21世紀における宗教の役割 後編

トラネコ

2019年05月09日 00:00

最初に私の宗教的立場を述べておく。念のため。

私は以前から述べてきたように、ごく一般の日本人と同じく、
特定の宗派、教団に帰依した者ではないが無神論者ではない。
神かどうかわからないが目に見えない精神的な存在を畏れる者だ。

一応このことを念頭にお読みいただきたい。






宗教が社会でより大きな役割を果たすのが望ましいと考える人の割合が
 最も高かったのはインドネシア(85%)で、ケニア(74%)、
 ナイジェリア(74%)、チュニジア(69%)が続いた。


宗教が社会でより大きな役割を果たすのが望ましいと
 考える人の割合が最も低かったのは日本(15%)で、次いでスウェーデン(20%)、
 スペイン(23%)、フランス(24%)が低かった。

とても興味深い数字である。

この数字の違いは、先進国と途上国という生活レベルの差異
多神教と一神教との差異、キリスト教とイスラム教の差異とも見られるが、
どの観点で分析するかで、その結果は異なってくるだろう。

私は一神教と多神教の違いに注目する。
さらに言うと、教条主義宗教か、教義のない宗教かである。
キリスト教は完全なドグマ宗教であり、神道は教義がない。
 
もっとも・・・

教祖も教義も布教団体もない神道が宗教か否かという議論さえあるが、
一応便宜上、ここでは宗教を論じる上で神道も日本人の宗教という立場をとる。

宗教が社会で大きな役割を果たすべきだと考える国民で、
その割合が低いのが日本、スェーデン、スペイン・・・など欧州なのは、
日本では無意識の神道「信仰」が定着しており、欧州では前回述べた、
宗教の弊害を痛いほど歴史的に経験した地域という理由があろう。




宗教の社会的役割といえば・・・

西欧の一神教は社会及び人間の道徳を説く役割もあったが、
日本では儒教がその役目を持ち、神道は自然と先祖を尊ぶ習俗であった。
そういう意味からも日本でキリスト教など一神教は国民性に合わない。

キリスト教禁止令が解禁(1899)され、各地に教会が建ち宣教師も多く来日し、
ミッションスクールもたくさん出来てきても、未だ100万人の信者は増えない。
あれから120年たっても、キリスト教徒は人口の1%しかいないのはなぜか?

日本には既に八百万の神々が生活すべてに定着しすぎている証拠である。
神道は祖霊崇拝御霊崇拝が基本でその先に皇室崇拝があるのだが、
これは意識しようがしまいが、空気みたいに当たり前になりすぎているのである。

上述のように日本では、キリスト教の道徳性は古くから儒教が担っていたし、
儒教から支配者層の道徳律が後の武士道へと発展していったわけだ。
人生観死生観については仏教が鎌倉時代以降その役を担ってきたので、
わざわざ日本人は西欧の「神との契約」など結ぶ必要性はないのである。



        日本人の宗教観には「神との契約」という概念がない


だから・・・

お盆には帰省ラッシュがあり、正月には何百万人も初詣に行くし、
初日の出を拝んだり、地域の神社が代々氏子に引き継がれるし、
天皇の代替わり、新元号にも多くの人々がそれを祝うのである。


こんなことを無神論者がするわけがないのである。
日本人は無宗教だというが無神論者では決してない。
一神教というドグマ宗教観でみるから無神論に見えるだけである。

日本人はわざわざ神を意識しなくても自然に感じる感性もあると思う。
それが私がよく引用する西行法師の歌に現れていると思う。

<参考エントリ>
一神教圏の人には日本は多神教と答えればよい。
https://ryotaroneko.ti-da.net/e9017436.html




            神=目に見えない畏敬の存在は
            何となく感じるだけでいいのだ。



個人的には宗教心は重要だと考えるが、在来・新興宗教問わず、
21世紀の社会には宗教心は必要だが宗教団体は不要になり、
というより、宗教団体は有害な存在なので無くすべきではないかと考えている。

仏教僧侶が生臭坊主といわれて久しいが、坊主を聖人などと思う人は皆無だ。
また同性愛者や小児性愛者の多いカトリック神父も既に俗人の集まりであるし、
プロテスタント系でも西早稲田に巣食うようないかがわしい牧師や教会は少なくない。

イスラム教はあまりにも前近代的な黴臭さと教条主義的な危険性があり、
日本人の精神風土にはキリスト教以上になじめない異質な宗教である。
さらにユダヤ教などはまったく日本には縁がない。






一方・・・

神道は基本的に祖霊崇拝、御霊崇拝、自然崇拝で成り立つ。
そこには教祖も一切の教義(ドグマ)も布教活動も存在しない。
恐らくユングのいう集合的無意識が日本人の神道観であろう。

つまり民族の共通の巨大な意識に神道があるのである。
それは外来の仏教をも飲み込み神仏習合してしまったのだ。
もっとも神道は教義がないから仏教と融合しやすかったとも言えるが。

神道には教義がない上に、英雄的指導者=カリスマもいない。
宗教(団体)にカリスマ的教祖がいないことは実は大きな意味がある。
一神教のように宗教が権力化や戦争・テロに発展することがないのである。

だから日本には仏教系宗派は乱立して論争もあったが、
一度として宗教戦争に発展したことはなかったのである。
これは宗教戦争を繰り返してきた欧州とは注目すべき点である。



           神道は排他的一神教徒さえも受け入れる。


カリスマを必要とする人は依存心が強く自立心がないのである。
カリスマに傾倒することで導かれたいという他者依存の精神は、
排他的で攻撃的なカルトへと盲目的に傾倒しやすくする危険性がある。

これが宗教戦争やオウム事件のようなテロ組織化する原因にもなっている。
神道はカリスマ教祖も教義もないから、何かの目的に向かう組織体になりえない。
また八百万の神々は生活すべての事象に宿っておられるので信仰の場所を選ばない。

つまり・・・

多神教はあらゆる神々が日常の物象すべてに存在するという概念だから、
一神教のように特定の神を優遇したり、異教の神を排斥することもないし、
さらにすべての神々に平等に敬意と畏れを抱くから自然や社会を破壊しない。



        日本はいたるところに遍く神々がおわします国である。



そろそろ結論だが・・・

21世紀の宗教の在り方として私はこう思う。

宗教の弊害を歴史的に経験し熟知してきた欧州人のキリスト教離れは、
ある意味、自然保護、人権運動、男女平等・・・などキリスト教に反発する、
或いは、キリスト教の反省から発生した近代の啓蒙運動と捉えることができる。

キリスト教はその歴史的役割の終焉にきている。

私は宗教とは、誤解を恐れずにいえば一種の人生哲学だと思う。
人の生き方や死生観を説き、生きるべき指針を示す人生ガイドである。
だからいろいろな教えや考え方があってもかまわないのだ。

このことはちょうど江戸時代の石田梅岩の石門心学と同じだ。
心学は商売人の心構えを説いたものだが、これも一種の哲学書で、
どんな宗教でもかまわないから一途に心を磨くことが大事だと説く。

宗教など専門家以外の個人はその程度の捉え方で十分である。
これが教団を作り出すと、ロクな事がないのが歴史の教訓である。
それに宗教教団など神や仏とはまったく関係ない俗人の集まりに過ぎないのだから。



             石門心学を説いた石田梅岩


人の生き方は現実を見据え合理的に生きるべきと考えるが、
その精神的支えを宗教が行うことには何ら反対しないし、むしろ、
目に見えない何かを畏れる心がないと人間は傲慢になると思う

しかし宗教が団体化すると本来の教えとは真逆な、
金銭欲、権力欲、名声欲、排他性、独善性・・・など、
ドロドロの俗人の世界にまみれることは歴史の事実だ。

宗教によって心が解放され自由になるというのは、
個々人が切磋琢磨して心を磨いた結果そうなるのであって、
宗教団体に入って活動すれば逆に心は拘束されるのである。



          日本はいろんな神々のおわします国である。
          だから仲良く共存する思想が根底にあるのだ。



宗教団体に所属すれば、献金や不況活動など強制的義務を負わされる。
それも宗教的脅迫(実践しないと罰が下るとか天国に行けないとか)と、
打算(自分は神に選ばれし者、天国の切符貰える♪)で活動するのである。

宗教=信仰とは個人的なものに過ぎない
自分が謙虚に信じ生活すればいいだけである。
他人に勧めるのはいいが強制はいけない。

如何に偉大な宗教でも個々人の心の問題に過ぎないと喝破したのは、
ドイツ観念論のインマニュエル・カントであるが、まさにこれだ。
宗教心は生きるための心の糧になるが、宗教団体は弊害しかない。

宗教団体は崩壊し宗教心だけが残る。



      「いかなる偉大な宗教でも私事である。」

                     ・・・by インマヌエル・カント





水瓶座の時代というのをご存じだろうか?

この時代は宗教団体や教会など世俗的権威主義から人間が解放され、
個々人の価値観や自主性を尊重し合うと同時に、自立した個の確立を目指し、
平和共存と人間尊重の時代になるといわれている。

つまり21世紀からは宗教は必要ない時代になるのである。
具体的には宗教的権威や団体の消滅が進むのではないだろうか?
しかし個々人の心の中には超越的真理(神といってもよいが)は存在し続ける。

すべての人々の心は神につながっているのである。

神とは大宇宙の意識というか、目に見えない崇高、荘厳な存在であるが、
それをGodと呼ぶか、ブラーフマン、梵天と呼ぶか、大日如来と呼ぶか、
エホバ、ヤーヴェ、アッラー・・・なんでもいいのだ。

個々人が心の内に「神」を持つという事は自立した人間になるという事である。
外に神を求めるからおかしな宗教に騙され利用され自縄自縛になるのである。
各人が心に神を持つ時代が水瓶座の時代なのである。




     
          アクエリアス【訳詞付】- The Fifth Dimension













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