アカデミー賞の新基準は映像芸術と多様性の否定である!

トラネコ

2020年11月11日 00:00

アカデミー賞の作品賞、選考に“多様性”を求める新基準。
映画芸術科学アカデミーは、アカデミー賞の作品賞選考において“多様性”を求める新たな基準を発表した。新基準には、「映画館へ足を向ける観客の多様性をより反映するために、作品内もしくは製作側における公平な採用を促す」ことを目的にいくつかの新な項目が加えられており、審査対象となるためには定められた4つの採用項目中、最低2つを満たすことが条件になるという。

作品賞候補となるには、女性、人種・民族的マイノリティー、性的マイノリティー、障害のある人などから一定数の俳優、制作や宣伝スタッフを雇用することが挙げられているほか、ストーリーラインにも多様性を反映し、異なる文化的背景を持つ人々を研修生、出演俳優もしくは制作スタッフとして起用することも求められる。

この新基準は2024年の第96回アカデミー賞から適用されるが、2022年の第94回アカデミー賞対象作品から作品の包括性を問う書類への記入が義務化される。しかし、来年4月25日に開催される第93回は対象外となっている。

映画芸術科学アカデミーのデヴィッド・ルービン会長とドーン・ハドソンCEOは、声明にこう綴っている。「映画を作る側と作品につながりを感じる観客の双方において、私達の多様な世界を反映する窓口を広げなくてはなりません」「アカデミーは、その実現へ向けて必要不可欠な役割を果たすべく全力を尽くします。私達は、これらの包括性基準が、この業界に継続的で本質的な変化をもたらすきっかけになると信じています」

長年アカデミー賞は、有色人種の監督や俳優による作品のノミネートや受賞が少ないことで批判を受けてきており、2016年にはノミネートリストが多様性に欠けていたことを指摘するハッシュタグ#OscarsSoWhite (オスカーは白人ばかり)が作られていたほどだった。今年の第92回アカデミー賞では、韓国映画『パラサイト半地下の家族』が英語以外の言語の映画として史上初の作品賞を受賞している。
Text: Bangshowbiz
VOUGE 2020年9月10日
https://www.vogue.co.jp/celebrity/article/oscars-announce-new-inclusion-requirements-for-best-picture-eligibility







映画芸術科学アカデミーのデヴィッド・ルービン会長とドーン・ハドソンCEOは、
 声明にこう綴っている。
 「映画を作る側と作品につながりを感じる観客の双方において、
 私達の多様な世界を反映する窓口を広げなくてはなりません」
 「アカデミーは、その実現へ向けて必要不可欠な役割を果たすべく全力を尽くします。
 私達は、これらの包括性基準が、この業界に継続的で本質的な変化をもたらす
 きっかけになると信じています」





 アカデミー賞の選考基準に・・・

  性的マイノリティ、有色人種、障碍者・・・を
  作品のテーマ、スタッフ起用に適用する?






読者諸氏はこの会長の弁が理解できるだろうか?
私はどうも頭が悪いせいか、まったく理解できないのだ。
どなたかわかりやすく説明していただけないだろうか?

そもそも映画というのは映像芸術という表現の世界の話である。
その表現の世界において、なぜマイノリティを意識しないといけないのか?
マイノリティを意識しないと受賞されない規定って芸術否定ではないのか?

そしてこのことがアカデミー賞の選考基準になるというのは、
アカデミー賞そのものが既に芸術的価値観を放棄したという事だな?
つまりアメリカ映画界自らが、映像芸術を破壊し否定するという事だな?

或いは・・・

作品賞候補となるには、女性、人種・民族的マイノリティー、性的マイノリティー、
 障害のある人などから一定数の俳優、制作や宣伝スタッフを
 雇用することが挙げられているほか、ストーリーラインにも
 多様性を反映し、異なる文化的背景を持つ人々を研修生、
 出演俳優もしくは制作スタッフとして起用することも求められる。

これは映画製作の芸術性とは
何も関係がない!


しかし・・・

映像芸術とはいえ、商業主義に立脚した商品的価値をも、
映画作品にも付加することを認めざるを得ない
という理由。
つまり売れる作品、大衆受けする興行収入が高い作品に、
優秀賞としての価値を認める
というならわかる。

<参考記事>
米アカデミー賞の選考に“多様性ルール”導入も狙いは興行収入?
ひろゆき氏「結局“金じゃん”と思っている」

2020.09.13
https://times.abema.tv/news-article/8624051

まあそれなら私も理解はできるのだが、
純粋な芸術的価値と商品的価値は別のものとして分けて考える必要がある。
これは映画に限らず、美術も演劇も小説も・・・すべて表現する作品は同じである。



しかしそう考えたとしても私はわからない・・・






長年アカデミー賞は、有色人種の監督や俳優による作品のノミネートや
 受賞が少ないことで批判を受けてきており、2016年にはノミネートリストが
 多様性に欠けていたことを指摘するハッシュタグ#OscarsSoWhite
 (オスカーは白人ばかり)が作られていたほどだった





アカデミーの受賞基準は作品の芸術性ではないのか?
ならば作品自体に芸術的価値が見いだせないのなら、
別に性的少数派や人種が含まれていようがいまいが関係ないじゃないか。


少数派を加味していないと多様性が保てないというのも理解できない。
観客には当然の事、性的、人種的、身体的少数派がいるのは当たり前だが、
こんな下らない基準を設定するなら、さらに基準項目は増えていくことになる。

例えば・・・

チビ、デブ、ヤセ、ブス、ブサオ、短足、貧困、低学歴、無教養・・・
これらの「マイノリティ」への配慮だって必要になるではないか!
観客やスタッフや俳優の多様性をいうなら、これも加えるべきだ。


しかもマイノリティの割合を数字で規定しているなら、
さらに面倒な制作への配慮が芸術表現よりも優先することになり、
この規定はむしろ多様性を否定しているのではないか!

つまり・・・

 これまでの「自由な表現」や「自由な映画製作」を、
 性別、人種、障碍者という人物的属性でもって制限、
 規制する事になり、多様性どころか逆に映画製作を、
 不自由さで縛る「表現の不自由」の押し付けである。






アファーマティブ・アクションという話を何度かエントリした事がある。
  ↓
<参考エントリ>
アファーマティブアクションは人種配分主義である!
https://ryotaroneko.ti-da.net/e10585567.html

アメリカの大学では一定割合で黒人の入学者枠を設けており、
黒人という人種による入学受け入れ規定がある。それは黒人は貧しい世帯が多い、
だから黒人は能力があっても十分な教育を受けられないハンディがあるからだという。

しかしすべての黒人が低所得者ではないし、成功した裕福な黒人も
同じ恩恵を受けられるのなら、白人への逆差別につながるのである。
大学入学は単純に成績だけで決めればよい、これが平等である。




これが行き過ぎると・・・

入試で合格点に十分に達していても成績優秀だというだけで、
アジア系は不合格になるという信じられない話も
出ているのである。
アメリカにおける民主主義とか公平性って何なんだろうか?
  ↓
<参考記事>
米ハーバード大がアジア系米国人を差別か? 
「ほぼ満点でも不合格」「人種考慮は多様性のため」 トランプ政権が調査へ

産経ニュース 2017.8.24
https://www.sankei.com/world/news/170824/wor1708240001-n1.html

そもそも大学は学問を研究し学ぶところである。
そこに人種がなぜ関係あるのだ?


しかしこれは我々日本人が到底理解できないアメリカの「業」である。
つまり人種差別が国家成立の基盤になってできたアメリカの宿業である。
その人種に派生してLGBTなどの性的少数派の権利も拡大されているのである。





これからは、純粋に映像表現の芸術作品を作りたい人は、
アカデミー賞は商業主義として敬遠していくことになるだろう。
カンヌ映画祭やベルリン映画祭で作品発表すればよい。

そしてアカデミー賞を目指す監督も俳優も映画人はすべて、
売れれば何でもいいという金儲け主義に徹する
ことだ。
まあ映画も娯楽の一つと考えればそれも悪くないしな・・・

そして・・・

アメリカ映画界も終わったな・・・(溜息)









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