「三種の神器」から見た勾玉考 その2
2008年09月26日
この記紀神話の月読命と勾玉の付け足し感は妙に符号するのだ。
では勾玉はどんな部族集団の神宝だったのか?
私は物部氏などの縄文人系氏族を象徴したものが勾玉だったのではないかと思う。
私は彼らが勾玉を神宝として重要視していたと考えるのである。
さて物部氏なのだが、私は物部氏が日本歴史では軽視されていると思うのだが、
物部氏はもしかすると天皇家にかわる日本の象徴元首だったかも知れないのだ。
物部氏は天皇家よりも前に天孫降臨したとされる、
饒速日命(ニギハヤヒミコト)を祖先と伝えられる氏族であり、
神武天皇よりも先に大和の地を治めていた有力豪族である。
しかも天皇家以外に天孫降臨伝説を持つ唯一の豪族なのだ。
つまり先住民の土着系名門豪族だったのだ。
物部氏は日本においては天皇家より古くその意味では格が上である。
このことを教科書でもまったく触れていない。
また物部氏はもとは中臣氏同様、祭祀をつかさどる家系である。
また武器の製造に関する部民(べのたみ=職能集団)で、
あわせて戦闘にも長けた軍事の有力豪族でもあった。
後に仏教を崇拝する蘇我氏との対立で滅びたとされる。
ちなみに蘇我氏は半島系渡来人といわれている。
だから物部氏と蘇我氏の対立は、仏教という大陸からの新思想をめぐっての、
土着系vs渡来系の権力闘争だとも見れる。
さて天武天皇は初めて「天皇」の称号を名乗った人物だといわれる。
それ以前は大王(おおきみ)と称した。
初の天皇は国家体制を確立するために様々な行政改革を行い、
律令国家の基礎を固めていった。中でも皇統の正当性を裏付ける証拠が急務になり、
天皇家の皇統の歴史編纂をするに至ったのだ。
それが記紀神話である。
そのなかで物部氏は仏教排斥派で権力中枢から下野したとはいえ、
天皇側は縄文系名門で軍事と祭祀の有力豪族を無視することはできなかったのではないか。
もともと神武東征以降の大和王権は物部氏の協力なしには成立しえなかった。
しかし仏教を取り入れた聖徳太子以降、物部氏は朝廷から消された存在だった。
天武天皇は律令基盤の強化のためには、どうしても再度物部氏を
権力中枢に招かざるを得なかったのではないだろうか。
むしろ物部氏を再度取り込んだほうが、国家基盤をより磐石にできるのではないか。
しかも一旦朝廷からはずした先住民系名門有力豪族・物部氏復帰を実行することは、
全国にいる先住民系で物部氏よりの地方豪族に賛同・協力を得ることができ、
天皇家のブランドにも箔がつくとも考えられはしないだろうか?
物部氏が祭られる「石見一宮物部神社」
事実物部氏の後裔は壬申の乱後に石上氏と改名した後に、
再び朝廷の重鎮に迎えられているのだ。
後裔を称する石上朝臣麻呂には朝臣の姓が与えられて、
西暦708年(和銅元年)に左大臣。
その死にあたっては廃朝の上、従一位を贈られた。
息子の石上朝臣乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、
乙麻呂の息子の石上朝臣宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。
また宅嗣は日本初の公開図書館・芸亭の創設者としても歴史に名を残している。(ウィキペディアより)
しかし平城京遷都のとき、藤原不比等(中臣氏)に石上朝臣麻呂は藤原京の留守役にされてから、物部氏は日本史の表舞台からすっかり消されてしまうのである。
おそらく祭祀を司る中臣氏(藤原氏)にとってこれからの権力基盤を固めるうえでは、
物部氏(石上氏)の存在は有力なだけに目障りな存在であったことは、
想像に難くない。
話はもどるが、
天武天皇が物部氏を排斥するよりも天皇の重鎮に迎え入れ、
天皇家よりも古い歴史を持つ名門の土着豪族を従えたほうが得策であると、
天武天皇がそう考えたとしても不思議はないと思うのだ。
神璽の勾玉は物部氏の宝物ではないかと私は思っているのだ。
そして反仏教派の神祇官・中臣氏が天皇に強く推薦し、
物部氏の家宝の勾玉を三種の神器の一つに加えたのではないだろうか?
天武天皇は初めて天皇と称したという説に従えば、
記紀編纂で皇統の正当性を裏づけ、同時にこの時期において初めて、
皇位継承の証として正式に三種の神器を制定したのではないか。
なぜならいつの時代から天皇の皇位継承に三種の神器が、
その神璽として登場したのかの記録は、
少なくとも記紀神話以前にはない。
日本書紀(720年)には継体天皇の即位に際して、
はじめて鏡と剣が皇位継承の証として登場する。
これは天武天皇の時代より100年ほど遡る。
古語拾遺(807年)には、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が授かったのは、
鏡と剣の二種であるとされる。
また690年の持統天皇即位礼では「神璽の鏡剣」を奉ったとあるが、
勾玉は記載にない。
勾玉は物部氏のみの特権的宝物ではないし、
各氏族も宝物として持っていたかも知れない。
さらに付け加えておくが、「先代旧事本紀」には物部氏の家宝には、
「十種神宝」(とくさのかんだから)がある。
しかしこれが皇位継承の神璽だったという資料はない。
しかし勾玉を家宝とする集団は恐らく縄文系の土着氏族ではないかと思うのだ。
記紀神話に天照御大神が高天原にやって来るスサノオに立ち向かうとき、
全身に何十個か何百個かの勾玉を身につけ、防備をしたという。
つまり勾玉は古代人の霊的なパワーグッズだったようだ。
そしてそれは渡来人すらも取り入れざるを得ない強力なものであったと考えられる。
時代は下って21世紀の日本でもやはり勾玉はお守り的アクセサリーとして人気がある。
というか、アクセサリー・ショップでも神社でも勾玉はすでに定番商品となっている。
勾玉は日本人の潜在意識と遺伝子にしっかり組み込まれた
民族のタリズマンなのかもしれない。
では勾玉はどんな部族集団の神宝だったのか?
私は物部氏などの縄文人系氏族を象徴したものが勾玉だったのではないかと思う。
私は彼らが勾玉を神宝として重要視していたと考えるのである。
さて物部氏なのだが、私は物部氏が日本歴史では軽視されていると思うのだが、
物部氏はもしかすると天皇家にかわる日本の象徴元首だったかも知れないのだ。
物部氏は天皇家よりも前に天孫降臨したとされる、
饒速日命(ニギハヤヒミコト)を祖先と伝えられる氏族であり、
神武天皇よりも先に大和の地を治めていた有力豪族である。
しかも天皇家以外に天孫降臨伝説を持つ唯一の豪族なのだ。
つまり先住民の土着系名門豪族だったのだ。
物部氏は日本においては天皇家より古くその意味では格が上である。
このことを教科書でもまったく触れていない。
また物部氏はもとは中臣氏同様、祭祀をつかさどる家系である。
また武器の製造に関する部民(べのたみ=職能集団)で、
あわせて戦闘にも長けた軍事の有力豪族でもあった。
後に仏教を崇拝する蘇我氏との対立で滅びたとされる。
ちなみに蘇我氏は半島系渡来人といわれている。
だから物部氏と蘇我氏の対立は、仏教という大陸からの新思想をめぐっての、
土着系vs渡来系の権力闘争だとも見れる。
さて天武天皇は初めて「天皇」の称号を名乗った人物だといわれる。
それ以前は大王(おおきみ)と称した。
初の天皇は国家体制を確立するために様々な行政改革を行い、
律令国家の基礎を固めていった。中でも皇統の正当性を裏付ける証拠が急務になり、
天皇家の皇統の歴史編纂をするに至ったのだ。
それが記紀神話である。
そのなかで物部氏は仏教排斥派で権力中枢から下野したとはいえ、
天皇側は縄文系名門で軍事と祭祀の有力豪族を無視することはできなかったのではないか。
もともと神武東征以降の大和王権は物部氏の協力なしには成立しえなかった。
しかし仏教を取り入れた聖徳太子以降、物部氏は朝廷から消された存在だった。
天武天皇は律令基盤の強化のためには、どうしても再度物部氏を
権力中枢に招かざるを得なかったのではないだろうか。
むしろ物部氏を再度取り込んだほうが、国家基盤をより磐石にできるのではないか。
しかも一旦朝廷からはずした先住民系名門有力豪族・物部氏復帰を実行することは、
全国にいる先住民系で物部氏よりの地方豪族に賛同・協力を得ることができ、
天皇家のブランドにも箔がつくとも考えられはしないだろうか?
物部氏が祭られる「石見一宮物部神社」
事実物部氏の後裔は壬申の乱後に石上氏と改名した後に、
再び朝廷の重鎮に迎えられているのだ。
後裔を称する石上朝臣麻呂には朝臣の姓が与えられて、
西暦708年(和銅元年)に左大臣。
その死にあたっては廃朝の上、従一位を贈られた。
息子の石上朝臣乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、
乙麻呂の息子の石上朝臣宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。
また宅嗣は日本初の公開図書館・芸亭の創設者としても歴史に名を残している。(ウィキペディアより)
しかし平城京遷都のとき、藤原不比等(中臣氏)に石上朝臣麻呂は藤原京の留守役にされてから、物部氏は日本史の表舞台からすっかり消されてしまうのである。
おそらく祭祀を司る中臣氏(藤原氏)にとってこれからの権力基盤を固めるうえでは、
物部氏(石上氏)の存在は有力なだけに目障りな存在であったことは、
想像に難くない。
話はもどるが、
天武天皇が物部氏を排斥するよりも天皇の重鎮に迎え入れ、
天皇家よりも古い歴史を持つ名門の土着豪族を従えたほうが得策であると、
天武天皇がそう考えたとしても不思議はないと思うのだ。
神璽の勾玉は物部氏の宝物ではないかと私は思っているのだ。
そして反仏教派の神祇官・中臣氏が天皇に強く推薦し、
物部氏の家宝の勾玉を三種の神器の一つに加えたのではないだろうか?
天武天皇は初めて天皇と称したという説に従えば、
記紀編纂で皇統の正当性を裏づけ、同時にこの時期において初めて、
皇位継承の証として正式に三種の神器を制定したのではないか。
なぜならいつの時代から天皇の皇位継承に三種の神器が、
その神璽として登場したのかの記録は、
少なくとも記紀神話以前にはない。
日本書紀(720年)には継体天皇の即位に際して、
はじめて鏡と剣が皇位継承の証として登場する。
これは天武天皇の時代より100年ほど遡る。
古語拾遺(807年)には、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が授かったのは、
鏡と剣の二種であるとされる。
また690年の持統天皇即位礼では「神璽の鏡剣」を奉ったとあるが、
勾玉は記載にない。
勾玉は物部氏のみの特権的宝物ではないし、
各氏族も宝物として持っていたかも知れない。
さらに付け加えておくが、「先代旧事本紀」には物部氏の家宝には、
「十種神宝」(とくさのかんだから)がある。
しかしこれが皇位継承の神璽だったという資料はない。
しかし勾玉を家宝とする集団は恐らく縄文系の土着氏族ではないかと思うのだ。
記紀神話に天照御大神が高天原にやって来るスサノオに立ち向かうとき、
全身に何十個か何百個かの勾玉を身につけ、防備をしたという。
つまり勾玉は古代人の霊的なパワーグッズだったようだ。
そしてそれは渡来人すらも取り入れざるを得ない強力なものであったと考えられる。
時代は下って21世紀の日本でもやはり勾玉はお守り的アクセサリーとして人気がある。
というか、アクセサリー・ショップでも神社でも勾玉はすでに定番商品となっている。
勾玉は日本人の潜在意識と遺伝子にしっかり組み込まれた
民族のタリズマンなのかもしれない。
Posted by トラネコ at 06:00│Comments(0)
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