一神教圏の人には日本は多神教と答えればよい。
2016年10月04日
【海外の反応】日本人は何の宗教を信仰していると思われている?
文化庁の統計によると、日本で信者が最も多いのは神道の約9200万人で、次に仏教の8700万人となっており、キリスト教の約200万人が続く。神道と仏教の信者数だけで日本人口を優に超えることから、一人が複数の宗教を信奉していることがわかる。海外では日本人の宗教観をどのようなイメージでみているのか。そもそも神道を知っているのか。海外在住ライターが、日本人の宗教がどう見られているのかをリポートする。
【アメリカ】「そんな考え方があるの!?」日本の宗教観に興味深々
(現地在住ライター 長谷川サツキ)
アメリカ人は昔に比べて無宗教者が増えてきたものの、キリスト教徒が圧倒的に多い。信心深い人が多く、毎週末教会へ行き、ボランティア活動に勤しみ、クリスマスはミサに出かけていく。そんなアメリカ人は日本人の信仰についてはあまり知識がない。そのため親しくなってくると遠慮がちに何の宗教を信仰しているのか聞いてきたりする。
だが私たち日本人の宗教観をアメリカ人に説明するのは正直難しい。
日本人は宗教を伝統や文化に近い感覚で柔軟に受け入れているように思う。クリスマスを祝い、元旦に神社へ初詣へ行き、帰れば家に仏壇があり、八百万の神の昔話をする。特定の宗教を信仰していないからといって無宗教者と答えてしまうと、神を積極的に排除しているようでこれまたニュアンスが違う。一言で説明するのは難しいので長々と例を交えながら日本人の宗教観を説明することになるのだが、ほとんどの場合仰天しつつも「そんな面白い考え方があるなんて」と興味を示してくれる。宗教の話は海外ではタブーと思っていたが、宗教を通じての異文化交流もなかなか面白い。
【イギリス】複数の宗教を信仰するのに違和感?
(現地在住ライター バックリー佳菜子)
イギリスでは日常会話のどの宗教を信仰しているのか聞いたり、宗教によって差別されることは大きなタブーとなっている。そのため宗教を意識せずに日々の生活ができるが、その影響か時々大きな勘違いをしているイギリス人に出会うことがある。例えば筆者は個人的に豚肉や牛肉があまり好きではないので鶏肉料理かベジタリアンのメニューを注文することが多いのだが、同席していた友人から宗教上の理由でRed Meat(牛肉やラム肉など)を食べないのだろうと思われていたということがあった。
またアジア人というだけで必然的に仏教徒だと思われることも多々ある。(イギリスではタイ系移民も多く、アジア人というとタイに近いと思われがちだ)筆者は例に漏れず、父方は神道、母方は仏教の家庭出身でどちらも信仰しているタイプであるが、この事実を伝えるとまだびっくりされることも多いのである。
【ブラジル】日本といえばやっぱり仏教
(現地在住ライター 増成かおり)
ブラジル人には、日本は仏教の国と思われていると思う。宗教を聞かれた私が仏教徒だと答えると、すべての人が「やっぱり」と言うからだ。逆に、日本にもキリスト教など他の宗教を信じる人もいると言うと驚かれることもある。日本人が信仰しているのは仏教だけというイメージがあるのだろう。
そんなブラジルは約65%の人がカトリック教徒で、他にも仏教を含め多くの宗教が存在する。
しかし複数の宗教が同時に自然に溶け込む日本の日常を、ただ一人を神と崇めるクリスチャンのブラジル人には理解しにくい。日本では、仏壇が置いてある家で神棚に手を合わせるのは普通だし、12月になればそこにクリスマスツリーを飾るのも当たり前と言っても不思議そうな顔をされるばかりだ。
以前、古く大きな木を切る様子を友人と見た。私が、日本では八百万もの神がいると信じられているので、この木にも神が宿っていると思うと言うと、その数に驚いていた。こうした日本の宗教観が、日本を神秘的にみせているのだろう。
HowTravelニュース 2016.9.28
http://www.howtravel.com/news/religion/
日本の宗教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99
確かに一神教圏の人々が日本人の宗教を知るには難しい面があるだろう。
しかしその逆もまたしかりであり、我々は一神教の価値概念を知らない。
宗教文化は異文化理解の重要なカギでもある。
記事にある宗教別人口も二つ以上の信仰を持つ人がいるということで、
人口の2倍近くにもなってしまうのであろう。昔、学生時代のある講義で、
教授が日本人は宗教的に無節操だと言ったことを覚えている。
しかし後年いろいろ勉強してくると宗教的無節操という言い方は、
西欧の一神教文化からの立場であることがわかった。むしろ逆に、
日本人は宗教に対し無節操ではなく、寛容なのである。
日本人は宗教的に無節操ではなく寛容なのである。
いいじゃないか、いろんな神様と共存しているってことは、
人類が目指すべき世界平和の思想そのものなのだから。
日本人なら特別熱心に宗教を信仰している人は比較的少ないだろうが、
決して無神論者ではなく、一神教やカルトみたいな教条的信仰はしないが、
目に見えない何かを畏怖する敬虔さや精神は持ち合わせている。
私個人はメキシコやその他の中米諸国で、自分の信仰について尋ねられれば、
神道か仏教信者だと答えている。別に特別熱心に信仰している訳ではないが、
一神教圏では無宗教とか無神論と答えるのは反社会的人物と解されるからだ。
何度か述べてきたように一神教圏では宗教が道徳の教えなのである。
日本人は宗教ではなく儒教精神が道徳の基盤になっている違いはあるが、
一般的に無神論者は極めて少ないだろうと思う。
<参考エントリ>
見えない何かを畏れる文化
http://ryotaroneko.ti-da.net/e3701031.html
毎年8月15日には大勢の日本国民が靖国神社に参拝する。
彼らは決して軍国主義でも何でもないごく普通の日本国民である。
>日本人は宗教を伝統や文化に近い感覚で柔軟に受け入れているように思う。
クリスマスを祝い、元旦に神社へ初詣へ行き、帰れば家に仏壇があり、
八百万の神の昔話をする。特定の宗教を信仰していないからといって
無宗教者と答えてしまうと、神を積極的に排除しているようで
これまたニュアンスが違う。
その通りだ(笑)
メキシコで宗教の話に立ち入ってする場合は、こう答えている。
日本人の古来からの信仰は神道だが、これはメキシコ先住民の宗教に近いと。
被征服民族の先住民と似た宗教だという、ここがポイントである。
それは多神教(アニミズム)であり、太陽、風。雨、土・・・など、
すべての自然の事象には神々が宿り、その自然を大事にするのが神道であり、
だから日本は自然を尊び守り、宗教戦争がない国だと説明する。
国歌「きみがよ」に出てくるさざれ石
そして一神教と決定的に異なるのは、宗教的世界観における人間の位置づけである。
一神教では神が頂点にあって、その次に人間がありその下に自然界があるが、
神道やアニミズム世界では創造神は存在せず、自然そのものが神的存在としてあり、
人間は森羅万象の自然界の一構成要素に過ぎないということである。
創世記にはこうある・・・
「神は言われた、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。
そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
この言葉からもわかる通り、一神教では人間は神のNO.2であり自然の支配者である。
だから人間が自然の上位に位置し、自然を管理する権限を神から与えられたから、
一神教圏は自然破壊が延々と続き、地球の破滅を促進してきたのである。
ちなみに共産主義も一神教からの派生した疑似宗教みたいなものだから、
異なる思想を弾圧し大量虐殺し、自然破壊を平気でするのである。
これは旧ソ連邦も、現在のシナも地球規模の自然破壊を進めている。
また日本の仏教は神道と融合している点においても、
メキシコ先住民のキリスト教信仰の形態とよく似ている。
例えば・・・
チアパス州のマヤ先住民たちも、一応はクリスチャンで各村に教会もあるが、
キリスト教の聖人が先住民の宗教の神々にダブらせて信仰されている。
これも神仏習合ではないが、隠れキリシタンのマリア観音みたいなものである。
これに関しては読者でチアパス州在住のパウロ伊藤氏の受け売りである。
日本では元来の神道と仏教とは本地垂迹説や神仏習合思想で共存しているし、
そもそも神道の祭祀長である天皇が神道も仏教も両方とも敬えと言っているから、
日本仏教は、オリジナルの仏教とはかなり概念、様相が変化している。
だいたいこんな説明でメキシコ人は理解してくれる。
そしてこの答には実は私なりの別の意図を込めているのだ。
それは・・・
一神教文化圏の人々にはこういう信仰は理解しがたいだろう。
しかし千年以上前ゲルマン部族も日本と同じ信仰をもっていた。
「トールのオーク」と北ゲルマン民族の改宗
特に西欧人は一神教が多神教より優れた高等宗教だと思い込んでいるフシがある。
だから西欧人は多くの先住民やスペイン・ポルトガルの植民地以外の途上国は、
一神教より劣った多神教を信仰していると思っているのではないかと感じる。
私はこれが気に入らない。
本来「神」の概念自体が異なるのだから、一神教と多神教とを比較すべきものではない。
多神教には一神教的な絶対唯一の神という概念がなく、本来的意味の「God」ではない。
多神教の神々とは精霊であると言い換えるとわかり易いだろう。
それに一神教の神は怒り嫉妬する人格神である。
ある意味人間的な俗っぽい感情すら持っている「神」といえる。
仏教的人間観では怒ったり、嫉妬するのは修業が足りない凡夫となるのだが、
聖書では神が自分に似せて人間を作ったのだからそうなるのだろう(笑)
そもそも一神教の発生した風土は、農業に適さない乾燥した砂漠や荒野であり、
四季の変化もなく生きること自体が困難を極める土地柄であった故に、
狩猟民族の攻撃性、残虐性、差別性、支配性、非寛容性を併せ持った宗教が誕生した。
こういう生きる事に厳しい環境では、貧者が豊かな者から奪う行為も賞賛されるのだ。
だからロビンフッドやルパンみたいな義賊的な英雄伝が西欧には多いのかもしれない。
だから怒りや嫉妬という感情(ある意味激情)が出てくることは自然なのである。
厳しい砂漠での生活は攻撃的で猜疑心の強い民族性が出来上がる。
元々一神教は多神教の神々を殺して成立した宗教だけあって、
異教徒を殺すことに何らためらいがないのは歴史の語る通りである。
だから一神教の西欧人には多神教を下に見る傲慢さがあるのだろう。
そんな中で日本は多神教国家だが、産業技術やインフラ、芸術・文化に至るまで、
世界の最先端を行き、過去シナ・ロシア・アメリカとたった一国で戦いを挑んだ、
決して西欧諸国に劣らない優秀な民族であるというニュアンスを絡めている。
特に米露中と一国で戦争を行ったというのは驚かれる。
なぜならこんな大胆不敵な西欧諸国も、ましてや途上国もなかったからである。
ある意味いつも笑顔の日本民族が潜在的に恐れられる理由かもしれない。
神道という多神教国家・日本は、一神教国家にも対等に、
或いはそれ以上に優れた文明をもっているという点でも、
一神教に抗する世界唯一の多神教国家であるのだ。
もう一つ重要な点は・・・
日本では一神教みたいな教義(ドグマ)がないことから宗教戦争がなかった。
一神教国家同士は昔から常に宗教戦争を繰り返してきたことを上げる。
ユダヤ・キリスト・イスラムはルーツが同じで近親憎悪の宗教対立をして来た。
日本の仏教界もいろんな宗派があるが神道とは融合しているので、
日本では歴史的に宗教論争はあったが宗教戦争はなかったと答える。
つまり日本的信仰は一神教より遥かに平和主義な宗教観だと強調する。
日本の神道は、明確な四季の変化や多様な自然に囲まれた土地柄で、
農耕にも狩猟採集にも適した豊かな風土だ。しかも地震・津波・干ばつなど、
風水害が多く自ずと創意工夫を生活に取り入れる民族性が形成された。
しかも島嶼地域のため大規模な民族移動や侵略もなく、
日本列島に漂着した多くの異民族がこの島で混合していった。
このため日本人は温厚・平和・従順・協調性・平等な気質が形成されたのである。
日本は島国・四季明瞭・自然災害が風土の特徴だ。
恐らくだが・・・
世界中にある先住民のアニミズム信仰は神道に近い発想があるのではないだろうか?
いわゆる多神教の宗教観とは自然と人間の共存思想、平和思想ではないかと思う。
つまりは一神教こそ戦争と自然破壊の元凶だと私は見ているが、間違いだろうか?
戦争と自然破壊の一神教世界は終焉した。
21世紀は一万年以上続く多神教精神こそ、
人類が共存共栄する世界平和への道だ!
文化庁の統計によると、日本で信者が最も多いのは神道の約9200万人で、次に仏教の8700万人となっており、キリスト教の約200万人が続く。神道と仏教の信者数だけで日本人口を優に超えることから、一人が複数の宗教を信奉していることがわかる。海外では日本人の宗教観をどのようなイメージでみているのか。そもそも神道を知っているのか。海外在住ライターが、日本人の宗教がどう見られているのかをリポートする。
【アメリカ】「そんな考え方があるの!?」日本の宗教観に興味深々
(現地在住ライター 長谷川サツキ)
アメリカ人は昔に比べて無宗教者が増えてきたものの、キリスト教徒が圧倒的に多い。信心深い人が多く、毎週末教会へ行き、ボランティア活動に勤しみ、クリスマスはミサに出かけていく。そんなアメリカ人は日本人の信仰についてはあまり知識がない。そのため親しくなってくると遠慮がちに何の宗教を信仰しているのか聞いてきたりする。
だが私たち日本人の宗教観をアメリカ人に説明するのは正直難しい。
日本人は宗教を伝統や文化に近い感覚で柔軟に受け入れているように思う。クリスマスを祝い、元旦に神社へ初詣へ行き、帰れば家に仏壇があり、八百万の神の昔話をする。特定の宗教を信仰していないからといって無宗教者と答えてしまうと、神を積極的に排除しているようでこれまたニュアンスが違う。一言で説明するのは難しいので長々と例を交えながら日本人の宗教観を説明することになるのだが、ほとんどの場合仰天しつつも「そんな面白い考え方があるなんて」と興味を示してくれる。宗教の話は海外ではタブーと思っていたが、宗教を通じての異文化交流もなかなか面白い。
【イギリス】複数の宗教を信仰するのに違和感?
(現地在住ライター バックリー佳菜子)
イギリスでは日常会話のどの宗教を信仰しているのか聞いたり、宗教によって差別されることは大きなタブーとなっている。そのため宗教を意識せずに日々の生活ができるが、その影響か時々大きな勘違いをしているイギリス人に出会うことがある。例えば筆者は個人的に豚肉や牛肉があまり好きではないので鶏肉料理かベジタリアンのメニューを注文することが多いのだが、同席していた友人から宗教上の理由でRed Meat(牛肉やラム肉など)を食べないのだろうと思われていたということがあった。
またアジア人というだけで必然的に仏教徒だと思われることも多々ある。(イギリスではタイ系移民も多く、アジア人というとタイに近いと思われがちだ)筆者は例に漏れず、父方は神道、母方は仏教の家庭出身でどちらも信仰しているタイプであるが、この事実を伝えるとまだびっくりされることも多いのである。
【ブラジル】日本といえばやっぱり仏教
(現地在住ライター 増成かおり)
ブラジル人には、日本は仏教の国と思われていると思う。宗教を聞かれた私が仏教徒だと答えると、すべての人が「やっぱり」と言うからだ。逆に、日本にもキリスト教など他の宗教を信じる人もいると言うと驚かれることもある。日本人が信仰しているのは仏教だけというイメージがあるのだろう。
そんなブラジルは約65%の人がカトリック教徒で、他にも仏教を含め多くの宗教が存在する。
しかし複数の宗教が同時に自然に溶け込む日本の日常を、ただ一人を神と崇めるクリスチャンのブラジル人には理解しにくい。日本では、仏壇が置いてある家で神棚に手を合わせるのは普通だし、12月になればそこにクリスマスツリーを飾るのも当たり前と言っても不思議そうな顔をされるばかりだ。
以前、古く大きな木を切る様子を友人と見た。私が、日本では八百万もの神がいると信じられているので、この木にも神が宿っていると思うと言うと、その数に驚いていた。こうした日本の宗教観が、日本を神秘的にみせているのだろう。
HowTravelニュース 2016.9.28
http://www.howtravel.com/news/religion/
日本の宗教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99
確かに一神教圏の人々が日本人の宗教を知るには難しい面があるだろう。
しかしその逆もまたしかりであり、我々は一神教の価値概念を知らない。
宗教文化は異文化理解の重要なカギでもある。
記事にある宗教別人口も二つ以上の信仰を持つ人がいるということで、
人口の2倍近くにもなってしまうのであろう。昔、学生時代のある講義で、
教授が日本人は宗教的に無節操だと言ったことを覚えている。
しかし後年いろいろ勉強してくると宗教的無節操という言い方は、
西欧の一神教文化からの立場であることがわかった。むしろ逆に、
日本人は宗教に対し無節操ではなく、寛容なのである。
日本人は宗教的に無節操ではなく寛容なのである。
いいじゃないか、いろんな神様と共存しているってことは、
人類が目指すべき世界平和の思想そのものなのだから。
日本人なら特別熱心に宗教を信仰している人は比較的少ないだろうが、
決して無神論者ではなく、一神教やカルトみたいな教条的信仰はしないが、
目に見えない何かを畏怖する敬虔さや精神は持ち合わせている。
私個人はメキシコやその他の中米諸国で、自分の信仰について尋ねられれば、
神道か仏教信者だと答えている。別に特別熱心に信仰している訳ではないが、
一神教圏では無宗教とか無神論と答えるのは反社会的人物と解されるからだ。
何度か述べてきたように一神教圏では宗教が道徳の教えなのである。
日本人は宗教ではなく儒教精神が道徳の基盤になっている違いはあるが、
一般的に無神論者は極めて少ないだろうと思う。
<参考エントリ>
見えない何かを畏れる文化
http://ryotaroneko.ti-da.net/e3701031.html
毎年8月15日には大勢の日本国民が靖国神社に参拝する。
彼らは決して軍国主義でも何でもないごく普通の日本国民である。
>日本人は宗教を伝統や文化に近い感覚で柔軟に受け入れているように思う。
クリスマスを祝い、元旦に神社へ初詣へ行き、帰れば家に仏壇があり、
八百万の神の昔話をする。特定の宗教を信仰していないからといって
無宗教者と答えてしまうと、神を積極的に排除しているようで
これまたニュアンスが違う。
その通りだ(笑)
メキシコで宗教の話に立ち入ってする場合は、こう答えている。
日本人の古来からの信仰は神道だが、これはメキシコ先住民の宗教に近いと。
被征服民族の先住民と似た宗教だという、ここがポイントである。
それは多神教(アニミズム)であり、太陽、風。雨、土・・・など、
すべての自然の事象には神々が宿り、その自然を大事にするのが神道であり、
だから日本は自然を尊び守り、宗教戦争がない国だと説明する。
国歌「きみがよ」に出てくるさざれ石
そして一神教と決定的に異なるのは、宗教的世界観における人間の位置づけである。
一神教では神が頂点にあって、その次に人間がありその下に自然界があるが、
神道やアニミズム世界では創造神は存在せず、自然そのものが神的存在としてあり、
人間は森羅万象の自然界の一構成要素に過ぎないということである。
創世記にはこうある・・・
「神は言われた、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。
そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
この言葉からもわかる通り、一神教では人間は神のNO.2であり自然の支配者である。
だから人間が自然の上位に位置し、自然を管理する権限を神から与えられたから、
一神教圏は自然破壊が延々と続き、地球の破滅を促進してきたのである。
ちなみに共産主義も一神教からの派生した疑似宗教みたいなものだから、
異なる思想を弾圧し大量虐殺し、自然破壊を平気でするのである。
これは旧ソ連邦も、現在のシナも地球規模の自然破壊を進めている。
また日本の仏教は神道と融合している点においても、
メキシコ先住民のキリスト教信仰の形態とよく似ている。
例えば・・・
チアパス州のマヤ先住民たちも、一応はクリスチャンで各村に教会もあるが、
キリスト教の聖人が先住民の宗教の神々にダブらせて信仰されている。
これも神仏習合ではないが、隠れキリシタンのマリア観音みたいなものである。
これに関しては読者でチアパス州在住のパウロ伊藤氏の受け売りである。
日本では元来の神道と仏教とは本地垂迹説や神仏習合思想で共存しているし、
そもそも神道の祭祀長である天皇が神道も仏教も両方とも敬えと言っているから、
日本仏教は、オリジナルの仏教とはかなり概念、様相が変化している。
だいたいこんな説明でメキシコ人は理解してくれる。
そしてこの答には実は私なりの別の意図を込めているのだ。
それは・・・
一神教文化圏の人々にはこういう信仰は理解しがたいだろう。
しかし千年以上前ゲルマン部族も日本と同じ信仰をもっていた。
「トールのオーク」と北ゲルマン民族の改宗
特に西欧人は一神教が多神教より優れた高等宗教だと思い込んでいるフシがある。
だから西欧人は多くの先住民やスペイン・ポルトガルの植民地以外の途上国は、
一神教より劣った多神教を信仰していると思っているのではないかと感じる。
私はこれが気に入らない。
本来「神」の概念自体が異なるのだから、一神教と多神教とを比較すべきものではない。
多神教には一神教的な絶対唯一の神という概念がなく、本来的意味の「God」ではない。
多神教の神々とは精霊であると言い換えるとわかり易いだろう。
それに一神教の神は怒り嫉妬する人格神である。
ある意味人間的な俗っぽい感情すら持っている「神」といえる。
仏教的人間観では怒ったり、嫉妬するのは修業が足りない凡夫となるのだが、
聖書では神が自分に似せて人間を作ったのだからそうなるのだろう(笑)
そもそも一神教の発生した風土は、農業に適さない乾燥した砂漠や荒野であり、
四季の変化もなく生きること自体が困難を極める土地柄であった故に、
狩猟民族の攻撃性、残虐性、差別性、支配性、非寛容性を併せ持った宗教が誕生した。
こういう生きる事に厳しい環境では、貧者が豊かな者から奪う行為も賞賛されるのだ。
だからロビンフッドやルパンみたいな義賊的な英雄伝が西欧には多いのかもしれない。
だから怒りや嫉妬という感情(ある意味激情)が出てくることは自然なのである。
厳しい砂漠での生活は攻撃的で猜疑心の強い民族性が出来上がる。
元々一神教は多神教の神々を殺して成立した宗教だけあって、
異教徒を殺すことに何らためらいがないのは歴史の語る通りである。
だから一神教の西欧人には多神教を下に見る傲慢さがあるのだろう。
そんな中で日本は多神教国家だが、産業技術やインフラ、芸術・文化に至るまで、
世界の最先端を行き、過去シナ・ロシア・アメリカとたった一国で戦いを挑んだ、
決して西欧諸国に劣らない優秀な民族であるというニュアンスを絡めている。
特に米露中と一国で戦争を行ったというのは驚かれる。
なぜならこんな大胆不敵な西欧諸国も、ましてや途上国もなかったからである。
ある意味いつも笑顔の日本民族が潜在的に恐れられる理由かもしれない。
神道という多神教国家・日本は、一神教国家にも対等に、
或いはそれ以上に優れた文明をもっているという点でも、
一神教に抗する世界唯一の多神教国家であるのだ。
もう一つ重要な点は・・・
日本では一神教みたいな教義(ドグマ)がないことから宗教戦争がなかった。
一神教国家同士は昔から常に宗教戦争を繰り返してきたことを上げる。
ユダヤ・キリスト・イスラムはルーツが同じで近親憎悪の宗教対立をして来た。
日本の仏教界もいろんな宗派があるが神道とは融合しているので、
日本では歴史的に宗教論争はあったが宗教戦争はなかったと答える。
つまり日本的信仰は一神教より遥かに平和主義な宗教観だと強調する。
日本の神道は、明確な四季の変化や多様な自然に囲まれた土地柄で、
農耕にも狩猟採集にも適した豊かな風土だ。しかも地震・津波・干ばつなど、
風水害が多く自ずと創意工夫を生活に取り入れる民族性が形成された。
しかも島嶼地域のため大規模な民族移動や侵略もなく、
日本列島に漂着した多くの異民族がこの島で混合していった。
このため日本人は温厚・平和・従順・協調性・平等な気質が形成されたのである。
日本は島国・四季明瞭・自然災害が風土の特徴だ。
恐らくだが・・・
世界中にある先住民のアニミズム信仰は神道に近い発想があるのではないだろうか?
いわゆる多神教の宗教観とは自然と人間の共存思想、平和思想ではないかと思う。
つまりは一神教こそ戦争と自然破壊の元凶だと私は見ているが、間違いだろうか?
戦争と自然破壊の一神教世界は終焉した。
21世紀は一万年以上続く多神教精神こそ、
人類が共存共栄する世界平和への道だ!
Posted by トラネコ at 00:00│Comments(12)
│思想・宗教
この記事へのコメント
トラネコ様
確かに、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教発祥の彼の地は日本人からすれば
過酷な土地ですね。
十代前半から自ら望んでプロテスタントの教会に通いだしまして十代後半で洗礼も受けました。
ですので日本的な恥の文化とか世間が許さないに拒否って思いでした。
そんな不確かな価値観に振り回されるなんてと言う思いです。
確固たるものが有る?って考えでした。
それでも、絶対的な父である神っていいんかな?はいつも有りましたが、、
絶対ってなんやろ?の疑問は有りました。
もうかなり昔になりますが、自分の信じる神の為に人が争うならそんな宗教は人間にとって有害ではないですか?の質問に牧師はキチンと答えてくれませんでした。
あれから、15、6年経って、ずっと礼拝に行かず思ってました。
それで、一番キリスト教の慣わしで自分としてしっくりこなかったのが、食膳前の祈りの儀式です。
食事を与えて下さる天のお父様(父なる神)。
でも、日本人の食膳前の頂きますの儀式は(儀式と言う程大袈裟ではないですが事ある毎に感謝の気持ちを持つ心が育つと思います。只、手を合わせ静かに礼をするだけです。)
でも、その所作には、太陽、水、作って下さる生産者、父や母、諸々に。
自分自身が生かされてる事への感謝。
お父さんお母さん、自然の恵み、勿論自然の脅威も有りますが。
自身が生かされてる事への感謝の気持ちがなければ自国を思う心も育たないでしょうね
自分にとって都合が悪い気にいらんだけの人がこの国嫌いは幼稚ですし
自分に都合がいいだけの国は世界中探してもないと思います。
自分にとって都合わるくても良くする事です。
生まれた家や親、出時は自分ではどうにもなりませんが、運命と思って頑張るしかないのと同じです。
確かに、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教発祥の彼の地は日本人からすれば
過酷な土地ですね。
十代前半から自ら望んでプロテスタントの教会に通いだしまして十代後半で洗礼も受けました。
ですので日本的な恥の文化とか世間が許さないに拒否って思いでした。
そんな不確かな価値観に振り回されるなんてと言う思いです。
確固たるものが有る?って考えでした。
それでも、絶対的な父である神っていいんかな?はいつも有りましたが、、
絶対ってなんやろ?の疑問は有りました。
もうかなり昔になりますが、自分の信じる神の為に人が争うならそんな宗教は人間にとって有害ではないですか?の質問に牧師はキチンと答えてくれませんでした。
あれから、15、6年経って、ずっと礼拝に行かず思ってました。
それで、一番キリスト教の慣わしで自分としてしっくりこなかったのが、食膳前の祈りの儀式です。
食事を与えて下さる天のお父様(父なる神)。
でも、日本人の食膳前の頂きますの儀式は(儀式と言う程大袈裟ではないですが事ある毎に感謝の気持ちを持つ心が育つと思います。只、手を合わせ静かに礼をするだけです。)
でも、その所作には、太陽、水、作って下さる生産者、父や母、諸々に。
自分自身が生かされてる事への感謝。
お父さんお母さん、自然の恵み、勿論自然の脅威も有りますが。
自身が生かされてる事への感謝の気持ちがなければ自国を思う心も育たないでしょうね
自分にとって都合が悪い気にいらんだけの人がこの国嫌いは幼稚ですし
自分に都合がいいだけの国は世界中探してもないと思います。
自分にとって都合わるくても良くする事です。
生まれた家や親、出時は自分ではどうにもなりませんが、運命と思って頑張るしかないのと同じです。
Posted by うさこ at 2016年10月04日 01:18
まず、人類の宗教が、あらゆるものに霊性を見るアニミズムや、精霊信仰等から派生した「多神教」がオリジンであり「一神教」はそれからの段階的派生形態であることは間違いないでしょう。この点、我が国は、多神教文化の極限のような様相を呈しています。
多神教の起源がアニミズムという環境や生活に密着したものである以上、それは民族固有の世界観や神話と直結した、いわば「民族宗教」の体を成します。つまり、民族というものが、見た目の類似性や、言語や共有文化だけでは定義できず、宗教が民族を束ねる中核となるのです。そして、その中でごくまれに、ただ一つの神を崇める「民族的一神教」が発生しました(エジプトのアテン信仰やユダヤの場合等)。
いっぽうで、現実世界では、様々な民族が争い、栄枯盛衰を繰り返します。しかしこれはある意味、いろんな民族神の争う「神々の闘い」なのです。何故なら、一般には、勝者の神々が敗者の神々を、抹殺あるいは下位の位で併合します。そして「民族的自己同一性=民族神」ですから、少なくとも、敗者はこれを完全な状態では維持できなくなり、被征服民族との民族的同化あるいは隷属化を余儀なくされます。
ところが、敗者となってバビロニアに囚われたユダヤ人達はそれをよしとぜず、「民族的一神教」をさらに拡大解釈し、他の民族の神々を否定して、バビロン捕囚が、全宇宙の唯一神がユダヤ民族(選民)に与えた試練と考えることで、捕囚の状況下での民族的自己同一性を保とうとしたのです。このユダヤ人たちの、食うか食われるかの状況下での「他宗教の神々の完全否定」という苦肉の策が、今日の一神教の起源です。
つまり一神教というものが、もともとは民族宗教のサバイバル術に起源を持つもので、野生動物の生き残りと同じことを、人間の脳でやっているにすぎない野蛮なものなのです。
ただ自らの神を、人類共通のものだ、という詐欺的言い回しで絶対化し、異民族に対してそれを正当化して取り込んでいく、排他的で強力な宗教なのです。その結果として、異民族が取り込まれたのが、キリスト教やイスラム教と考えても差し支えないと思います。ですから、キリスト教徒やイスラム教徒が、いかにユダヤ人を迫害したりユダヤ文化と対立したりしているように見えても、実は、ユダヤ民族の僕なのです(この点では、逆立ちしたキリスト教徒であるところの、唯文論者や共産主義者も同様です)。
多神教の起源がアニミズムという環境や生活に密着したものである以上、それは民族固有の世界観や神話と直結した、いわば「民族宗教」の体を成します。つまり、民族というものが、見た目の類似性や、言語や共有文化だけでは定義できず、宗教が民族を束ねる中核となるのです。そして、その中でごくまれに、ただ一つの神を崇める「民族的一神教」が発生しました(エジプトのアテン信仰やユダヤの場合等)。
いっぽうで、現実世界では、様々な民族が争い、栄枯盛衰を繰り返します。しかしこれはある意味、いろんな民族神の争う「神々の闘い」なのです。何故なら、一般には、勝者の神々が敗者の神々を、抹殺あるいは下位の位で併合します。そして「民族的自己同一性=民族神」ですから、少なくとも、敗者はこれを完全な状態では維持できなくなり、被征服民族との民族的同化あるいは隷属化を余儀なくされます。
ところが、敗者となってバビロニアに囚われたユダヤ人達はそれをよしとぜず、「民族的一神教」をさらに拡大解釈し、他の民族の神々を否定して、バビロン捕囚が、全宇宙の唯一神がユダヤ民族(選民)に与えた試練と考えることで、捕囚の状況下での民族的自己同一性を保とうとしたのです。このユダヤ人たちの、食うか食われるかの状況下での「他宗教の神々の完全否定」という苦肉の策が、今日の一神教の起源です。
つまり一神教というものが、もともとは民族宗教のサバイバル術に起源を持つもので、野生動物の生き残りと同じことを、人間の脳でやっているにすぎない野蛮なものなのです。
ただ自らの神を、人類共通のものだ、という詐欺的言い回しで絶対化し、異民族に対してそれを正当化して取り込んでいく、排他的で強力な宗教なのです。その結果として、異民族が取り込まれたのが、キリスト教やイスラム教と考えても差し支えないと思います。ですから、キリスト教徒やイスラム教徒が、いかにユダヤ人を迫害したりユダヤ文化と対立したりしているように見えても、実は、ユダヤ民族の僕なのです(この点では、逆立ちしたキリスト教徒であるところの、唯文論者や共産主義者も同様です)。
Posted by 牛虎の金さん at 2016年10月04日 02:30
仏教と神道が宗教という枠組みに入れるのがもしかすると合っていないのかもしれませんね。神道は神様ですが、特定の神ではなく見えない「畏怖」に対してですし、それこそ「地震・雷・火事・親父」ですから。親父は最近怖くなりつつあるようですが。
仏教も仏様に誰でもなれますし、もちろん修行が必要ですけど。どちらかと言えば哲学に近いのかなあ。そう考えると、日本人は自然(神道)から道徳を学び、仏教から哲学を学んだ民族と考えることも出来るかもしれませんね。うん、日本人で良かったと思います。一神教の宗教戦争や差別だなんだと騒いでは自ら差別を生み出している構造を見るとつくづく思います。
でも、近年の日本人は自然の恐ろしさや考えるということを忘れてしまっていますね。自然災害が多いのは、こういう心の持ちようも少し影響があるかもしれませんねえ。
仏教も仏様に誰でもなれますし、もちろん修行が必要ですけど。どちらかと言えば哲学に近いのかなあ。そう考えると、日本人は自然(神道)から道徳を学び、仏教から哲学を学んだ民族と考えることも出来るかもしれませんね。うん、日本人で良かったと思います。一神教の宗教戦争や差別だなんだと騒いでは自ら差別を生み出している構造を見るとつくづく思います。
でも、近年の日本人は自然の恐ろしさや考えるということを忘れてしまっていますね。自然災害が多いのは、こういう心の持ちようも少し影響があるかもしれませんねえ。
Posted by おしょう at 2016年10月04日 07:25
日本の、非共産党員系左翼が帰依するのは、大半が
「日本国憲法第九条原理主義」です。
人間(日本国民)や国家の更に上に憲法条文を位置づけるという
不可思議な教義。
憲法が存在しなくとも、あるいは機能しなくとも国家は存続し得ますが、
その逆は有り得ません。しかし、
彼ら原理主義者は「私たちは憲法によって生かされている」と思い込んでるので国家が無くとも生きていけると思っているようです。
「日本国憲法第九条原理主義」です。
人間(日本国民)や国家の更に上に憲法条文を位置づけるという
不可思議な教義。
憲法が存在しなくとも、あるいは機能しなくとも国家は存続し得ますが、
その逆は有り得ません。しかし、
彼ら原理主義者は「私たちは憲法によって生かされている」と思い込んでるので国家が無くとも生きていけると思っているようです。
Posted by 猫宮とらお at 2016年10月04日 08:37
もうひとつ、我々美術家にとって印象的なのは、日本の神道という多神教は、他の多くの多神教と異なり、本来は偶像崇拝をしない、ということです。その代りが石や木や滝や森などの依代でしょう。もちろん、神道にも神像というものがありますが、これは礼拝用でなかったり、礼拝用の場合は、仏教輸入後に仏像の影響下に作られたものです(奇妙なことに、偶像崇拝禁止のルールは、一神教が、唯一神と人とを混同しないように用いるものであり、キリスト教だけが三位一体とかの屁理屈をつけて例外になっています)。この点、日本の多神教の神道は、立派な偶像を作りたがるギリシャやインドなどの多神教の一般傾向からかけ離れていますが、より原初的な「形のない精霊信仰」に近いといえるのかもしれません。しかし文化的には洗練されており、原始的アニミズムとは異なります。
もっとつっこんだ考察をすれば、偶像とは、結局人間であり、神仏と自分を同一視しやすいというか、自我を投影して「共感しやすい神仏のイメージ」を形成する、と言うことだろうと思います。だから、大衆は、偶像崇拝を好むのです。逆に言えば、こうした偶像崇拝に頼らない神道は、高級な多神教と言えるのではないでしょうか。
輸入宗教の仏教も、もともとは、偶像崇拝を行いませんでした。スーチンという初期の仏教遺跡に行ったことがありますが、そこに釈迦の一生を描いたレリーフがあり、周囲の人間や神々は具象的に彫ってあるのに、釈迦の姿は大きな球体なのです。これは、釈迦が自分を拝んではいけない、と言っていたことに由来するようですが、仏教とは、もともと古代東洋哲学であり、仏法という摂理を体得することが目的なのですから、神仏を崇め拝む必要はないのです。これが大衆化の過程で偶像崇拝に堕した?と言っていいのかもしれません。
ちなみに、日本は神仏習合とか言ってますが、なにぶん外来文化のほうが強いマレビト社会ですから、神様は仏のペルソナのひとつみたいな、あくまで仏主体の習合なのです。そして、仏教が輸入され、もてはやされた理由は、国家安泰とか、敵を調伏する(つまり呪いによる超能力戦争に勝つ)とか、禍いや疫病を引き起こす物の怪どもをやっつけるとか、そうした「実用性」に最も優れた宗教とみなされたためだったのです。簡単に言うと、仏さまとは、西方よりやってきた、ウルトラマンや仮面ライダーみたいなイメージだったのだと思います(だから宇宙人みたいな恰好をしています)。お経の意味などわからなくても(わからないほうがいい?)それがスペシウム光線のように悪い怨霊をやっつけて、平安をもたらしてくれさえすればいいのです。こうした派手な偶像崇拝やご利益が受けて、仏教が日本に定着したのだ、と考えると、あまり高級な宗教には思えませんが・・・
もっとつっこんだ考察をすれば、偶像とは、結局人間であり、神仏と自分を同一視しやすいというか、自我を投影して「共感しやすい神仏のイメージ」を形成する、と言うことだろうと思います。だから、大衆は、偶像崇拝を好むのです。逆に言えば、こうした偶像崇拝に頼らない神道は、高級な多神教と言えるのではないでしょうか。
輸入宗教の仏教も、もともとは、偶像崇拝を行いませんでした。スーチンという初期の仏教遺跡に行ったことがありますが、そこに釈迦の一生を描いたレリーフがあり、周囲の人間や神々は具象的に彫ってあるのに、釈迦の姿は大きな球体なのです。これは、釈迦が自分を拝んではいけない、と言っていたことに由来するようですが、仏教とは、もともと古代東洋哲学であり、仏法という摂理を体得することが目的なのですから、神仏を崇め拝む必要はないのです。これが大衆化の過程で偶像崇拝に堕した?と言っていいのかもしれません。
ちなみに、日本は神仏習合とか言ってますが、なにぶん外来文化のほうが強いマレビト社会ですから、神様は仏のペルソナのひとつみたいな、あくまで仏主体の習合なのです。そして、仏教が輸入され、もてはやされた理由は、国家安泰とか、敵を調伏する(つまり呪いによる超能力戦争に勝つ)とか、禍いや疫病を引き起こす物の怪どもをやっつけるとか、そうした「実用性」に最も優れた宗教とみなされたためだったのです。簡単に言うと、仏さまとは、西方よりやってきた、ウルトラマンや仮面ライダーみたいなイメージだったのだと思います(だから宇宙人みたいな恰好をしています)。お経の意味などわからなくても(わからないほうがいい?)それがスペシウム光線のように悪い怨霊をやっつけて、平安をもたらしてくれさえすればいいのです。こうした派手な偶像崇拝やご利益が受けて、仏教が日本に定着したのだ、と考えると、あまり高級な宗教には思えませんが・・・
Posted by 牛虎の金さん at 2016年10月04日 14:32
うさこ様
同意です。
>日本人の食膳前の頂きますの儀式・・・
日本人は恐らくあなたがおっしゃる通り自然の恵み(八百万の神々に感謝するのでしょう。あるいはそれを作った農家にも。一神教は天の恵みだから神様ですか、まあそれはそれぞれの宗教の方便的表現ですからいいんじゃないでしょうか。一神教の特徴は神と人が契約するんです。契約ですよ、これってビジネスですよね?そして神の教え(教義)があってそれに背くと契約違反何でしょうか? こういう感覚は私はわかりませんわ・・・
牛虎の金さん様
同意です。
>一神教というものが、もともとは民族宗教のサバイバル術に起源を持つもので・・・
そうでしょうねえ。
なんせ不毛の砂漠地帯、荒野の生活などサバイバルそのもの。
そこには寛容・許容・従順・柔軟という性格より、支配・独占・強要・傲慢・・・などの性格が色濃くでるでしょう。
ここが自然崇拝の東南アジアの農耕民や日本人の宗教観と大きく異なる自然背景でもあり、他人(民族)を殺して奪ってでも生きていかないといけない過酷な環境は、絶対唯一の創造神を生み出す風土になっているのでしょう。だから他宗教を弾圧し、異教徒を殺すことが正当化されるのでしょうね。その流れがナチスであり共産主義でもあると私は思います。
>日本の多神教の神道は・・・より原初的な「形のない精霊信仰」に近い
そうですね。
沖縄の嶽をご存知でしょうか?
これはいわゆる神社の原初的形態だと思うのですが、同時に仰るような「形のない精霊信仰」といえるでしょう。これはアメリカ先住民やマヤ族などの信仰にも近いものがあります。何とかの命(みこと)以前の信仰形態はそういうものだったのでしょう。
しかし時代が下って記紀神話が文章化されれば、偶像的な表現が登場します。ギリシャ・ローマ時代の多神教が偶像を多く生み出したのは、おそらく神話からの影響でしょう。日本の古事記みたいものが造形表現で神殿を飾る装飾的意図があったのではないかと邪推します。日本では神社にはそれがなかったのですが、絵巻物や縁起などには神々が登場することもありますが。
>輸入宗教の仏教も、もともとは、偶像崇拝を行いませんでした。
そうですね。
それは釈迦が予言した正法・像法・末法の時代変遷にも登場します。日本に仏教が伝来したのは像法の時代だったのでしょうね。それ以前にはブッダの肖像(=偶像)は描かれず、法輪、仏塔、仏足、菩提樹・・・・など象徴的な形態に置き換えられていましたね。
>仏教とは、もともと古代東洋哲学であり、仏法という摂理・・・
ですね。
仰る通り仏教はブッダの教えであり教書であります。まあ人生哲学といってもよいかと思いますから拝むものではないのです。おそらくキリスト教も使徒行伝などで語られるイエスの教えを実践せよ、というのが真意だったのでしょうが、後の教会の権威が儀式型宗教に変わったのでしょう。これは葬式仏教といわれる日本の仏教界と同じです。これは親鸞あたりに責任がありそうですが、親鸞は明確に自己否定の極地に到達した末の絶対他力一筋に信仰を貫いた点は立派ですわ。これは我々凡夫などに真似はできません。
おしょう様
同意です。
>日本人は自然(神道)から道徳を学び、仏教から哲学を学んだ民族と考えることも出来るかもしれませんね
まさに仰る通りだと思います。
神道と仏教が習合したのも、天皇が仏教に帰依したのも当初は貴族の抗争があったにせよ、天皇が両者の真意は矛盾しないということがお分かりになったからではないかと思います。それは神主が仏教を否定しなかったし、後の南都六宗や空海でさえ神道を否定しなかったことも神仏習合の表れでしょう。
猫宮とらお様
同意です。
>彼ら原理主義者は「私たちは憲法によって生かされている」と思い込んでるので国家が無くとも生きていけると思っているようです。
全くです。
憲法真理教は戦後の新興宗教で一種のカルトですから狂信者しかいませんから、「国亡びて憲法残る」という思想なんでしょう。
同意です。
>日本人の食膳前の頂きますの儀式・・・
日本人は恐らくあなたがおっしゃる通り自然の恵み(八百万の神々に感謝するのでしょう。あるいはそれを作った農家にも。一神教は天の恵みだから神様ですか、まあそれはそれぞれの宗教の方便的表現ですからいいんじゃないでしょうか。一神教の特徴は神と人が契約するんです。契約ですよ、これってビジネスですよね?そして神の教え(教義)があってそれに背くと契約違反何でしょうか? こういう感覚は私はわかりませんわ・・・
牛虎の金さん様
同意です。
>一神教というものが、もともとは民族宗教のサバイバル術に起源を持つもので・・・
そうでしょうねえ。
なんせ不毛の砂漠地帯、荒野の生活などサバイバルそのもの。
そこには寛容・許容・従順・柔軟という性格より、支配・独占・強要・傲慢・・・などの性格が色濃くでるでしょう。
ここが自然崇拝の東南アジアの農耕民や日本人の宗教観と大きく異なる自然背景でもあり、他人(民族)を殺して奪ってでも生きていかないといけない過酷な環境は、絶対唯一の創造神を生み出す風土になっているのでしょう。だから他宗教を弾圧し、異教徒を殺すことが正当化されるのでしょうね。その流れがナチスであり共産主義でもあると私は思います。
>日本の多神教の神道は・・・より原初的な「形のない精霊信仰」に近い
そうですね。
沖縄の嶽をご存知でしょうか?
これはいわゆる神社の原初的形態だと思うのですが、同時に仰るような「形のない精霊信仰」といえるでしょう。これはアメリカ先住民やマヤ族などの信仰にも近いものがあります。何とかの命(みこと)以前の信仰形態はそういうものだったのでしょう。
しかし時代が下って記紀神話が文章化されれば、偶像的な表現が登場します。ギリシャ・ローマ時代の多神教が偶像を多く生み出したのは、おそらく神話からの影響でしょう。日本の古事記みたいものが造形表現で神殿を飾る装飾的意図があったのではないかと邪推します。日本では神社にはそれがなかったのですが、絵巻物や縁起などには神々が登場することもありますが。
>輸入宗教の仏教も、もともとは、偶像崇拝を行いませんでした。
そうですね。
それは釈迦が予言した正法・像法・末法の時代変遷にも登場します。日本に仏教が伝来したのは像法の時代だったのでしょうね。それ以前にはブッダの肖像(=偶像)は描かれず、法輪、仏塔、仏足、菩提樹・・・・など象徴的な形態に置き換えられていましたね。
>仏教とは、もともと古代東洋哲学であり、仏法という摂理・・・
ですね。
仰る通り仏教はブッダの教えであり教書であります。まあ人生哲学といってもよいかと思いますから拝むものではないのです。おそらくキリスト教も使徒行伝などで語られるイエスの教えを実践せよ、というのが真意だったのでしょうが、後の教会の権威が儀式型宗教に変わったのでしょう。これは葬式仏教といわれる日本の仏教界と同じです。これは親鸞あたりに責任がありそうですが、親鸞は明確に自己否定の極地に到達した末の絶対他力一筋に信仰を貫いた点は立派ですわ。これは我々凡夫などに真似はできません。
おしょう様
同意です。
>日本人は自然(神道)から道徳を学び、仏教から哲学を学んだ民族と考えることも出来るかもしれませんね
まさに仰る通りだと思います。
神道と仏教が習合したのも、天皇が仏教に帰依したのも当初は貴族の抗争があったにせよ、天皇が両者の真意は矛盾しないということがお分かりになったからではないかと思います。それは神主が仏教を否定しなかったし、後の南都六宗や空海でさえ神道を否定しなかったことも神仏習合の表れでしょう。
猫宮とらお様
同意です。
>彼ら原理主義者は「私たちは憲法によって生かされている」と思い込んでるので国家が無くとも生きていけると思っているようです。
全くです。
憲法真理教は戦後の新興宗教で一種のカルトですから狂信者しかいませんから、「国亡びて憲法残る」という思想なんでしょう。
Posted by トラネコ at 2016年10月04日 20:10
日本人にとって、森羅万象が神であり、仏であります。日本人が排斥すべき「邪教」は、「9条真理教」であります。
Posted by NTRC特撮軍団長・ヤラセロウ大元帥 at 2016年10月04日 22:58
トラネコ様
一神教の信者は神との契約を結ぶのです。
ユダヤ教の神がモーセを介して人に神との契約を交わさせたのが十戒です。
この十戒を知れば、日本人(昔の日本人。。?)。
人として当たり前な姿、よもや、不道徳で恥ずべき事をしたなら叱られただろうにと思います。
絶対的な神からの申し送りではなくww
〉まぁ、それはそれぞれの宗教的方便的表現なのでいいのではないでしょうか。
それはそうかもですが、祈りの対象や感謝の対象が違うって事で揉め事があるのが、一神教の方達の揉め事って思います。
私も若い頃、キリスト教(イエス・キリストの姿に救罪があると思ってました。)
イエスはユダヤ教の人々の中で創られた救世主だったんです。
どんなに神の教えに忠実になっても現実生活で辛い思いの毎日。
創られた存在でも救罪の象徴は人に癒しを与えるもんです。
他力ですが。
一神教の神は現実に生きる人に過酷な現実しか与えてないな~と思うと同時に日本の神様も理不尽に頑張って生きてる人に過酷な現実を与えても知らんふりやんか?って思ってます。
感謝の気持ちは大切ですが、なにか特別なモノwwに拘るのはアホです。
自分が他者の為に頑張るって思いで生きてればいいんですよ。
一神教の信者は神との契約を結ぶのです。
ユダヤ教の神がモーセを介して人に神との契約を交わさせたのが十戒です。
この十戒を知れば、日本人(昔の日本人。。?)。
人として当たり前な姿、よもや、不道徳で恥ずべき事をしたなら叱られただろうにと思います。
絶対的な神からの申し送りではなくww
〉まぁ、それはそれぞれの宗教的方便的表現なのでいいのではないでしょうか。
それはそうかもですが、祈りの対象や感謝の対象が違うって事で揉め事があるのが、一神教の方達の揉め事って思います。
私も若い頃、キリスト教(イエス・キリストの姿に救罪があると思ってました。)
イエスはユダヤ教の人々の中で創られた救世主だったんです。
どんなに神の教えに忠実になっても現実生活で辛い思いの毎日。
創られた存在でも救罪の象徴は人に癒しを与えるもんです。
他力ですが。
一神教の神は現実に生きる人に過酷な現実しか与えてないな~と思うと同時に日本の神様も理不尽に頑張って生きてる人に過酷な現実を与えても知らんふりやんか?って思ってます。
感謝の気持ちは大切ですが、なにか特別なモノwwに拘るのはアホです。
自分が他者の為に頑張るって思いで生きてればいいんですよ。
Posted by うさこ at 2016年10月05日 01:13
NTRC特撮軍団長・ヤラセロウ大元帥様
同意です。
9条カルトに限らず、カルトは排斥しましょう!
うさこ様
同意です。
>祈りの対象や感謝の対象が違うって事で揉め事があるのが、
一神教の方達の揉め事って思います。
形式主義も揉めますわ。
神の概念も、祈りの対象も、儀式形態も・・・それぞれの宗教に「形」があるわけで、それがまた文化なわけです。こんなことにいちいち目くじら立てても仕方ないのに、殺し合いまでやってきたのが一神教の実態であり歴史そのものです。まあいまも中東でやってますけどね。
>一神教の神は現実に生きる人に過酷な現実しか与えてないな~
キリストの磔刑図ってキモくないですか?
貼り付けされて苦痛に歪むイエスさんの顔は私は直視できません。
あんな表現よりも仏様の柔和な微笑みのお顔の方が救われる気がしますがね。
>自分が他者の為に頑張るって思いで生きてればいいんですよ。
イエスさんは「隣人愛」という言葉でそう仰ってるようですが、信者がバカばかりなので頼み事しかしないのです。もっとも仏教徒もそうですけどね(笑)
同意です。
9条カルトに限らず、カルトは排斥しましょう!
うさこ様
同意です。
>祈りの対象や感謝の対象が違うって事で揉め事があるのが、
一神教の方達の揉め事って思います。
形式主義も揉めますわ。
神の概念も、祈りの対象も、儀式形態も・・・それぞれの宗教に「形」があるわけで、それがまた文化なわけです。こんなことにいちいち目くじら立てても仕方ないのに、殺し合いまでやってきたのが一神教の実態であり歴史そのものです。まあいまも中東でやってますけどね。
>一神教の神は現実に生きる人に過酷な現実しか与えてないな~
キリストの磔刑図ってキモくないですか?
貼り付けされて苦痛に歪むイエスさんの顔は私は直視できません。
あんな表現よりも仏様の柔和な微笑みのお顔の方が救われる気がしますがね。
>自分が他者の為に頑張るって思いで生きてればいいんですよ。
イエスさんは「隣人愛」という言葉でそう仰ってるようですが、信者がバカばかりなので頼み事しかしないのです。もっとも仏教徒もそうですけどね(笑)
Posted by トラネコ at 2016年10月05日 19:33
トラネコ様
〉キリストの磔刑図ってキモくないですか?
同意です。
イエスは磔刑に処される前にゲッセマネでの祈りをしたのです。
我が神よなぜ?私にこんな苦しみをお与えになるのですか?
とても人間的な吐露ですね。
私はこの箇所を読む度、怒りを感じました。
私の考えですが、イエスは全ては御心のままにって言ったことですか。
神に反逆する事が自分の人生であったと思うのですが。。
それでは、現代生きる私達は、なにを規範にしてなにを信じて生きるかって課題が生じますが、私は一人一人が自分の頭で自己の欲望のままではなく生きる事が大切って思います。
〉キリストの磔刑図ってキモくないですか?
同意です。
イエスは磔刑に処される前にゲッセマネでの祈りをしたのです。
我が神よなぜ?私にこんな苦しみをお与えになるのですか?
とても人間的な吐露ですね。
私はこの箇所を読む度、怒りを感じました。
私の考えですが、イエスは全ては御心のままにって言ったことですか。
神に反逆する事が自分の人生であったと思うのですが。。
それでは、現代生きる私達は、なにを規範にしてなにを信じて生きるかって課題が生じますが、私は一人一人が自分の頭で自己の欲望のままではなく生きる事が大切って思います。
Posted by うさこ at 2016年10月06日 01:17
うさこ様
>イエスは全ては御心のままにって言ったことですか。
私は個人的には、唯一の絶対神に帰依するということは、神のしもべならぬ、神の精神的奴隷になることと考えています。だから一神教は嫌いなのです。その点仏教は自力も他力も自己の修練が基本であり、祈りとは別に自身の生き方を謙虚に全うすることが基本になると思います。そういう意味でブッダの教えは深淵なるが故に、宗教を越えて哲学の難解さが凡夫には馴染めない部分でもあります。
>イエスは全ては御心のままにって言ったことですか。
私は個人的には、唯一の絶対神に帰依するということは、神のしもべならぬ、神の精神的奴隷になることと考えています。だから一神教は嫌いなのです。その点仏教は自力も他力も自己の修練が基本であり、祈りとは別に自身の生き方を謙虚に全うすることが基本になると思います。そういう意味でブッダの教えは深淵なるが故に、宗教を越えて哲学の難解さが凡夫には馴染めない部分でもあります。
Posted by トラネコ at 2016年10月06日 20:12
多神教でいいと思います。一神教の連中見てると、海外の地でも自分の流儀押し付けますもんね。まだ西洋人は郷の中に従ってくれるだけマシですが・・・大体狂信的な連中っには、世の中の変化とかどう思ってるんでしょうかね。イスラム教とかは本来は商人の宗教でものすごく寛容だったんですが…。
ちなみに私は仏教好かんです。古来から権力に寄生して、わがまま放題、僧兵まで持って、江戸時代は戸籍管理して今に至るまで既得権益となり、ろくでもないです。平安京に遷都したのだって仏教を排除するための側面だってあるのにいつの間にか。だから、朝鮮トンスラーが寺院なんかに油まいたりとか、放火したりという話聞いたときは「反日同士潰しあえ!」って思いましたもん。
こんな豊かに時代になって、少しくらい自分の中でルール持つくらいならいいと思いますし、節制にもなるでしょうが、あれほど戒律やら決まりがあってそれに則った生活をするというのは、逆に不便でしかないと思いますし、自由奔放に生きてる人に対して、下手したら嫉妬とかするかもしれませんよ。なんだ、あいつら豊かになりやがって、節操がない~みたいな感じで。
ただ、宗教に入ってる人とか、勧誘に来る人らとか見てると、宗教やってる人の中には、何らか外見なり、内面の美しいものに、理屈ではないものにコロリとやられちゃうのかもしれませんね。教会とか、天井高くしてますから、そんなところで讃美歌やら聞かされると、すごく美しい音色が荘厳に流れてるって思いますし、ロシア正教なんか、本当にやばいと思いました。
まぁシナチョンの力んだ喋り方で、ただ煩いだけの音垂れ流しされると一瞬でムカッと来ますがね
ちなみに私は仏教好かんです。古来から権力に寄生して、わがまま放題、僧兵まで持って、江戸時代は戸籍管理して今に至るまで既得権益となり、ろくでもないです。平安京に遷都したのだって仏教を排除するための側面だってあるのにいつの間にか。だから、朝鮮トンスラーが寺院なんかに油まいたりとか、放火したりという話聞いたときは「反日同士潰しあえ!」って思いましたもん。
こんな豊かに時代になって、少しくらい自分の中でルール持つくらいならいいと思いますし、節制にもなるでしょうが、あれほど戒律やら決まりがあってそれに則った生活をするというのは、逆に不便でしかないと思いますし、自由奔放に生きてる人に対して、下手したら嫉妬とかするかもしれませんよ。なんだ、あいつら豊かになりやがって、節操がない~みたいな感じで。
ただ、宗教に入ってる人とか、勧誘に来る人らとか見てると、宗教やってる人の中には、何らか外見なり、内面の美しいものに、理屈ではないものにコロリとやられちゃうのかもしれませんね。教会とか、天井高くしてますから、そんなところで讃美歌やら聞かされると、すごく美しい音色が荘厳に流れてるって思いますし、ロシア正教なんか、本当にやばいと思いました。
まぁシナチョンの力んだ喋り方で、ただ煩いだけの音垂れ流しされると一瞬でムカッと来ますがね
Posted by やま at 2016年10月08日 01:02