだけではないのか?
教義から教会や神父・牧師の権威から自由になりたいだけだろう。


日本で出会った熱心なクリスチャンの何人かはこういった。
「神(キリスト)を信じれば心が自由になり解放される」と。
しかし彼らを見るとむしろ心は教義に束縛されているように思った。

そりゃそうだろう、神さんと契約して契約を履行しなければならない。
ならば契約事項の遵守は当然の事、信者の義務なんだからな・・・
ドグマ(教義)宗教とはそういうものじゃないのか?






つまり本当の神は、教会や宗教界のヒエラルキーや儀式や教義など、
そんなことは言ってもいないし、作ってもいなかったんじゃないか?
私は宗教に対しそういう疑問を若いころからもっていた。

以前アーノルド・トインビーだったか誰だかが言っていたが・・・

アニミズム(精霊崇拝)が原始的な自然崇拝の宗教形態であり、
その後生まれた一神教を「高等宗教」として多神教より高く位置付けた。
木や山や風や雨や火・・・を神とあがめているのは野蛮人の精神だというのだ。

確かに旧約聖書のモーゼの出エジプト記にも偶像崇拝や、
多神教を強く戒める神の怒りと十戒
が述べられているのも事実だ。
この思想は実はGHQの神道指令の背景にある考え方でもある。

一神教を高等宗教とするのは超越的存在=神を出現させた事らしいが、
創造神が人間を導く指針になったという、この定義はおかしいのではないか?
つまり神が人間に道徳(人の道)を教えたからだと言いたいらしいが・・・

 日本人は昔から一神教なんか知らなくても、
 一神教信者より道徳的に遥かに高潔だからだ。






          一神教の「神」と多神教の「神」とは、
          数の問題ではなく概念が全く異なる。




ここで興味深い話を紹介しよう。

植物の分布を研究して、生物の生態分布境界線ウォレス線で有名な、
アルフレッド・ラッセル・ウォレスを御存じの方もおられるだろう。
私も昔、高校の生物で習ったことがある。

この人はダーウィンにも匹敵する進化論を独自に発見したのだが、
一方心霊研究にも没頭していた事で科学者の間では変わり者とみられ、
これが為にダーウィンほど世間的な評価はなされて来なかったようだが、
ウォレスが偉大な科学者である事には変わりはない。

さてウォレスがニューギニア付近の島で植物などの生態調査していたとき、
原住民を荷役や雑用に雇っていたのだが、彼らの道徳性の高さに驚いた
嘘をつかず、真面目に働き、買い物に行かせてもつり銭を誤魔化さなかった。

また原住民の部族間でも商取引をしていたのだが、
一切の誤魔化しや詐欺行為がないことを発見し驚いたのだ。
「野蛮人」とされる彼らが極めて正直かつ誠実な取引をしていたのである。





自分の祖国イギリス(当時世界最大の覇権国家)のロンドンでは、
強盗も泥棒も殺人も詐欺も・・・毎日のように横行していたからである。
真面目に神を信じ洗礼も受けた英国人が平気で悪事を行っていたのだ。

しかしここ未開の「野蛮人」と自分達が考えている人々には、
ロンドンっ子のような如何わしさがない。真面目で誠実である。
嘘はつかないし盗みもしないのである。


 「野蛮人」の方が遥かに信頼できる!
 これはいったいどういう事なのか?


進化論を信じていたウォレスは人間の道徳性と進化は関係ないと考えた。
そしてここは私の想像であるが、ウォレスはもしかしたら人間性において、
信じる宗教の対象すら道徳性とは関係ないと考えたのではないか?

さらにウォレスは生物の進化と人間の魂とは別物と考えるようになった。

なぜなら当時の西欧社会で一神教以外を信仰していた人は稀だったし、
文明国と呼ばれる英国にはオーストラリアを開拓できるほどの犯罪者が、
ワンサカいるのに、この未開の原住民の方が遥かに道徳性が高かったからだ。

               ・・・渡部昇一著「魂はあるか?」からの引用



            アルフレッド・ラッセル・ウォレス  


このウォレスが直面した驚きは、ちょうど戦国時代だった日本に、
キリスト教を布教にきたポルトガル人宣教師と同じものだっただろう。
彼らが布教で接した一般町民や農民の見識や知性の高さに驚愕したのである。

宣教師たちが話す西洋事情や西洋の科学、地球が丸いことなど、
一般の学問のない農民が、実に興味深く聞き入っているのである。
しかも的確な的を得た質問をして宣教師たちを困らせたのだ。

例えば・・・

 キリスト教の神様が偉いことはわかったし、
 その教えが素晴らしいというのも分かったが、
 じゃあ何故そんな素晴らしい教えが今まで日本に来なかったのか?
 神様って全知全能で何でもできるんだろ? なんでだよ?

 自分がキリスト教に改宗したとして自分達の祖先は救われるのか?
 これはイエスの教えを知らず洗礼を受けない者は救われないというと、
 神が何故先祖も救えないのか? 何が全知全能だ、それって詐欺だろ!

 全世界を創造した全知全能の神というが、なぜ「悪」の存在も作ったのか? 
 善人だけにすれば誰も悪事で不幸にならないのに、そんな神を信じられるか!






           アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父



宣教師たちは当然答えに詰まってしまった。
宣教師に中にはこれらの質問から教義に疑問を感じ、
キリスト教への信仰を捨てる者まで出てきたという。

フランシスコ・ザビエルは1551年本国に帰国する時に同僚に書簡を送った。

  「私は日本で布教することがこんなにも大変なことかと思い知らされた。
  それは住民の抵抗とか反発にあったのではない、彼らの知的水準が、
  我が祖国スペインの一般庶民より遥かに高かった事は驚愕に値する。
  私は日本での布教活動に精魂尽き果ててしまった・・・。」



日本は他のアジア諸国の住民とは知的レベルが異なることを発見した。
それは当然のこと、自分達こそ神に導かれた文明人だと信じていたのに、
未だキリスト教を知らない「未開」の日本人が何故こんなに知的なのか?

ちなみにザビエルは、当時も今も名門パリ大学に学んだ超エリートであり、
イエズス会宣教師はみな本国やイタリアなどで高等教育を受けたインテリで、
そんな彼らにとっても日本人の町民・農民の知的水準は恐るべしだったのだ。

ヴァリニャーノ神父はヴァチカンに日本へは学者の派遣を要請していたくらいだ。



              ザビエル涙目(笑)



話を記事に戻す・・・

イギリスで教会離れが進み、無宗教者が増えているという事は、
一神教世界の矛盾と破綻が人々に拒絶反応を与えたと考える。
教義も布教組織も教祖も・・・そんなもの信仰には不要なのである。

逆に言えば、そんなものがあるから余計な争いが起きるのだ。
これはかつての十字軍、バラ戦争、三十年戦争・・・であり、
現代のパレスチナや中東各地の紛争の原因でなのである。

日本の神道、即ち八百万の神々の時代がやってきたのである。
いや別に信じている対象が唯一絶対の神でもいっこうにかまわない。
人知を超えた何か偉大な畏怖する存在さえ信じてさえいればいいのだ。

私がしばしば引用する西行法師の有名な歌・・・

  「何事のおわしまするかは知らねども 
           かたじけなさに涙こぼるる」


宗教の神様はこれでいいんじゃないの・・・

  要するに教会とか宗教団体という俗っぽい
  人間組織が不要な時代になってきたのだ。






日本の神道は、教祖も教義も布教組織も一切なし。
全国津々浦々にある8万8千社ものコンビニより多い神社は、
地域の氏子が代々守り継承してきた市町村各地の聖域である。

そして仏教との融和性もよく神仏習合が千年数百年以上も続き、
神社と寺が合体した鳥居のある寺や神宮寺なども珍しくない。
この異種融合の精神が日本文化そのものである。

だから日本の神々は皆仲が良く喧嘩もしない。
他の神様を拝んだからといって嫉妬もしないし怒りもしない。
ましてや異教徒を殺せなどという恐ろしい命令も下さない。

  ↓
人種差別について考える・その3
http://ryotaroneko.ti-da.net/e9812715.html

もっとも融合と言っても日本文化の根幹に異文化が吸収されていくという、
いわば柔軟性と同時に何でも取り込み融合していく大海の海原なのである。
こういう文化は世界的にも実に珍しい。



            鳥居と五重塔が共存する神宮寺
          日本の神様仏様は一心同体、喧嘩はしない。





最後に・・・

「神道の時代」といったのは比喩である。

神道の時代とかいうと、馬鹿サヨクが侵略戦争の思想とか言いそうだから、
誤解なきよう断っておくが、タイトルにある神道の時代というのは、
別に神主や天皇が世界を支配するという意味ではない。

教祖も教義も布教活動も何の束縛もない宗教という事だ。
他の宗教とも共存し、互いを尊重し宗教戦争も起こさない、
人類共存・世界平和の為の基本原理という意味である。


   縄文時代以来脈々と続く八百万の神々が
   平和共存する神道こそ世界に必要な心だ!








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