http://pepe6868new.blog113.fc2.com/blog-entry-9895.html
久しぶりに映画の話題である。
この夏に公開されたアメリカ映画
『終戦のエンペラー』である。
既に劇場でご鑑賞になった方もいるだろうが、地方では、
まだ上映中のところもあるかも知れないので詳細は控える。
終戦間もない1945年8月30日、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーが
厚木基地に降り立った。マッカーサーは部下のボナー・フェラーズ准将に、
ある極秘調査を命じる。
この戦争の真の意味での責任者は、いったい誰なのか?
天皇に戦争責任はあったのか? 日本人にとって天皇とは何か?
あの戦争はいったい何だったのか?
現代に生きる我々日本国民でさえ、考えることはない、
忘れ去られたテーマが今アメリカ人の手によって再考される。
この映画はかつてのハリウッド映画のような日本人は侵略者、
インディアンは悪玉みたいな、ステレオタイプの描き方ではなく、
比較的公平な立場で描いている所が興味深い。
マッカーサーの演出した東京裁判史観ではなく、
敗戦国・日本の立場でも戦争を述べている点が、
きわめてユニークだと思う。
これは2006年公開のクリント・イーストウッド監督の、
『父親たちの星条旗』や
『硫黄島からの手紙』なども、
日米双方の視点で公平に描かれていた。
こういう作品もフェア精神のアメリカならではであり、
非文明国のシナチョーセンンには絶対ありえない。
さて・・・
中村雅俊演じる近衛文麻呂はフェラーズ准将に、毅然と主張した。
『日本の戦争のどこに不当なものがあるのか、日本が侵略したというが、
東南アジアはすべてあなた方欧米の侵略した植民地ではないか、
我々は近代文明の先輩のあなた方を見習ったまでだ!』
ここは観ていて痛快だった。
おそらくこのことを知らない日本人も多いだろう。
でも朝日新聞や共産党は面白くなかっただろうな(笑)。
また・・・
トミー・リー・ジョーンズ演じるマッカーサーが個人的私怨を晴らす目的で、
演出されたのが
極東軍事裁判(通称・東京裁判)であり、
マッカーサー個人は天皇を死刑台に上げたかったといわれている。
しかし、この映画では、マッカーサーの私怨めいた雰囲気は出ておらず、
比較的淡々と職務遂行する職業軍人として描かれている。
さらにマッカーサーが自伝でも述べた天皇との会見での、
彼の天皇観をガラリと変えた
『すべての戦争責任を引き受けるから、
国民を助けて欲しい。』という陛下のお言葉の重要な場面を再現している。
このシーンは大東亜戦争における、
否、昭和史の上で天皇陛下のお立場とお人柄を
語る上でも非常に重要な場面である。
昭和天皇が自ら率先して、
戦争責任の罪をすべてを
背負うことを決断されていた。、
すなわち・・・
陛下ご自信が死刑も厭わないお覚悟で、
国民のために犠牲になる意思が、
あったことを示すものである。
このような皇帝や王は世界史に存在しない。
恐らく現在においてもいないであろう。
マッカーサーはここに感動したのである。
<参考エントリ>
『天皇という文化』
http://ryotaroneko.ti-da.net/e3892769.html
日本側の俳優もベテラン揃いで中々の名演技だったと思う。
個人的には
夏八木勲の関屋貞三郎 、
伊武雅刀の木戸幸一 が印象に残った。
それと
西田敏行が意外にも英語の発音はうまかったのに感心した。
ボナーズ准将の元恋人アヤとの悲恋の物語を描きながら、
日本人の死生観や武士道精神などを語りながらドラマが進んでいく。
正直この演出は、個人的に蛇足な感じはしたのだが・・・
ひとつだけ配役で不満があるのだが、
火野正平の東條英機は、痩せ過ぎで貫禄がなかったなあ・・・
あれはミス・キャスティングだと思った。
この映画は感動の名作というものではないが、
占領軍であるアメリカ側から見た大東亜戦争観が、
日教組や左翼などの歴史観とは異なっている点興味深い。