てぃーだブログ › トラネコ日記 › 社会 › 美術 › 小山田圭吾問題からみる人格と芸術性の関係について

小山田圭吾問題からみる人格と芸術性の関係について

2021年07月23日

「CD全部捨てた」「作品に罪はない」 小山田圭吾いじめ問題で揺れるファンの思い
東京五輪・パラリンピック開会式の楽曲担当を任されるも、辞意を表明した小山田圭吾氏(52)の「いじめインタビュー問題」をめぐり、ツイッター上ではこんな書き込みがみられている。ロックバンド「フリッパーズ・ギター」のメンバーとして一時代を築き、ソロ活動「コーネリアス」が世界的な人気を獲得してきた小山田氏。その音楽性やカリスマ性にとりつかれたファンも少なくない。

 音楽か、人格か――。ファンの思いは揺れている。


■当初は「渋谷系オリンピック」と指摘も...
小山田氏は1989年、小沢健二さんらとバンド「フリッパーズ・ギター」でデビュー。90年には、ドラマ主題歌にも起用された「恋とマシンガン」がヒットした。91年にバンドを解散し、94年からはソロユニット「コーネリアス」で活動を続けている。
<中略>
しかし、同時に小山田氏の過去の「いじめ問題」が俎上にのる。雑誌「ROCKIN'ON JAPAN 94年1月号」(ロッキング・オン)、「クイック・ジャパン 95年8月号」(太田出版)の記事で、障害のある同級生に対する、苛烈ないじめの過去を明かしていた、というものだ。

「人格」と「作品」は別物か...
雑誌の内容を知ったツイッターユーザーからは「吐きそうになるほど酷い」「怒りがおさまらない」「こんなのオリパラの作曲させるのか...」と批判の声が集まった。

ツイッター上の音楽ファンの間でも、こんな声が聞かれた。

「フリッパーズもコーネリアスもCD全部捨てた」
  「(雑誌特集を後年知り)あんな人間の作った音楽を少しでも良いと思ってしまった自分を恥じました。あそこまでいくと、音楽と人格を分けて考えることはできない」

 
ただ、音楽ファンの中には複雑な思いを抱く人もいたようだ。

  「過去に何があろうとも、コーネリアスの音楽性は素晴らしい」
  「フリッパーズギターもコーネリアスも好きだよ。その人の人格と仕事(功績)は別物」
  「作品に罪はない」

 
当時、一連の記事が雑誌に掲載された後も、小山田氏はコーネリアス名義で活動を継続。グラストンベリー・フェスティバル(イギリス)、コーチェラ・フェスティバル(アメリカ)といった海外の著名な音楽フェスに出演し、世界的にも高い音楽評価を獲得した。
<中略>
当時の雑誌記事は、今回の小山田氏の起用以前から、インターネット上の音楽ファンには知られた存在だった。ただ、今回のように表立って問題視されることはなかった。

謝罪にバンドメンバーは「偉いよ小山田くん。受け止める」
批判の声がやまない中、小山田氏は16日にコーネリアスの公式ツイッターを更新。一連の雑誌については「事実と異なる内容も多く記載されている」としつつ、「(一連の発言や行為を)反省することなく語っていたことは事実」「(いじめを行った本人に)受け入れてもらえるのであれば、直接謝罪をしたい」などと語った。

小山田氏は「私が傷付けてしまったクラスメイトご本人へはもちろんのこと、長年の私の不誠実な態度により、不信感や不快感を与えてきてしまったファンの皆様や友人たち、関係者の皆様に、心からお詫び申し上げます」と謝罪。開会式の音楽制作については「依頼を辞退すべきだったのかもしれません」としつつ、辞意は否定していた。
<中略>
この度の東京2020オリンピック・パラリンピック大会における私の楽曲参加につきまして、私がご依頼をお受けしたことは、様々な方への配慮に欠けていたと痛感しております。関係各社にて調整をさせて頂き、組織委員会の皆様への辞任の申し出をさせて頂きました。皆様より頂きましたご指摘、ご意見を真摯に受け止め、感謝申し上げると共に、これからの行動や考え方へと反映させていただきたいと思っております。この度は、誠に申し訳ございませんでした。
J-Cast News 7/20(火)
https://news.yahoo.co.jp/articles/e44d26260761c3b1125223bd9c1e1782a85dbb00?
https://news.yahoo.co.jp/articles/e44d26260761c3b1125223bd9c1e1782a85dbb00?page=2
https://news.yahoo.co.jp/articles/e44d26260761c3b1125223bd9c1e1782a85dbb00?page=3


小山田圭吾問題からみる人格と芸術性の関係について

                      小山田圭吾氏の謝罪文


今回の東京五輪の音楽担当だった小山田圭吾が過去の雑誌記事の中で、
学生時代のイジメを自慢告白していたことが暴露されてネットで大炎上した。
これを受けて小山田氏は謝罪と辞任を表明した。

この事について、小山田氏の十代の頃の障碍者に対する異常なイジメは、
どんな言い訳も通用しないし、ある意味凶悪「犯罪」ですらあるが、
問題は彼が成人した後もイジメ体験を誇らしげに雑誌に語ったことだ。

人間は過ちを犯すものである。

時として取り返しの付かない過ちだってする可能性は誰にでもある。
未成年期なら尚更である。しかし問題はその過ちへの真摯で誠実な反省と、
それに裏打ちされたその後の言動や生き方である
。これが大事であると思う。

過去に凶悪犯罪を犯した者でも、心から反省し被害者に誠実に謝罪し、
その後の人生を真面目に生きている者なら、仮に殺人を犯した者でも、
それは許されると私は考ている。


小山田圭吾問題からみる人格と芸術性の関係について



小山田氏も雑誌のインタビューで「あの頃は子供とはいえ本当に悪い事をして、
できれば加害者に謝罪したいと考えている。」
という発言ならば問題なかった。
しかしあのおぞましいイジメを楽しそうに語る神経は反省とは程遠い。
さらに「月刊カドカワ」でもイジメ自慢をしているからよほど楽しかったのだろう。

しかも今回指摘を受けてから、慌てて謝罪文、五輪音楽担当辞任を言い出した。
つまりこの事をもってしても、53歳の今日までイジメの反省はしていないといえるのだ。
これが世間から非難の炎上を受ける理由である。

  同じ芸能界から彼を擁護する声もあるようだが、
  こういう経緯を見て行くと、私なら弁護はできない。
  単純に過去の済んだ話では片づけられないのだ。



小山田圭吾問題からみる人格と芸術性の関係について



さてここから本題。


小山田氏は世界的な有名ミュージシャンだという。
私は知らなかったのだが、ファンも多く根強い人気のある音楽家だそうだ。
だから彼の作曲した音楽もそれなりに芸術的価値があるのだろう。

私は芸術作品において作者の人格と作品の芸術性は別ものだと考えている。
芸術表現の良し悪しと人格の高潔、低劣とは別の問題だからである。
ただ一口に芸術表現の良し悪しの基準や定義を言うのは難しい。

今回の芸術的価値は一般大衆に受け入れられたかどうかという観点で見ると、
小山田氏の音楽を聞いた事はないが、好みにもよるが素晴らしいのであろう。
それはそれでよいし作品の芸術性は評価されてよいと思う。

芸術の世界だけでなく、天才と呼ばれる科学者や発明家のなかにも、
その仕事の質の高さに反して人格的にかなり問題のある人は、
古今東西決して少なくない
と思う。


小山田圭吾問題からみる人格と芸術性の関係について

          天才科学者アインシュタインも相当変人だったらしい。


例えば芸術家でいえば・・・

ルネサンス美術のミケランジェロは偏屈かつ傲慢不遜な人、
修道僧画家のフィリッポリッピは女癖が悪く修道女を妊娠させた、
ゴッホも変人で自分の耳をゴーギャンに送り、最後はピストル自殺。

浄土真宗の開祖親鸞は修行僧時代は飲む打つ買うの三拍子、
葛飾北斎はゴミ屋敷系住人で、住めなくなって引っ越し百回以上、
河鍋暁斎は反骨精神の塊で、若いころは誰彼構わぬ喧嘩の絶えない人。

音楽ではモーツワルトは変人というより異常なスカトロ変態、
ドゥビッシーは金と女にだらしなく、無愛想で誰構わず罵倒する傲慢さ、
ワーグナーも借金癖があり返さない、ライバルは汚い手を使ってでも蹴落とした。


・・・とまあ、思いつくまま書いたがこれはほんの一部w


小山田圭吾問題からみる人格と芸術性の関係について

               天才モーツァルトが書いたラブレターの和訳
              小山田氏とは違った意味でのスカトロ趣味




昔から「天才とキチガイは紙一重」とかいわれるが、
常人の精神をもっていないから破天荒な発想や言動が飛び出し、
一種の異常性があるから誰も考えなかった芸術が生み出されたのだ。

見方を変えると、こういう人物は世に認められたから天才と評価されるが、
そうでなければただの非常識、悪くいえばキチガイ、人格破綻者で終わっていた。
世に認められた者はほんの一部で、大多数は変人・奇人として人生を終えたと思う。

ここで問題なのは、こういう奇人、変人の作品や仕事が、
芸術的に評価され世間に受け入れられるかは別の話であるが、
少なくとも小山田圭吾氏の作品は世間に受け入れられてきたのである。


小山田圭吾問題からみる人格と芸術性の関係について



だから世界的なミュージシャンになれたのであり成功者なのだ。
ここでも芸術家の人格と芸術性は別物ということが証明されたのである。
人格破綻者の作品も芸術的に破綻しているなら評価はされないからだ。

いや、言い直そう・・・

芸術的に破綻しても商業的に成功する場合はある。
ここが芸術的価値と市場(商業的)価値の違うところである。
商業的価値はプロデュースの方法や宣伝に負う部分が大きいからだ。

その証拠に、彼の異常なイジメの加害経験告白を拡散されたことから、
彼の作品は聞きたくないというのは、作品評価とは別の話である。
商業的成功は、芸術的価値以外の付随的要素も絡むのである。

<関連エントリ>
芸術的価値と市場的価値
https://ryotaroneko.ti-da.net/e2106866.html


ということで・・・

 せっかく世間的に名声を得る成功者になっても、
 やはり一定の常識と良識感覚は必要であり、
 それが欠如すれば命取りになるのである。


 劣化したとはいえ我ら日本人も
 最低までは堕ちていなかったな・・・




小山田圭吾問題からみる人格と芸術性の関係について









同じカテゴリー(社会)の記事

Posted by トラネコ at 00:00│Comments(9)社会美術
この記事へのコメント
芸術や芸能の分野で名を残した人物の、人格や私生活が破綻していることは多々ありますが、聴衆とて「人格者」揃いではありません。人の世の常として、裁く者の手も汚れています。
Posted by NTRC特撮軍団長・ヤラセロウ大元帥 at 2021年07月23日 02:27
NTRC特撮軍団長・ヤラセロウ大元帥様
同意です。
まあ、商業ビジネスの世界では人格も関係ないですからね。
ただ何事も常識の範囲を越えれば叩かれるのは常ですから、芸能人も人格者である必要はないありませんが、一般大衆を相手に商売するなら常識感覚は必要ですね。
Posted by トラネコトラネコ at 2021年07月23日 22:48
僕も同じことを考えてこの記事に行き当たりました。

僕が考えた結論です。
①芸術は誰かに見られて初めて価値が生まれる。
②聞きたいと思って聞くのと聞きたくないと思って聞くのではその音楽の価値が変わってくる。

以上の観点から芸術の価値というのは作者の人格というものも価値に含まれてくるのではないかと思いました。

また、本当にこの世界に必要とされる音楽を作っている方であれば、必ず誰かが蜘蛛の糸を垂らしてくれると僕は思っています。お天道様は見ているってことですね。
Posted by そねみ at 2021年07月26日 23:05
そねみ様
同意です。
仰る通りですね。
まず①と②を要約しますと、作品の評価は自己評価以外はすべて他人がするものであり、それは相対的なものであるということ、つまり評価はすべて各人の主観が行うものです。 さらに芸術作品の場合は、芸術的価値は美術評論家や研究者が行い、市場的価値は一般大衆が行うというものです。もちろんこれも主観が左右します。

ご指摘のように作品を生み出す作者の人格は必ず作品に投影されます。しかしそれをどう評価するかは他人が行い、もし大衆が評価すれば市場的価値があり、「売れる」ことになるのです。エントリにも述べましたが、偉大な芸術家には人格破綻者が少なくないのは、やはり凡人の発想とは全く異なった観点があるからといことですね。

ただ素晴らしい芸術を残した作家が必ずしも評価されるかどうかはわからないと思います。例えば田中一村という孤高の画家は亡くなってから評価されましたが、実に素晴らしい作品を残しています。しかし彼みたいな作家は稀であり、同時に彼のような無名のまま埋もれている作家は他に沢山いると思います。仰る通り必ずお天道様が見つけて下さるのを期待したいですが・・・
Posted by トラネコトラネコ at 2021年07月26日 23:53
作った作品、音楽、絵画、色んな作品とそれを作り出した人間性は切り離すべきてのは、ある意味そうかしれません。普通の美しさや良心的な美を求めてる?普通の人には、弱者を笑い者にしたり、低俗な笑いは、昔からですよ。それを、普通の人は、スルーと言うか問題にもしないんですよ。どうせテレビの低俗な番組の中での
話だから、私には関係ないから。そんな、低俗なんを使うから、涌き出た不祥事でしょ。
Posted by うさこ at 2021年07月28日 22:34
うさこ様
弱い者イジメというのはある種の歪んだ優越感だと思います。
これは若年層や民度の低い民族に顕著な傾向ですが、精神的に成熟し、或いは民度が向上するにつれて減少していくものです。という事は今の日本はまだまだ成熟した民度になっていないということですね。
Posted by トラネコトラネコ at 2021年07月28日 22:56
昨日のコメントは言葉足らずの面が、あって再度コメですが、もう、なん十年前からテレビでは、私の知る限りですが、弱いもの苛めを笑いのネタにしてる番組多かったです。一応売れてる芸人が売れない芸人にこれでもかって言う程でも苛められてる芸人はお金の為や注目集めたらいいかもの範疇かですが私はなにが面白い?
でした。良識あって、醜いモノを見たくないは当たり前のセンス。増してや、普通に生きたいと思ってる障害者に、わざわざ、健常者が生きにくくするなんて言語道断です。若い奴が、世の中の偽善と綺麗事言う欺瞞に敢えて、露悪的に言うのは若げのいたりかもですが。いつまでも、子供的なハッタリで済む話でもなく。大人として、人の為に生きなくてはなぁて思いにいたらないなんてね。
Posted by うさこ at 2021年07月29日 18:47
うさこ様
>弱いもの苛めを笑いのネタにしてる番組多かったです。
大阪の笑いの大御所である吉本新喜劇がそうですね。
人の身体的欠陥というのかハゲ、チビ、デブ、ブス・・・などを笑いのネタにしています。これもある意味弱者いじめであり、差別の部類に入る行為ではないかと思います。ご指摘のように売れない芸人が自虐的にこれを笑いネタにする場合もあります。

ただ見方によれば、身体的弱点も堂々と笑いに変えるくらいおおらかだともいえるでしょうが、これが大衆演劇で一般公開されている状況では不快に感じる人もいるのではないか? まあこの辺は地域性というか県民性もあるので、一般論的に論じることは難しいのかもしれませんが、これからの時代はそれを受け入れてくれるでしょうか…
Posted by トラネコトラネコ at 2021年07月29日 23:44
昔の仕事場に吉本芸人の方が何人か、お店にお越し下さって、○○のナニさんですね?て言ったら、そうです❗見てくれてはるんですね、名前まで覚えてくれてはって。嬉しいです。でした。御本人の弱点を売りにしてて、言うていいもんかどうかな?でしたが。それから1回しかお会いしてないのに、駅で会ったら、今、お仕事帰りですか?てフレンドリーに挨拶して頂いて、びっくりしました。大阪ですね✨
Posted by うさこ at 2021年07月30日 18:38
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。