日本の伝統画法にない立体感と遠近法
2008年07月24日
先日私がしばしば投稿させて頂いている縄文塾通信の主催者の中村塾長から、
「日本の伝統絵画には西洋的な遠近法やモノの立体感の表現がない。」
という話がでた。
これは日本人のものの観方についての話の中の一部に出た話である。
正直このことをじっくり考えたことがなかったので、
はて何故なんだろう?と考えることにした。
15世紀頃からキリスト教の社会的影響が薄れ、ベネチア商人のアジア交易で経済力と
イスラム圏からの科学知識の輸入で西洋の科学も自由に発展した。
透視図法はその頃のルネッサンス時代に確立された。
それは科学的な自然界の観察から出た合理主義的視点であると同時に、
三次元空間をいかにして二次元空間へ置換するかという工夫であった。
そのためにはどうしても透視図法的な手法が絵画表現に必要だったのだろう。
それ以前の中世キリスト教美術では遠近法は画面上の上下で上に描くものが遠景、下に描くものが近景として表現した。人物の立体感も殆ど表現されていない。
キリスト教美術の絵画はキリスト教の教えを文盲の民衆に教え広める手段であった。
だから話の内容がわかればいいのである。
またルネッサンス時代でもボッティチェルリなどは、まだ透視図法も空気遠近法もあまり使っていないし、日本画同様の輪郭線も見られる。
さらに西洋絵画は現在の写真的役割も大きかったと思う。
このコンセプトは19世紀のパリ万博に日本美術が出品されるまで続いた。
14世紀のタペストリー「湯浴み」
確かに伝統的な日本絵画には西洋画の透視図法や立体表現がない。
なぜか?
日本の絵画は自然界を客観的かつ合理的にとらえようとはしなかったからだ。
別に三次元空間を二次元に再現する必要性も感じなかった。
それよりも、もっと重要な表現が日本絵画の課題としてあったのだ。
私は日本の絵画制作のコンセプトは三つあると推測してみた。
一つは、現象を思想的または哲学的にとらえようとしたのではないか。
つまり対象の内部にある精神性を表現することのほうが重要だったのだ。
だから人物画でも静物画でも、また風景画においても対象の立体感・遠近感より、
対象の本質に迫る表現ほうが優先されるのだ。
現実に客観的に見える形よりも、精神の奥底で感じる形を重視したのである。

長谷川等伯 松林図屏風
同時にその表現は西洋的な科学的視野ではなく、ある意味の文学性とリンクしている。
文学性の表現とは、一種の比喩表現である。直接的、即物的表現を避けて、
現実の形の客観的写生よりも形の象徴化、もしくは意匠化である。
例えば狩野派の形式化された松とか岩のフォルムや、美人画の顔の表現などにステレオタイプな表現がその典型である。

藤原隆信 伝源頼朝像
二つ目は対象の形態や構図の面白さの表現の追及だ。
織部焼きの「へうげもの」などを好む日本人的美意識は、
整然と決まりきった形式美よりも、常識や形式から逸脱したものに
むしろ美を感じる感性がある。
アンバランスや強調、省略に美を感じる意匠感覚である。
自然界の造形にカミの造形美を知覚する感性があったのではないだろうか。
北斎の富嶽三十六景や歌川広重の江戸名所図会などはこれではないだろうか。
富士山をさまざまな角度から観察し、各地の風景の特徴や人びとの暮らしなどに視点をあてながら構図や造形美を追求したのではないだろうかと思う。
これらの大胆な構図や色面構成的形態がのちの西洋の印象派に多大な影響を与えたのだ。
もっとも江戸時代は長崎から西洋の遠近法その他が入ってきているので、
このころはそれを応用した絵も登場している。

葛飾北斎 富嶽三十六景「東都浅草本願寺」
三つ目は説明図的なパノラマ絵画としてとらえたのではないか。
合戦図や洛中洛外図などの鳥瞰図系の絵画である。
これらの俯瞰図、鳥瞰図にも遠近感はない。
しかし鳥瞰図的パノラマ絵画は次のように想像して見るとわかり易い。
たとえば我々がパラグライダーに乗って、低空飛行で地上のさまざまな場所を、
這い回るように観察しながら飛び、場所の面白さや人々の風俗の様子を丹念に表現しながら、そこから見えた部分と部分を繋ぎ合わせた絵が鳥瞰構図の絵なのだ。
西洋画のように広大な景色を統合的に表現したものではない。
西洋画の鳥瞰図は高高度から対象の風景全体を見たものだ。

洛中洛外図屏風
付け加えておくが、日本の絵画には西洋的な遠近法はなかった。
しかし逆遠近法という文学性を重視する意味での遠近法はあった。
これは日本人が西洋的な透視図法の見え方がわかっていて、
あえて逆手にとった手法である。
日本人が透視図法的な感じ方を認知しなかったわけではない。
以上の私の独断的日本絵画の表現思想は、
次の理由で西洋的遠近法や立体感表現を取り入れなかった。
西洋の人間と自然との対立的な思想概念と
日本人の自然と人間の融合、共存的概念の違いから、
絵画表現の方法にも表れてきたものではないかと思う。
賢明なる諸氏のご意見を拝聴したい。
「日本の伝統絵画には西洋的な遠近法やモノの立体感の表現がない。」
という話がでた。
これは日本人のものの観方についての話の中の一部に出た話である。
正直このことをじっくり考えたことがなかったので、
はて何故なんだろう?と考えることにした。
15世紀頃からキリスト教の社会的影響が薄れ、ベネチア商人のアジア交易で経済力と
イスラム圏からの科学知識の輸入で西洋の科学も自由に発展した。
透視図法はその頃のルネッサンス時代に確立された。
それは科学的な自然界の観察から出た合理主義的視点であると同時に、
三次元空間をいかにして二次元空間へ置換するかという工夫であった。
そのためにはどうしても透視図法的な手法が絵画表現に必要だったのだろう。
それ以前の中世キリスト教美術では遠近法は画面上の上下で上に描くものが遠景、下に描くものが近景として表現した。人物の立体感も殆ど表現されていない。キリスト教美術の絵画はキリスト教の教えを文盲の民衆に教え広める手段であった。
だから話の内容がわかればいいのである。
またルネッサンス時代でもボッティチェルリなどは、まだ透視図法も空気遠近法もあまり使っていないし、日本画同様の輪郭線も見られる。
さらに西洋絵画は現在の写真的役割も大きかったと思う。
このコンセプトは19世紀のパリ万博に日本美術が出品されるまで続いた。
14世紀のタペストリー「湯浴み」
確かに伝統的な日本絵画には西洋画の透視図法や立体表現がない。
なぜか?
日本の絵画は自然界を客観的かつ合理的にとらえようとはしなかったからだ。
別に三次元空間を二次元に再現する必要性も感じなかった。
それよりも、もっと重要な表現が日本絵画の課題としてあったのだ。
私は日本の絵画制作のコンセプトは三つあると推測してみた。
一つは、現象を思想的または哲学的にとらえようとしたのではないか。
つまり対象の内部にある精神性を表現することのほうが重要だったのだ。
だから人物画でも静物画でも、また風景画においても対象の立体感・遠近感より、
対象の本質に迫る表現ほうが優先されるのだ。
現実に客観的に見える形よりも、精神の奥底で感じる形を重視したのである。

長谷川等伯 松林図屏風
同時にその表現は西洋的な科学的視野ではなく、ある意味の文学性とリンクしている。
文学性の表現とは、一種の比喩表現である。直接的、即物的表現を避けて、
現実の形の客観的写生よりも形の象徴化、もしくは意匠化である。
例えば狩野派の形式化された松とか岩のフォルムや、美人画の顔の表現などにステレオタイプな表現がその典型である。

藤原隆信 伝源頼朝像
二つ目は対象の形態や構図の面白さの表現の追及だ。
織部焼きの「へうげもの」などを好む日本人的美意識は、
整然と決まりきった形式美よりも、常識や形式から逸脱したものに
むしろ美を感じる感性がある。
アンバランスや強調、省略に美を感じる意匠感覚である。
自然界の造形にカミの造形美を知覚する感性があったのではないだろうか。
北斎の富嶽三十六景や歌川広重の江戸名所図会などはこれではないだろうか。
富士山をさまざまな角度から観察し、各地の風景の特徴や人びとの暮らしなどに視点をあてながら構図や造形美を追求したのではないだろうかと思う。
これらの大胆な構図や色面構成的形態がのちの西洋の印象派に多大な影響を与えたのだ。
もっとも江戸時代は長崎から西洋の遠近法その他が入ってきているので、
このころはそれを応用した絵も登場している。

葛飾北斎 富嶽三十六景「東都浅草本願寺」
三つ目は説明図的なパノラマ絵画としてとらえたのではないか。
合戦図や洛中洛外図などの鳥瞰図系の絵画である。
これらの俯瞰図、鳥瞰図にも遠近感はない。
しかし鳥瞰図的パノラマ絵画は次のように想像して見るとわかり易い。
たとえば我々がパラグライダーに乗って、低空飛行で地上のさまざまな場所を、
這い回るように観察しながら飛び、場所の面白さや人々の風俗の様子を丹念に表現しながら、そこから見えた部分と部分を繋ぎ合わせた絵が鳥瞰構図の絵なのだ。
西洋画のように広大な景色を統合的に表現したものではない。
西洋画の鳥瞰図は高高度から対象の風景全体を見たものだ。

洛中洛外図屏風
付け加えておくが、日本の絵画には西洋的な遠近法はなかった。
しかし逆遠近法という文学性を重視する意味での遠近法はあった。
これは日本人が西洋的な透視図法の見え方がわかっていて、
あえて逆手にとった手法である。
日本人が透視図法的な感じ方を認知しなかったわけではない。
以上の私の独断的日本絵画の表現思想は、
次の理由で西洋的遠近法や立体感表現を取り入れなかった。
西洋の人間と自然との対立的な思想概念と
日本人の自然と人間の融合、共存的概念の違いから、
絵画表現の方法にも表れてきたものではないかと思う。
賢明なる諸氏のご意見を拝聴したい。
自由主義神学
2008年07月23日
冷戦終了後の1990年頃から「第ニ次」民族自決時代が始まった、と私は見ている。
これはかつての帝国主義時代の植民地独立運動とはちがい、
東西冷戦の資本主義vs共産主義イデオロギー対立がソ連の崩壊カラ終焉し、
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教同士の対立構図が
世界的に顕著になったことだ。ここでは民族主義=原理宗教であり、
かつてのイデオロギーが宗教にとってかわった。
その一神教もいわゆる原理主義が問題である。
原理主義とはたとえばキリスト教では聖書の一字一句すべてを
言葉通りに信じて疑わない頑なな非妥協の信仰心である。
16世紀のマルチン・ルッターの宗教改革以降、
改革派はカトリックに抵抗するという意味でプロテスタントと呼ばれた。
プロテスタントの教会宗派は何百派閥にも分裂し、
ニューヨークだけでも約200以上の教会宗派があるらしい。
さて前置きが長くなったが、自由主義神学が宗教改革以降、
自然科学の発展とともにキリスト教のなかにも表れ始めた。
自由主義神学とは、カトリックの教条的聖書解釈ではなく、
プロテスタント側の新しい聖書解釈で、
必ずしも聖書に記述されていることがすべて正しいという立場はとらない。
たとえば旧約聖書の記述にある特殊天地創造説やノアの箱舟やバベルの塔、さらにはマリアの処女懐妊などは事実ではなく、聖書に描かれた寓意的な文学的解釈としている。
だから彼らは進化論をも受け入れている。
特に19世紀のドイツ近代神学の父と呼ばれるシュライエルマッハーは、
聖書の研究を通して聖書の成立は、
それより以前の西アジアの神話や伝承を基盤に成立し、聖書編纂には多くの聖書記者の存在があり、
決して神が直接関与して成立したものではないと主張した。
これは当時としては驚愕の主張である。
ある意味キリスト教の基盤をなす聖書を否定しているとも受け取られるからだ。神学者によってはシュライエルマッハーや自由主義神学は、キリスト教ではないとさえ、言い切るのだ。
シュライエルマッハー
しかしこのあたりがさすがドイツ人だなあ、と思う。
実際ガリレオやコペルニクスなどの地球中心主義否定論も
事実を冷静に観察すれば認めざるをえないのだ。
同じくメンデルの遺伝の法則も、ダーウィンの進化論も、
客観的事実を繋ぎあわせると、どうしても聖書の説明では無理が生じるのだ。
またインマニュエル・カントは三十年戦争を考察して、
「どんなに偉大な宗教でも、所詮は個人の問題に過ぎない。」と喝破している。
これも当時としてはすごい主張であり、真理を付いている。
宗教で国家間が戦争するなどアホのやることだと言ってるのだ。
しかし21世紀の現代でもアホは絶えず繁殖し続けている。
しかし新たなプロテスタント教会には自由主義神学に反発して、
キリスト教原理主義のプロテスタント教会も多数発生している。
アメリカでは自由主義神学系の教会は減少傾向にあり、
むしろ原理主義の教会のほうが急増しているという。
ブッシュ大統領の強力な支持基盤のクリスチャン・コアリションも原理主義教会である。
このことがアメリカをして、もともと原理主義的傾向の強いイスラムとの対立を
激化させているのではないだろうか。原理主義は非妥協、非寛容の思想である。
原理主義を信仰する人間が増えれば、戦争も増える。
いつまでたっても人間そのものは進歩しないものである。
自由主義神学はある意味、
絶対的な宗教的価値観を相対化した革命的神学だともいえる。
しかし時代は繰り返すの言葉通りではないが、良きつけ悪しきにつけ、
人類は再び昔に回帰するものなのかもしれない。
これはかつての帝国主義時代の植民地独立運動とはちがい、
東西冷戦の資本主義vs共産主義イデオロギー対立がソ連の崩壊カラ終焉し、
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教同士の対立構図が
世界的に顕著になったことだ。ここでは民族主義=原理宗教であり、
かつてのイデオロギーが宗教にとってかわった。
その一神教もいわゆる原理主義が問題である。
原理主義とはたとえばキリスト教では聖書の一字一句すべてを
言葉通りに信じて疑わない頑なな非妥協の信仰心である。
16世紀のマルチン・ルッターの宗教改革以降、
改革派はカトリックに抵抗するという意味でプロテスタントと呼ばれた。
プロテスタントの教会宗派は何百派閥にも分裂し、
ニューヨークだけでも約200以上の教会宗派があるらしい。
さて前置きが長くなったが、自由主義神学が宗教改革以降、
自然科学の発展とともにキリスト教のなかにも表れ始めた。
自由主義神学とは、カトリックの教条的聖書解釈ではなく、
プロテスタント側の新しい聖書解釈で、
必ずしも聖書に記述されていることがすべて正しいという立場はとらない。
たとえば旧約聖書の記述にある特殊天地創造説やノアの箱舟やバベルの塔、さらにはマリアの処女懐妊などは事実ではなく、聖書に描かれた寓意的な文学的解釈としている。
だから彼らは進化論をも受け入れている。
特に19世紀のドイツ近代神学の父と呼ばれるシュライエルマッハーは、聖書の研究を通して聖書の成立は、
それより以前の西アジアの神話や伝承を基盤に成立し、聖書編纂には多くの聖書記者の存在があり、
決して神が直接関与して成立したものではないと主張した。
これは当時としては驚愕の主張である。
ある意味キリスト教の基盤をなす聖書を否定しているとも受け取られるからだ。神学者によってはシュライエルマッハーや自由主義神学は、キリスト教ではないとさえ、言い切るのだ。
シュライエルマッハー
しかしこのあたりがさすがドイツ人だなあ、と思う。
実際ガリレオやコペルニクスなどの地球中心主義否定論も
事実を冷静に観察すれば認めざるをえないのだ。
同じくメンデルの遺伝の法則も、ダーウィンの進化論も、
客観的事実を繋ぎあわせると、どうしても聖書の説明では無理が生じるのだ。
またインマニュエル・カントは三十年戦争を考察して、
「どんなに偉大な宗教でも、所詮は個人の問題に過ぎない。」と喝破している。
これも当時としてはすごい主張であり、真理を付いている。
宗教で国家間が戦争するなどアホのやることだと言ってるのだ。
しかし21世紀の現代でもアホは絶えず繁殖し続けている。
しかし新たなプロテスタント教会には自由主義神学に反発して、
キリスト教原理主義のプロテスタント教会も多数発生している。
アメリカでは自由主義神学系の教会は減少傾向にあり、
むしろ原理主義の教会のほうが急増しているという。
ブッシュ大統領の強力な支持基盤のクリスチャン・コアリションも原理主義教会である。
このことがアメリカをして、もともと原理主義的傾向の強いイスラムとの対立を
激化させているのではないだろうか。原理主義は非妥協、非寛容の思想である。
原理主義を信仰する人間が増えれば、戦争も増える。
いつまでたっても人間そのものは進歩しないものである。
自由主義神学はある意味、
絶対的な宗教的価値観を相対化した革命的神学だともいえる。
しかし時代は繰り返すの言葉通りではないが、良きつけ悪しきにつけ、
人類は再び昔に回帰するものなのかもしれない。
真言密教とマーフィーの法則
2008年07月22日
前回真言密教をオカルト教団と書いたが、決して侮蔑や非難めいた表現でないこと、
またその意志が私にはないことを改めて断っておく。誤解なきようお願いする。
今日はこの真言密教の教義がJ・マーフィーやN・ヒル、
カーネギーやW・ワトルズなど古今の成功哲学の理論の
バックボーンと酷似していることを述べたい。
真言密教の教義はとても難解かつ複雑である。
誤解を恐れずに要約していくが、
専門家ではないので誤りは指摘されれば、
改めることはやぶさかではない。
真言密教の真髄は大日如来である。
大日如来というのは象徴的な比喩であって、大宇宙の根本原理のことである。
マーフィー流にいうと大宇宙の潜在意識であり、ワトルズ流にいうと思考する根本物質と言ってもよい。さらにキリスト教流にいうと神でもあり、ヒンドゥー教では梵天(ブラーフマン)である。
我々一人ひとりも動物、植物、山川草木、この世の一切の現象が、
大日如来の形を変えた顕現であるという(山川草木悉皆成仏)。
つまりこの世の一切のものは大日如来の意識で繋がっており、
決して個々に存在はしていないのだ。
密教曼荼羅は大日如来を中心に数百の仏が配置されているが、そのすべての仏は大日如来の働きを象徴した化身である。
密教の修行は大宇宙の根本原理である大日如来と一体化することである。
言い換えれば大宇宙意識との一体化、自他一如である。
それによって煩悩と輪廻の輪を断ち切り永遠絶対の悟りの境地に入るのである。
そのために三密加持という修行をするが、三密とは身口意(しんくい)意識、言葉、体を大日如来と一体化させる修行法である。
つまり全身全霊をもって大日如来になりきるのである。
さらに三密加持に関連して、空海は音声波動を重視している。「声字実相義(しょうじじっそうぎ)」という著書によると、
人が声を発するときそれは何らかの意志や意味をこめた言葉である。
声という音声の波動はその発した人間の意志をもって空間に広がる。
これが波動として同調するものに伝わり、さらには同調する他者の波動を
自分にもひきつけるのである。
つまり良い意識で語られる言葉の波動は、良いものと通じあい引き寄せる。
悪い意識を持って語られる言葉は、悪いものに通じ引き寄せる。
これは成功哲学でいう「引き寄せの法則」の原理と同じである。
こうして見てくると、空海の真言密教の内容はほとんど成功哲学や
ニューソート運動家の主張と一致していることに気がつくだろう。
異論は百も承知の上だが、少なくとも私はそう思う。
そして私はこう思う。
古今東西の偉大な宗教家や思想家の考えは、
時代や民族の表現こそ違えども、
その基本内容はすべて同じこと
を言っているのではないか。
先回に成功哲学と仏教について同じことを書いたが、
そう考えざるを得ないではないか。またそう考えるほうが、
空しい戦争や宗教対立を引き起こさずに、
人類共存できるのではないだろうか?
またその意志が私にはないことを改めて断っておく。誤解なきようお願いする。
今日はこの真言密教の教義がJ・マーフィーやN・ヒル、
カーネギーやW・ワトルズなど古今の成功哲学の理論の
バックボーンと酷似していることを述べたい。
真言密教の教義はとても難解かつ複雑である。
誤解を恐れずに要約していくが、
専門家ではないので誤りは指摘されれば、
改めることはやぶさかではない。
真言密教の真髄は大日如来である。
大日如来というのは象徴的な比喩であって、大宇宙の根本原理のことである。マーフィー流にいうと大宇宙の潜在意識であり、ワトルズ流にいうと思考する根本物質と言ってもよい。さらにキリスト教流にいうと神でもあり、ヒンドゥー教では梵天(ブラーフマン)である。
我々一人ひとりも動物、植物、山川草木、この世の一切の現象が、
大日如来の形を変えた顕現であるという(山川草木悉皆成仏)。
つまりこの世の一切のものは大日如来の意識で繋がっており、
決して個々に存在はしていないのだ。
密教曼荼羅は大日如来を中心に数百の仏が配置されているが、そのすべての仏は大日如来の働きを象徴した化身である。
密教の修行は大宇宙の根本原理である大日如来と一体化することである。
言い換えれば大宇宙意識との一体化、自他一如である。
それによって煩悩と輪廻の輪を断ち切り永遠絶対の悟りの境地に入るのである。
そのために三密加持という修行をするが、三密とは身口意(しんくい)意識、言葉、体を大日如来と一体化させる修行法である。
つまり全身全霊をもって大日如来になりきるのである。
さらに三密加持に関連して、空海は音声波動を重視している。「声字実相義(しょうじじっそうぎ)」という著書によると、
人が声を発するときそれは何らかの意志や意味をこめた言葉である。
声という音声の波動はその発した人間の意志をもって空間に広がる。
これが波動として同調するものに伝わり、さらには同調する他者の波動を
自分にもひきつけるのである。
つまり良い意識で語られる言葉の波動は、良いものと通じあい引き寄せる。
悪い意識を持って語られる言葉は、悪いものに通じ引き寄せる。
これは成功哲学でいう「引き寄せの法則」の原理と同じである。
こうして見てくると、空海の真言密教の内容はほとんど成功哲学や
ニューソート運動家の主張と一致していることに気がつくだろう。
異論は百も承知の上だが、少なくとも私はそう思う。
そして私はこう思う。
古今東西の偉大な宗教家や思想家の考えは、
時代や民族の表現こそ違えども、
その基本内容はすべて同じこと
を言っているのではないか。
先回に成功哲学と仏教について同じことを書いたが、
そう考えざるを得ないではないか。またそう考えるほうが、
空しい戦争や宗教対立を引き起こさずに、
人類共存できるのではないだろうか?
地元マスコミは冷静だね?
2008年07月22日
「中華航空機が緊急着陸エンジントラブルで那覇空港に」
20日午後8時50分ごろ、那覇空港の東約300キロの上空を飛行中の
函館発台北行きの中華航空7513便ボーイング737(乗客乗員164人)で、
機体右側にある第2エンジンが停止するトラブルが発生した。
同機は午後9時半過ぎに那覇空港に緊急着陸した。
乗客乗員にけがはなく、乗客は代替機に乗り換えるという。
中華航空がトラブルの原因を調べる。
産経新聞 2008.7.20 23:30
http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/080720/dst0807202328021-n1.htm
今回死傷者がなかったことは不幸中の幸いだった。
さて仮定の話だが、もし今回の緊急着陸が
民間機ではなく、米軍機だったならどうだったか?
おそらくマスコミは蜂の巣つついた如く大騒ぎだろう。
民間機が故障で民間飛行場に緊急着陸は何の問題もないが、
米軍機の緊急着陸や軽い故障が米軍基地内で起こっても、
マスコミや団体は批難の大合唱である。
「もし住宅地に墜落したら大惨事だっただろう。」
「事故の真相究明を徹底しろ。」
「事故原因がわかるまで同型機は飛ぶな。」
議会も緊急批難決議を即刻採択していただろう。
知事や自治体首長は米軍司令官に事故再発防止を申し入れるだろう。
市民団体、平和団体はデモ行進や批難集会を開くだろう。
ニュースも全国を駆け巡り、2~3日は続くだろう。
中華航空はこれまでにも幾度と無く事故や緊急着陸を繰り返してきた。
1969年から95年まで墜落事故は10件、死者829人を出している。
また墜落は免れたが、緊急着陸で事故をおこしたものは、
1985年以降大きく報じられたものでも5件ある。
1994年4月26日午後8時16分、台北発名古屋行きの中華航空140便が、
名古屋空港への着陸に失敗して滑走路脇に墜落炎上した。この事故で、
乗客・乗員の264人が死亡し7人が重傷を負う大惨事となった
昨年8月22日にも那覇空港で中華航空機が突然発火炎上した。
幸いにも死傷者は出なかった。
とにかく中華航空はこれまでにも1000人以上の死傷者を出す事故を起こしている。
いわば問題の大きい航空会社である。
しかし沖縄のマスコミは一切非難はしない。
沖縄の各自治体の首長やマスコミは米軍の時と同じく中華航空の社長に、
事故原因究明まで同型機の那覇空港乗り入れ禁止や、
飛行禁止などを申しいれたのか?
あるいは議会で非難決議したり、デモ行進、非難集会などを開くのか?
航空機事故は米軍であれ民間機であれ、必ず起きるのだ。
事実これまでも世界中で軍民関係なく事故は起きている。
同じ事故でも、否、民間機の大事故は軽い扱い、
軍用機の事故は些細な故障で基地内で起きても非難の嵐。
これが偏向報道と言うのである。
・・・ま、言うだけ空しいが、沖縄のニ大新聞とは
中華朝日や変態毎日同様、この程度のものである。
20日午後8時50分ごろ、那覇空港の東約300キロの上空を飛行中の
函館発台北行きの中華航空7513便ボーイング737(乗客乗員164人)で、
機体右側にある第2エンジンが停止するトラブルが発生した。
同機は午後9時半過ぎに那覇空港に緊急着陸した。
乗客乗員にけがはなく、乗客は代替機に乗り換えるという。
中華航空がトラブルの原因を調べる。
産経新聞 2008.7.20 23:30
http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/080720/dst0807202328021-n1.htm
今回死傷者がなかったことは不幸中の幸いだった。
さて仮定の話だが、もし今回の緊急着陸が
民間機ではなく、米軍機だったならどうだったか?
おそらくマスコミは蜂の巣つついた如く大騒ぎだろう。
民間機が故障で民間飛行場に緊急着陸は何の問題もないが、
米軍機の緊急着陸や軽い故障が米軍基地内で起こっても、
マスコミや団体は批難の大合唱である。
「もし住宅地に墜落したら大惨事だっただろう。」
「事故の真相究明を徹底しろ。」
「事故原因がわかるまで同型機は飛ぶな。」
議会も緊急批難決議を即刻採択していただろう。
知事や自治体首長は米軍司令官に事故再発防止を申し入れるだろう。
市民団体、平和団体はデモ行進や批難集会を開くだろう。
ニュースも全国を駆け巡り、2~3日は続くだろう。
中華航空はこれまでにも幾度と無く事故や緊急着陸を繰り返してきた。
1969年から95年まで墜落事故は10件、死者829人を出している。
また墜落は免れたが、緊急着陸で事故をおこしたものは、
1985年以降大きく報じられたものでも5件ある。
1994年4月26日午後8時16分、台北発名古屋行きの中華航空140便が、
名古屋空港への着陸に失敗して滑走路脇に墜落炎上した。この事故で、
乗客・乗員の264人が死亡し7人が重傷を負う大惨事となった
昨年8月22日にも那覇空港で中華航空機が突然発火炎上した。
幸いにも死傷者は出なかった。
とにかく中華航空はこれまでにも1000人以上の死傷者を出す事故を起こしている。
いわば問題の大きい航空会社である。
しかし沖縄のマスコミは一切非難はしない。
沖縄の各自治体の首長やマスコミは米軍の時と同じく中華航空の社長に、
事故原因究明まで同型機の那覇空港乗り入れ禁止や、
飛行禁止などを申しいれたのか?
あるいは議会で非難決議したり、デモ行進、非難集会などを開くのか?
航空機事故は米軍であれ民間機であれ、必ず起きるのだ。
事実これまでも世界中で軍民関係なく事故は起きている。
同じ事故でも、否、民間機の大事故は軽い扱い、
軍用機の事故は些細な故障で基地内で起きても非難の嵐。
これが偏向報道と言うのである。
・・・ま、言うだけ空しいが、沖縄のニ大新聞とは
中華朝日や変態毎日同様、この程度のものである。
日本初のオカルト教団・真言宗
2008年07月21日
794年桓武天皇の平安京遷都があった。
その理由の一つに権力団体と化した奈良仏教界から遠ざかる意図があった。
遷都の有力な説として早良親王の祟りから逃れることというのもある。
当時奈良の都・平城京は聖武天皇以来の鎮護国家思想により保護された、、
南都六宗と呼ばれる仏教勢力があった。
彼らは政治権力にも浸透し、政治の腐敗化の温床ともなっていた。
桓武天皇は平安京遷都に伴ない、新たな国家仏教として、
空海の真言宗と最澄の天台宗を迎え入れた。
さて今日のテーマである真言宗について述べる。
真言宗は天台宗と並ぶ平安仏教の一方の雄である。

弘法大師空海
真言宗は真言密教とも言い厳密に言うと、
仏教とは少し異なる宗教である。あえて誤解覚悟で断言すると、
ヒンドゥー教と仏教の混血(ハイブリッド)ということだろう。
教義の内容において南都の旧勢力との大きな違いは、
南都六宗は人間が仏になれるまでには、
三劫という気の遠くなるような天文学的時間をかけて、
輪廻転生を繰り化さなければ成仏できない、という三劫成仏説を説いたのに対し、
真言宗は生身の人間が一代で仏になれる即身成仏を説いたことである。
(空海著「即身成仏義」)
真言宗はまた、空海という天才が数多くの理論書を残しており、
いわばインドから始まる密教の集大成を日本でしたのである。
空海の密教理論は私のような凡夫には理解できない深遠なしかし、
ある意味科学理論のような精緻さがあるのが特徴だ。
空海と最澄は登場するや、奈良仏教界から批難の集中砲火を浴びた。
学究肌の最澄は終始奈良仏教界と論争に明け暮れたが、
空海は論争を仕掛けられるもほとんど無視した。
空海は理論派でもあったが、実践を重視した僧であった。
弘仁四年、嵯峨天皇は真言、天台、南都六宗、
これら八宗の高僧を宮中清涼殿に召集し各宗の根本教理を聞かれたのである。
ここに日本初の天皇主催の新旧仏教サミットが開かれたのである。
南都の各宗派の高僧たちは、相変わらず三劫成仏説を説くのに対し、
空海は密教の奥義である即身成仏を全体の場で披露したのだ。
「みんなの前で大日如来になって見せよう!」と言った。
三密加持という儀式で、手は印契を結び、頭では大日如来をイメージし、
口からは大日如来のマントラ(真言)を唱えたら、
空海は全身から神々しい光を燦燦と放つ、大日如来に変身したのだった。
嵯峨天皇も含め、一同驚愕唖然で声が出なかったという。
引田天功嬢もびっくり、最近の超魔術のさきがけである。
密教はもともと呪術的要素や魔術的儀式が多いのだが、
もちろん、これは伝説的要素が多分にあると思う。
これで空海は嵯峨天皇に重用され、政治アドバイザーにもなった。
しかし権力と結ぶものは何であれ、その期間が長ければ長いほど、
腐敗するものであることは歴史の事実である。
真言宗も空海の頃は政治に関与といっても私利私欲には走らなかったが、
空海没後の弟子達は貴族の権力闘争に、密教の加持祈祷を悪用し、
結託した貴族の政敵を怨念で呪い殺すなどというオカルト宗教に堕落する。
特に宗教と政治が結びつくのは古今東西ろくなことは無い。
南北朝時代には真言密教立川流という、
インドのタントリズムの流れを引くオカルト系セックス宗教が広がりだす。
時の俊才天皇といわれた南朝の後醍醐天皇もこれにはまってしまった。
立川流はその安易で快楽至上主義的な教義のため、
急速に全国規模で広がったが、在来の宗教勢力から邪教視され、
江戸時代初期にはほぼ全滅したといわれる。
おそらく真言密教ほど日本史の中で、はでな呪術を振りまき、
まるで現代マジックのようなパフォーマンスを演じた宗派はほかに無いだろう。
その理由の一つに権力団体と化した奈良仏教界から遠ざかる意図があった。
遷都の有力な説として早良親王の祟りから逃れることというのもある。
当時奈良の都・平城京は聖武天皇以来の鎮護国家思想により保護された、、
南都六宗と呼ばれる仏教勢力があった。
彼らは政治権力にも浸透し、政治の腐敗化の温床ともなっていた。
桓武天皇は平安京遷都に伴ない、新たな国家仏教として、
空海の真言宗と最澄の天台宗を迎え入れた。
さて今日のテーマである真言宗について述べる。
真言宗は天台宗と並ぶ平安仏教の一方の雄である。

弘法大師空海
真言宗は真言密教とも言い厳密に言うと、
仏教とは少し異なる宗教である。あえて誤解覚悟で断言すると、
ヒンドゥー教と仏教の混血(ハイブリッド)ということだろう。
教義の内容において南都の旧勢力との大きな違いは、
南都六宗は人間が仏になれるまでには、
三劫という気の遠くなるような天文学的時間をかけて、
輪廻転生を繰り化さなければ成仏できない、という三劫成仏説を説いたのに対し、
真言宗は生身の人間が一代で仏になれる即身成仏を説いたことである。
(空海著「即身成仏義」)
真言宗はまた、空海という天才が数多くの理論書を残しており、
いわばインドから始まる密教の集大成を日本でしたのである。
空海の密教理論は私のような凡夫には理解できない深遠なしかし、
ある意味科学理論のような精緻さがあるのが特徴だ。
空海と最澄は登場するや、奈良仏教界から批難の集中砲火を浴びた。
学究肌の最澄は終始奈良仏教界と論争に明け暮れたが、
空海は論争を仕掛けられるもほとんど無視した。
空海は理論派でもあったが、実践を重視した僧であった。
弘仁四年、嵯峨天皇は真言、天台、南都六宗、
これら八宗の高僧を宮中清涼殿に召集し各宗の根本教理を聞かれたのである。
ここに日本初の天皇主催の新旧仏教サミットが開かれたのである。
南都の各宗派の高僧たちは、相変わらず三劫成仏説を説くのに対し、
空海は密教の奥義である即身成仏を全体の場で披露したのだ。
「みんなの前で大日如来になって見せよう!」と言った。
三密加持という儀式で、手は印契を結び、頭では大日如来をイメージし、
口からは大日如来のマントラ(真言)を唱えたら、
空海は全身から神々しい光を燦燦と放つ、大日如来に変身したのだった。
嵯峨天皇も含め、一同驚愕唖然で声が出なかったという。
引田天功嬢もびっくり、最近の超魔術のさきがけである。
密教はもともと呪術的要素や魔術的儀式が多いのだが、
もちろん、これは伝説的要素が多分にあると思う。
これで空海は嵯峨天皇に重用され、政治アドバイザーにもなった。
しかし権力と結ぶものは何であれ、その期間が長ければ長いほど、
腐敗するものであることは歴史の事実である。
真言宗も空海の頃は政治に関与といっても私利私欲には走らなかったが、
空海没後の弟子達は貴族の権力闘争に、密教の加持祈祷を悪用し、
結託した貴族の政敵を怨念で呪い殺すなどというオカルト宗教に堕落する。
特に宗教と政治が結びつくのは古今東西ろくなことは無い。
南北朝時代には真言密教立川流という、
インドのタントリズムの流れを引くオカルト系セックス宗教が広がりだす。
時の俊才天皇といわれた南朝の後醍醐天皇もこれにはまってしまった。
立川流はその安易で快楽至上主義的な教義のため、
急速に全国規模で広がったが、在来の宗教勢力から邪教視され、
江戸時代初期にはほぼ全滅したといわれる。
おそらく真言密教ほど日本史の中で、はでな呪術を振りまき、
まるで現代マジックのようなパフォーマンスを演じた宗派はほかに無いだろう。
浄土真宗の不思議
2008年07月20日
鎌倉仏教は仏教の庶民への普及に功績があったと思う。
平安時代の仏教は貴族など特権階級の救済ばかりで、
一般庶民の宗教ではなかった。
浄土宗、浄土真宗、日蓮宗(法華宗)などが庶民に広がった。
また禅宗の臨済宗や曹洞宗は武士に広まった。
さてこの中でも一般の信仰を広く集めたのが、
親鸞聖人の浄土真宗である。
阿弥陀如来を本尊としてその慈悲にすがる他力本願の教えである。
一般に浄土宗は法然上人が開祖で浄土真宗は親鸞になっている。
しかし浄土宗も浄土真宗も教義はまったく同じである。
親鸞は法然の忠実な弟子であり、浄土宗の信者なのである。
両者の大きな違いは浄土真宗は肉食、妻帯すること、
教義にあまりこだわらず、阿弥陀如来を一心に信じることのみである。

親鸞聖人
浄土真宗は南無阿弥陀仏と念仏を唱えるだけで極楽往生するという。
しかし親鸞はそんなこと言っていないのだw
親鸞は現代的に要約すると大体、以下のように言っている。
「念仏を唱えれば、極楽往生するだって?さあ・・・どうだろうか・・・よくわからんな。
先生の法然聖人がそう言ってたから、私はそう信じているだけだ。
それがウソでもそんなの関係ない。真偽を確かめる能力は私には無いからね。
例え法然聖人に騙されていても別に悔いはないね。」
「大体私のような人間は死んだら真っ先に地獄へ堕ちる大馬鹿者である。
そんなこと百も承知さ、しかしなあ、そんな救いようのない私ですら、
阿弥陀仏の慈悲は救って下さるのだと、法然上人が仰っているのだ。
だからそれを信じているだけですが、何か?」
「教行信証」より
これを見ると親鸞は正直な人である。
ある意味実に人間的である。
彼が比叡山を下りて京都・烏丸三条六角堂に篭り、座禅三昧に入ったときに
最も苦しんだことは、修行僧の身でありながら酒や博打や女にうつつを抜かしたことだ。
今風にいえば、坊さんが飲む、打つ、買うをやっていたのだ。
もっとも今の坊さんはこんなことはごく当たり前だろうが・・・
この教行信証を読むと、正直に法然の教えを信じているだけで、
極楽往生が出来るかどうかなど自分は知らないといっている。
その真偽を確かめる能力も無い「救いようの無いバカ、禿親父」であると、
親鸞は自著の中で自分をボロカスに書いている。
こんなこという宗教開祖はすごい!
本来宗教団体の教祖がその教えるところの根拠が、
自分の師匠であるというのはよいが、なぜそうなのかわからない、
などという教祖はいないだろう。
しかも開祖自身がなぜだかわからないといっている教義を、
ありがたがって信じている信者も実に奇妙だ。
ここに浄土真宗の不思議さを感じるのだ。
それは後の後継者の都合の良い親鸞の教えの解釈や、
庶民の安易なご都合主義の解釈が、これを広める一因になったと思う。
ただ親鸞のすごいところは絶対他力という他力本願をうち立てたことだ。
これは禅宗の自力本願のある意味において、逆説的アプローチではないだろうか。
つまり自己滅却の方法論の違いなのだ。
これはJ・マーフィーやN・ヒルの思考の現実化の理論に通じるではないか。
また密教の三密加持の「仏になりきる」行法にも通じる。
親鸞ほど人間的煩悩にドップリつかり、宗教者としての破戒すら平気に行えるのは、
そこまで自分を突き放せた自己否定の成果とは見れないだろうか。
これは我々凡夫には真似できない。
そんな安易に念仏で往生できるというものではない。
彼が肉食、妻帯できたのも自分が阿弥陀如来と強く繋がっており、
後に弟子の唯円の「歎異抄」でいう悪人正機説にある、
自分のような「悪人」ですら阿弥陀仏の慈悲は救ってくれるのだという、
否、悪人だからこそ往生できるのだ。
そういった強い信念に導かれていたからではないだろうか。
親鸞の人間的煩悩の苦しみをイエスの弟子パウロに見る。
もともとキリスト教迫害者であったパウロがイエスによって救われる。
ここに人間的な弱さと自己矛盾の葛藤に悶々とするのである。
庶民の共感を得る要素は、元からの立派な聖人君子ではなく、
ごく一般的な庶民的感性や苦悩をもって信仰の成就を成し遂げたからこそである。
そんな意味から親鸞が人気があったのだろう。
そして今でも親鸞の人気は静かなブームらしい。
平安時代の仏教は貴族など特権階級の救済ばかりで、
一般庶民の宗教ではなかった。
浄土宗、浄土真宗、日蓮宗(法華宗)などが庶民に広がった。
また禅宗の臨済宗や曹洞宗は武士に広まった。
さてこの中でも一般の信仰を広く集めたのが、
親鸞聖人の浄土真宗である。
阿弥陀如来を本尊としてその慈悲にすがる他力本願の教えである。
一般に浄土宗は法然上人が開祖で浄土真宗は親鸞になっている。
しかし浄土宗も浄土真宗も教義はまったく同じである。
親鸞は法然の忠実な弟子であり、浄土宗の信者なのである。
両者の大きな違いは浄土真宗は肉食、妻帯すること、
教義にあまりこだわらず、阿弥陀如来を一心に信じることのみである。

親鸞聖人
浄土真宗は南無阿弥陀仏と念仏を唱えるだけで極楽往生するという。
しかし親鸞はそんなこと言っていないのだw
親鸞は現代的に要約すると大体、以下のように言っている。
「念仏を唱えれば、極楽往生するだって?さあ・・・どうだろうか・・・よくわからんな。
先生の法然聖人がそう言ってたから、私はそう信じているだけだ。
それがウソでもそんなの関係ない。真偽を確かめる能力は私には無いからね。
例え法然聖人に騙されていても別に悔いはないね。」
「大体私のような人間は死んだら真っ先に地獄へ堕ちる大馬鹿者である。
そんなこと百も承知さ、しかしなあ、そんな救いようのない私ですら、
阿弥陀仏の慈悲は救って下さるのだと、法然上人が仰っているのだ。
だからそれを信じているだけですが、何か?」
「教行信証」より
これを見ると親鸞は正直な人である。
ある意味実に人間的である。
彼が比叡山を下りて京都・烏丸三条六角堂に篭り、座禅三昧に入ったときに
最も苦しんだことは、修行僧の身でありながら酒や博打や女にうつつを抜かしたことだ。
今風にいえば、坊さんが飲む、打つ、買うをやっていたのだ。
もっとも今の坊さんはこんなことはごく当たり前だろうが・・・
この教行信証を読むと、正直に法然の教えを信じているだけで、
極楽往生が出来るかどうかなど自分は知らないといっている。
その真偽を確かめる能力も無い「救いようの無いバカ、禿親父」であると、
親鸞は自著の中で自分をボロカスに書いている。
こんなこという宗教開祖はすごい!
本来宗教団体の教祖がその教えるところの根拠が、
自分の師匠であるというのはよいが、なぜそうなのかわからない、
などという教祖はいないだろう。
しかも開祖自身がなぜだかわからないといっている教義を、
ありがたがって信じている信者も実に奇妙だ。
ここに浄土真宗の不思議さを感じるのだ。
それは後の後継者の都合の良い親鸞の教えの解釈や、
庶民の安易なご都合主義の解釈が、これを広める一因になったと思う。
ただ親鸞のすごいところは絶対他力という他力本願をうち立てたことだ。
これは禅宗の自力本願のある意味において、逆説的アプローチではないだろうか。
つまり自己滅却の方法論の違いなのだ。
これはJ・マーフィーやN・ヒルの思考の現実化の理論に通じるではないか。
また密教の三密加持の「仏になりきる」行法にも通じる。
親鸞ほど人間的煩悩にドップリつかり、宗教者としての破戒すら平気に行えるのは、
そこまで自分を突き放せた自己否定の成果とは見れないだろうか。
これは我々凡夫には真似できない。
そんな安易に念仏で往生できるというものではない。
彼が肉食、妻帯できたのも自分が阿弥陀如来と強く繋がっており、
後に弟子の唯円の「歎異抄」でいう悪人正機説にある、
自分のような「悪人」ですら阿弥陀仏の慈悲は救ってくれるのだという、
否、悪人だからこそ往生できるのだ。
そういった強い信念に導かれていたからではないだろうか。
親鸞の人間的煩悩の苦しみをイエスの弟子パウロに見る。
もともとキリスト教迫害者であったパウロがイエスによって救われる。
ここに人間的な弱さと自己矛盾の葛藤に悶々とするのである。
庶民の共感を得る要素は、元からの立派な聖人君子ではなく、
ごく一般的な庶民的感性や苦悩をもって信仰の成就を成し遂げたからこそである。
そんな意味から親鸞が人気があったのだろう。
そして今でも親鸞の人気は静かなブームらしい。
人格形成は個人か、環境か?
2008年07月19日
先回、秋葉原の無差別殺傷事件について書いたが、
こういった事件があると必ず犯人の成育歴や家庭環境が取り上げられる。
家庭環境が複雑だったり、問題を抱えていたりすると、
そこに「犯罪の芽」を見るかのような専門家の分析が添えられる。
いわく、親の体罰が多かった、異常に躾けが厳しかった、離婚していた、
親がギャンブル漬けだった、親が無関心でネグレクトされてた・・・・
そして裁判ではこれまた家庭環境の問題点が必要以上にクローズアップされ、
だから情状酌量や減刑を要望するという裁判戦術に利用される。
昔から人間の人格形成には教育が重要とされ、
さらに教育は家庭、学校、社会の三者の有機的結合でなされる。
それを教育的な社会環境と位置づけている。
まったくその通りだと思う。
・・・・・・と結論するとブログは終わってしまうので、しかし、と続ける。
しかし私はもっと違う側面から人格形成を考えてみた。
確かに人間も高等な動物も教育によってさまざまな知識や技術や知恵を学んでいく。
ローレンツ博士のインプリンティング理論(刷り込み理論)なども、
動物は本能以外にも教育という側面で学習することがわかっている。
またマルクス主義系の教育理論も人格形成は社会が創出するというコンセプトである。
社会が良好に発展することで、つまり資本主義→社会主義→共産主義に発展することで、労働者は人間らしく生き生きと生活し、自己実現が可能となり犯罪もなくなるという。
もっともいまだマルクス理論は実証されたことがないのでこれはわからない。
いやもう否定されてしまったかもしれないが・・・
さて私はいつも凶悪犯罪の裁判で人権派弁護士などが主張する、
犯人の成育環境犯罪誘引説や、心身耗弱説に疑問があった。
心身耗弱説は弁護士の法廷戦術なので、ここでは問題にしない。
個人の責任はいったいどこにあるのか?
たとえば古今東西の偉人とよばれる人々の中には、
かなり劣悪な家庭環境や社会環境に育った人も少なからずいる。
また戦争や貧困な国の人々の犯罪発生率は先進国に比べると、
非情に高いだろうが、ではみんながみんな犯罪者になったり、
国民すべてが極悪非道な人間になるのだろうか?
秋葉原事件の加藤のような家庭環境の人間は、
ほとんど全員があのような犯罪者になるのか?
逆に恵まれた環境に育っても凶悪犯になる人間もいる。
このように見てくると、私は人格形成が社会的環境の影響を大きく受けることを否定しないが、反面、犯罪や人間的堕落に陥るのは自分の選択であるという側面も考えるべきだと思う。
どんな場面でも良いことか悪いことかを選択するのは自分自身である。
人間は今ある自分の人生の主役である。
そしてそれは自分で自分の生き方をその都度、選択して行動した結果なのだ。
その選択する知恵を与えるのが社会環境という教育ではあるが、
それは必要条件であっても十分条件ではない。
いまの社会では自分の責任を問題にせず、
他者への責任転嫁が普遍化しているように見える。
自己責任や自分のなすべき義務を見ない、あるいはあえて目を背けるようだ。
沖縄市で起きた米兵による中学3年の女子生徒の強姦未遂事件のときも、
少女に一切の責任がないという意見が、分別あって当然の識者から発せられたのには驚いた。バカも休み休み言え。
日没後の繁華街で言葉も通じない外国人に、自分から声をかけ、友人の制止も無視して
外人のバイクの後ろにまたがって、外人の腰に手を回してついていく少女の行為は正しかったのか?
この少女の親がなぜ告訴を取り下げたのか?
少女側の責任を認めたからではないのか?
世間の批難があったから?当たり前だ。
実際世間から批難されるような行為をしているのだ。
私はまだこの少女の親のほうが、バカなマスゴミや識者より常識があると思う。
人権団体や左巻き識者、マスゴミはこの少女に対する批判を不当だと言った!
反基地運動に利用したかっただけの卑しい連中の思惑が、
告訴とり下げで外れただけだと私は見た。
話はずれたが、どんな人生を歩もうともすべて自己責任である。
社会が劣悪なら、その社会を変える生き方もあろうし、
あるいは社会から脱出する生き方もある。
逆に社会の劣悪さをうまく利用して生きる方法もある。
多くは社会に不満を持ちながらも我慢して生きている。
しかし不平の矛先を関係ない人間の生命に向けることは馬鹿者である。
一切の弁護の余地は無いと考える。秋葉原の加藤は無論死刑である。
こんな人間に生きる権利だの人権など存在しない。
そんな主張する人権団体こそ犯罪者育成団体であり、犯罪行為である。
社会の責任もいいけれど、自己責任ももっと見直すべきだ。
こういった事件があると必ず犯人の成育歴や家庭環境が取り上げられる。
家庭環境が複雑だったり、問題を抱えていたりすると、
そこに「犯罪の芽」を見るかのような専門家の分析が添えられる。
いわく、親の体罰が多かった、異常に躾けが厳しかった、離婚していた、
親がギャンブル漬けだった、親が無関心でネグレクトされてた・・・・
そして裁判ではこれまた家庭環境の問題点が必要以上にクローズアップされ、
だから情状酌量や減刑を要望するという裁判戦術に利用される。
昔から人間の人格形成には教育が重要とされ、
さらに教育は家庭、学校、社会の三者の有機的結合でなされる。
それを教育的な社会環境と位置づけている。
まったくその通りだと思う。
・・・・・・と結論するとブログは終わってしまうので、しかし、と続ける。
しかし私はもっと違う側面から人格形成を考えてみた。
確かに人間も高等な動物も教育によってさまざまな知識や技術や知恵を学んでいく。
ローレンツ博士のインプリンティング理論(刷り込み理論)なども、
動物は本能以外にも教育という側面で学習することがわかっている。
またマルクス主義系の教育理論も人格形成は社会が創出するというコンセプトである。
社会が良好に発展することで、つまり資本主義→社会主義→共産主義に発展することで、労働者は人間らしく生き生きと生活し、自己実現が可能となり犯罪もなくなるという。
もっともいまだマルクス理論は実証されたことがないのでこれはわからない。
いやもう否定されてしまったかもしれないが・・・
さて私はいつも凶悪犯罪の裁判で人権派弁護士などが主張する、
犯人の成育環境犯罪誘引説や、心身耗弱説に疑問があった。
心身耗弱説は弁護士の法廷戦術なので、ここでは問題にしない。
個人の責任はいったいどこにあるのか?
たとえば古今東西の偉人とよばれる人々の中には、
かなり劣悪な家庭環境や社会環境に育った人も少なからずいる。
また戦争や貧困な国の人々の犯罪発生率は先進国に比べると、
非情に高いだろうが、ではみんながみんな犯罪者になったり、
国民すべてが極悪非道な人間になるのだろうか?
秋葉原事件の加藤のような家庭環境の人間は、
ほとんど全員があのような犯罪者になるのか?
逆に恵まれた環境に育っても凶悪犯になる人間もいる。
このように見てくると、私は人格形成が社会的環境の影響を大きく受けることを否定しないが、反面、犯罪や人間的堕落に陥るのは自分の選択であるという側面も考えるべきだと思う。
どんな場面でも良いことか悪いことかを選択するのは自分自身である。
人間は今ある自分の人生の主役である。
そしてそれは自分で自分の生き方をその都度、選択して行動した結果なのだ。
その選択する知恵を与えるのが社会環境という教育ではあるが、
それは必要条件であっても十分条件ではない。
いまの社会では自分の責任を問題にせず、
他者への責任転嫁が普遍化しているように見える。
自己責任や自分のなすべき義務を見ない、あるいはあえて目を背けるようだ。
沖縄市で起きた米兵による中学3年の女子生徒の強姦未遂事件のときも、
少女に一切の責任がないという意見が、分別あって当然の識者から発せられたのには驚いた。バカも休み休み言え。
日没後の繁華街で言葉も通じない外国人に、自分から声をかけ、友人の制止も無視して
外人のバイクの後ろにまたがって、外人の腰に手を回してついていく少女の行為は正しかったのか?
この少女の親がなぜ告訴を取り下げたのか?
少女側の責任を認めたからではないのか?
世間の批難があったから?当たり前だ。
実際世間から批難されるような行為をしているのだ。
私はまだこの少女の親のほうが、バカなマスゴミや識者より常識があると思う。
人権団体や左巻き識者、マスゴミはこの少女に対する批判を不当だと言った!
反基地運動に利用したかっただけの卑しい連中の思惑が、
告訴とり下げで外れただけだと私は見た。
話はずれたが、どんな人生を歩もうともすべて自己責任である。
社会が劣悪なら、その社会を変える生き方もあろうし、
あるいは社会から脱出する生き方もある。
逆に社会の劣悪さをうまく利用して生きる方法もある。
多くは社会に不満を持ちながらも我慢して生きている。
しかし不平の矛先を関係ない人間の生命に向けることは馬鹿者である。
一切の弁護の余地は無いと考える。秋葉原の加藤は無論死刑である。
こんな人間に生きる権利だの人権など存在しない。
そんな主張する人権団体こそ犯罪者育成団体であり、犯罪行為である。
社会の責任もいいけれど、自己責任ももっと見直すべきだ。
私の沖縄独立のための試案
2008年07月18日
私は沖縄は現状では独立など絶対不可能だと書いた。
しかしでは、どうしたら独立は可能になるか考えてみた。
まずなにはさておいても経済的自立が第一課題である。
人間でも自力でメシを喰えない奴は一人前とは言わない。
親のスネかじりは所詮、何を偉そうに言っても負け犬の遠吠えである。
沖縄の県予算は今年度復帰後初めて、自主財源が25パーセントになった。
これまでは自主財源は約15~20パーセントで推移している。
つまり県予算の8割は日本国民の税金で賄われているのだ。
これは沖縄が基地を抱える負担金として特措法がとられているためだ。
だから基地がなくなれば、当然政府の負担金もなくなる。
さて・・・・
独立よりもまず経済の自立である。
私は沖縄は生産地ではなく貿易と観光を主とした経済を目指すべきと思う。
もちろん現行の農業・漁業はそのまま継続させるが、花木、マンゴーやウコンのような
商品への付加価値の高い作物に力を入れる。
そこで誰でも思いつく方法ではあるが、かつての香港型中継ぎ貿易でデューティー・フリーゾーンを目指すというのはどうだろうか。
沖縄はかつて琉球王国時代に中継ぎ貿易で栄えた歴史をもっている。
ウチナンチューの商魂と海外へ乗り出すフロンティア精神は生きてるはずだ。
だから港湾設備をもっと拡充し、商社的ビジネスを発展させる。
そしてデューティー・フリー(免税)地域になることで観光客誘致に力を入れる。
同時に基地返還後の跡地利用を効率よい経済効果を生み出すために、
現在のキャンプ・キンザーのような臨海地帯は、スペインのコスタ・デル・ソルのような
リゾート型分譲住宅、マンションの町を計画し、世界中からの移住者を住まわせる。
移住資格は沖縄の金融機関に10万ドル以上の預金を義務付ける。
これはすでにオーストラリアやフィリッピンなどが金額は異なるが実施している。
またカリブ海のケーマン諸島のような法人税フリー、または低額法人税地域にして企業誘致するのも方法だろう。
あるいはルクセンブルグのような金融特区をつくり、
沖縄を極東における国際マネーが集まる地域にするのも良い。
この発想を発展させ、沖縄に国連機関を誘致する。
沖縄の歴史を生かして安保理の系列機関でもよいし、自然環境保護の機関でも良いだろう。
とにかく国連やユネスコ関係の機関を多く設置することで、安全保障を担保できる。
これはスイスのやり方だ。
現在進められている理数科系大学院大学もおなじ構想だ。
いっそのこと国連大学も誘致してはどうか。
しかしこれを推進することで、つまり沖縄の国際化によって、
メリットとデメリットの二つが同時発生する。
メリットは沖縄に多くの外国人が移住し国際機関が設置されることにより、
沖縄の国際化促進で、地域安全保障が担保される。
これは後の独立に向けた大きく、かつ実効性のある方法だ・
しかも経済効果と安全保障のダブル効果がオイシイではないか。
デメリットは沖縄から沖縄らしさはますます薄れていく。
国際化していくことは、ある意味没個性になっていくことだ。
これはアメリカやオーストラリアが人種、民族のモザイク国家になり、
総花的個性?の国になっていることからもわかるだろう。
これらの共生が検討課題だ。
もうひとつの検討課題は中国人の移民は制限しないと、あとで大変なことになるだろう。
極東最大の空軍基地・嘉手納空軍基地跡はそのまま「沖縄国際空港」に利用する。
そして極東のハブ空港として駐機料金を日本の半額に設定する。これで日本への貨物便などはすべて沖縄で立ち止まり、日本行き便に荷物を積み替える。
ただし騒音問題があるのでこれは不可能かもしれない。
現在の尖閣諸島問題は当面あの腰砕けのバカ政府では解決は不可能だが、
もし完全に日本領土の決着がつけば、
琉球石油にあの地域の石油採掘権と政府の援助を与え、
海底油田採掘に着手する。
この意味は石油危機の現在においてその有効性は無限大である。
うまくすると沖縄は石油成金になる可能性だってあるのだ。
さらに石油輸出国になるかもしれない。
以上思いつきで書いてみた。
しかしでは、どうしたら独立は可能になるか考えてみた。
まずなにはさておいても経済的自立が第一課題である。
人間でも自力でメシを喰えない奴は一人前とは言わない。
親のスネかじりは所詮、何を偉そうに言っても負け犬の遠吠えである。
沖縄の県予算は今年度復帰後初めて、自主財源が25パーセントになった。
これまでは自主財源は約15~20パーセントで推移している。
つまり県予算の8割は日本国民の税金で賄われているのだ。
これは沖縄が基地を抱える負担金として特措法がとられているためだ。
だから基地がなくなれば、当然政府の負担金もなくなる。
さて・・・・
独立よりもまず経済の自立である。
私は沖縄は生産地ではなく貿易と観光を主とした経済を目指すべきと思う。
もちろん現行の農業・漁業はそのまま継続させるが、花木、マンゴーやウコンのような
商品への付加価値の高い作物に力を入れる。
そこで誰でも思いつく方法ではあるが、かつての香港型中継ぎ貿易でデューティー・フリーゾーンを目指すというのはどうだろうか。
沖縄はかつて琉球王国時代に中継ぎ貿易で栄えた歴史をもっている。
ウチナンチューの商魂と海外へ乗り出すフロンティア精神は生きてるはずだ。
だから港湾設備をもっと拡充し、商社的ビジネスを発展させる。
そしてデューティー・フリー(免税)地域になることで観光客誘致に力を入れる。
同時に基地返還後の跡地利用を効率よい経済効果を生み出すために、
現在のキャンプ・キンザーのような臨海地帯は、スペインのコスタ・デル・ソルのような
リゾート型分譲住宅、マンションの町を計画し、世界中からの移住者を住まわせる。
移住資格は沖縄の金融機関に10万ドル以上の預金を義務付ける。
これはすでにオーストラリアやフィリッピンなどが金額は異なるが実施している。
またカリブ海のケーマン諸島のような法人税フリー、または低額法人税地域にして企業誘致するのも方法だろう。
あるいはルクセンブルグのような金融特区をつくり、
沖縄を極東における国際マネーが集まる地域にするのも良い。
この発想を発展させ、沖縄に国連機関を誘致する。
沖縄の歴史を生かして安保理の系列機関でもよいし、自然環境保護の機関でも良いだろう。
とにかく国連やユネスコ関係の機関を多く設置することで、安全保障を担保できる。
これはスイスのやり方だ。
現在進められている理数科系大学院大学もおなじ構想だ。
いっそのこと国連大学も誘致してはどうか。
しかしこれを推進することで、つまり沖縄の国際化によって、
メリットとデメリットの二つが同時発生する。
メリットは沖縄に多くの外国人が移住し国際機関が設置されることにより、
沖縄の国際化促進で、地域安全保障が担保される。
これは後の独立に向けた大きく、かつ実効性のある方法だ・
しかも経済効果と安全保障のダブル効果がオイシイではないか。
デメリットは沖縄から沖縄らしさはますます薄れていく。
国際化していくことは、ある意味没個性になっていくことだ。
これはアメリカやオーストラリアが人種、民族のモザイク国家になり、
総花的個性?の国になっていることからもわかるだろう。
これらの共生が検討課題だ。
もうひとつの検討課題は中国人の移民は制限しないと、あとで大変なことになるだろう。
極東最大の空軍基地・嘉手納空軍基地跡はそのまま「沖縄国際空港」に利用する。
そして極東のハブ空港として駐機料金を日本の半額に設定する。これで日本への貨物便などはすべて沖縄で立ち止まり、日本行き便に荷物を積み替える。
ただし騒音問題があるのでこれは不可能かもしれない。
現在の尖閣諸島問題は当面あの腰砕けのバカ政府では解決は不可能だが、
もし完全に日本領土の決着がつけば、
琉球石油にあの地域の石油採掘権と政府の援助を与え、
海底油田採掘に着手する。
この意味は石油危機の現在においてその有効性は無限大である。
うまくすると沖縄は石油成金になる可能性だってあるのだ。
さらに石油輸出国になるかもしれない。
以上思いつきで書いてみた。
「武器の無い平和の国」という嘘
2008年07月17日
つづけて沖縄に関連したことを書く。
沖縄はかつて琉球王国時代に中継ぎ貿易で栄えた。
しかし戦争を嫌い武器を持たなかったために、
薩摩軍に簡単に侵略された。
これはすべてウソである。
「武器を持たない平和な琉球」幻想とは、
大田知事時代にさかんに知事が垂れ流したホラ話だ。
これがウソであることは高校生でも沖縄の歴史を勉強したものは知っている。
もっともこの話のルーツはアメリカ製という説もある。
私はかつては八重山郡石垣島に10年住んでいた。
そこで八重山の歴史を勉強していた。
八重山の人なら誰でも知っている「オヤケアカハチの乱」がある。
1500年尚真王は琉球軍100隻の軍船に3000人の兵力で石垣島を侵略したのだ。
理由は諸説あるが、琉球側はオヤケアカハチが粗暴で民心を混乱させ、
王府への年貢を納めなかったからという。しかし石垣島側では、
地元の祭祀を王府が禁止したことによる不満という。
さらに1522年には与那国島の按司・鬼虎を宮古軍を差し向けて征服した。
また奄美諸島にも何度か侵略している。
1466年に尚徳王自ら2000の兵を率いて喜界島へ遠征し、琉球王国の領土に加えた。
1537年尚真王も奄美大島を侵略している。
1571年尚元王(尚真の息子)は、王自ら3000名の兵を率いて奄美大島を侵略し、
支配下に置いた。
この第二尚氏・尚真王時代がもっとも沖縄の隆盛した時代である。
尚真王は全国の按司を首里の城下に集め、刀狩りとして一切の武器を没収した。
刀狩りの根拠とされた「百浦添欄干之銘」(1509年)という史料にはこう書かれている。
「刀や弓矢を集めて国を守る武器とした。
琉球の持つ財産や武器は他国の及ぶところではない。」
つまり琉球王国はこんなに武器がたくさんあって強いんだぞwと誇っているのだ。
決して戦争しないために武器を集めてお蔵入りさせるためではない。
これは尚真王の時代に、それまで各地の按司からの徴兵による寄せ集め軍を、
初の正式な琉球王国軍に統合整備されたということだ。
尚真王は琉球の中央集権化と軍事力強化をしたのである。
1609年薩摩軍の琉球侵略は、琉球がこれまで先島でしてきたことを、
逆に薩摩軍にされたとということだ。
以上見てきただけでも、琉球が武器を持たない平和国家というのがウソだとわかる。
そもそも19~20世紀前半までの帝国主義時代以前は強い国や民族が、
弱い国や民族を侵略、征服するのは当たり前のことで、
「平和国家」という言葉も概念すらも存在しなかった。
歴史とは文学性の高い分野ではあるが、
資料の検証は情緒的であってはならない。
あくまで冷徹に事実関係を繋ぎあわせなければいけない。
ましてやデッチアゲや捏造は、
お隣の共産主義国家や半島両国家ではあるまいし、
文明国日本は絶対にしてはいけない。
沖縄が文明を誇る県ならなおさらだ。
左巻きのバカ知事のデッチアゲには断固間違いを正させるべきだ。
沖縄はかつて琉球王国時代に中継ぎ貿易で栄えた。
しかし戦争を嫌い武器を持たなかったために、
薩摩軍に簡単に侵略された。
これはすべてウソである。
「武器を持たない平和な琉球」幻想とは、
大田知事時代にさかんに知事が垂れ流したホラ話だ。
これがウソであることは高校生でも沖縄の歴史を勉強したものは知っている。
もっともこの話のルーツはアメリカ製という説もある。
私はかつては八重山郡石垣島に10年住んでいた。
そこで八重山の歴史を勉強していた。
八重山の人なら誰でも知っている「オヤケアカハチの乱」がある。
1500年尚真王は琉球軍100隻の軍船に3000人の兵力で石垣島を侵略したのだ。
理由は諸説あるが、琉球側はオヤケアカハチが粗暴で民心を混乱させ、
王府への年貢を納めなかったからという。しかし石垣島側では、
地元の祭祀を王府が禁止したことによる不満という。
さらに1522年には与那国島の按司・鬼虎を宮古軍を差し向けて征服した。
また奄美諸島にも何度か侵略している。
1466年に尚徳王自ら2000の兵を率いて喜界島へ遠征し、琉球王国の領土に加えた。
1537年尚真王も奄美大島を侵略している。
1571年尚元王(尚真の息子)は、王自ら3000名の兵を率いて奄美大島を侵略し、
支配下に置いた。
この第二尚氏・尚真王時代がもっとも沖縄の隆盛した時代である。
尚真王は全国の按司を首里の城下に集め、刀狩りとして一切の武器を没収した。
刀狩りの根拠とされた「百浦添欄干之銘」(1509年)という史料にはこう書かれている。
「刀や弓矢を集めて国を守る武器とした。
琉球の持つ財産や武器は他国の及ぶところではない。」
つまり琉球王国はこんなに武器がたくさんあって強いんだぞwと誇っているのだ。
決して戦争しないために武器を集めてお蔵入りさせるためではない。
これは尚真王の時代に、それまで各地の按司からの徴兵による寄せ集め軍を、
初の正式な琉球王国軍に統合整備されたということだ。
尚真王は琉球の中央集権化と軍事力強化をしたのである。
1609年薩摩軍の琉球侵略は、琉球がこれまで先島でしてきたことを、
逆に薩摩軍にされたとということだ。
以上見てきただけでも、琉球が武器を持たない平和国家というのがウソだとわかる。
そもそも19~20世紀前半までの帝国主義時代以前は強い国や民族が、
弱い国や民族を侵略、征服するのは当たり前のことで、
「平和国家」という言葉も概念すらも存在しなかった。
歴史とは文学性の高い分野ではあるが、
資料の検証は情緒的であってはならない。
あくまで冷徹に事実関係を繋ぎあわせなければいけない。
ましてやデッチアゲや捏造は、
お隣の共産主義国家や半島両国家ではあるまいし、
文明国日本は絶対にしてはいけない。
沖縄が文明を誇る県ならなおさらだ。
左巻きのバカ知事のデッチアゲには断固間違いを正させるべきだ。
沖縄独立論という幻想
2008年07月16日
先回の琉球大学の林泉忠準教授のところで、
アンケートで沖縄が独立するべきだという回答が2割もあったと書いた。
私はこのアンケートの方法や結果の数字に疑問をもっているが、
ここでこのアンケート結果が実態とかけ離れている証拠を挙げよう。
2006年の沖縄県知事選挙で、琉球独立党(現・かりゆしクラブ)党首の屋良朝助が、
党公認で出馬したが、得票数6220票、得票率0.93%で落選しているのだ。
これは沖縄が独立すべきだなどど戯言を言っている県民が2割もいない証拠である。
私はここに断言しておく。
沖縄の独立国家など1000パーセント不可能である。
<その理由>
1.地政学的に沖縄は戦略上かなり重要な位置にある。
現在のように中国共産党の一党独裁の軍事国家がすぐそばにある以上、
また中国の太平洋進出の「玄関口」に沖縄が位置している以上、
日本か、中国か、さらにはかつてのアメリカかのいずれかに所属しない限り、
沖縄独自の主権は絶対に保障されない。
もっとも中国の支配下で主権など夢物語であるが・・・
2.県財政の8割以上を日本政府の補助金で成り立ち、
経済的自立が出来ない以上、独立はありえない。
沖縄は地理的特性(島嶼地域)、人口と消費市場、
生産インフラに至るまで経済的基盤が脆弱である。
また天然資源もほとんどない。(ただし尖閣付近の海底油田開発が出来れば別)
少なくとも現時点での状況では、近未来的においても経済的自立の見通しは暗い。
3.軍事アレルギーが強く防衛意識のない県民性では主権維持などできない。
「基地の無い平和な島を実現しよう!」と反基地運動がマスゴミ、市民団体などが
熱心に活動している。しかし中国が沖縄の領有権を主張している以上、無防備、
非武装で独立などありえない。
琉球王国が1609年に薩摩の前にあっという間の侵攻、支配されたのはなぜか?
経済的には中継ぎ貿易で繁栄していたが、軍事力が劣っていたからだ。
国際政治の力学的ポイントは経済力と軍事力であると、前に書いた。
今の沖縄は経済力はないし、軍事力は認めない。
これではそもそも主権国家になる前提そのものが欠けている。
戦後の日本政府もアメリカに国防を任せて、自力では国を守れないどころか、
北朝鮮というならず者国家に自国民を拉致されても、
自力で取り返せない情けない国である。
しかも自主憲法すらいまだに制定できない体たらくである。
世界中に途上国を含めてもこんな情けない国はないだろう。
薩摩支配下の琉球王国は今の日本とある意味似ている。
その意味では日本はアメリカの属国と言われても仕方が無い。
もっともチンパンジー首相はアメリカよりも中国の属国になりたがっているみたいだが・・・
アンケートで沖縄が独立するべきだという回答が2割もあったと書いた。
私はこのアンケートの方法や結果の数字に疑問をもっているが、
ここでこのアンケート結果が実態とかけ離れている証拠を挙げよう。
2006年の沖縄県知事選挙で、琉球独立党(現・かりゆしクラブ)党首の屋良朝助が、
党公認で出馬したが、得票数6220票、得票率0.93%で落選しているのだ。
これは沖縄が独立すべきだなどど戯言を言っている県民が2割もいない証拠である。
私はここに断言しておく。
沖縄の独立国家など1000パーセント不可能である。
<その理由>
1.地政学的に沖縄は戦略上かなり重要な位置にある。
現在のように中国共産党の一党独裁の軍事国家がすぐそばにある以上、
また中国の太平洋進出の「玄関口」に沖縄が位置している以上、
日本か、中国か、さらにはかつてのアメリカかのいずれかに所属しない限り、
沖縄独自の主権は絶対に保障されない。
もっとも中国の支配下で主権など夢物語であるが・・・
2.県財政の8割以上を日本政府の補助金で成り立ち、
経済的自立が出来ない以上、独立はありえない。
沖縄は地理的特性(島嶼地域)、人口と消費市場、
生産インフラに至るまで経済的基盤が脆弱である。
また天然資源もほとんどない。(ただし尖閣付近の海底油田開発が出来れば別)
少なくとも現時点での状況では、近未来的においても経済的自立の見通しは暗い。
3.軍事アレルギーが強く防衛意識のない県民性では主権維持などできない。
「基地の無い平和な島を実現しよう!」と反基地運動がマスゴミ、市民団体などが
熱心に活動している。しかし中国が沖縄の領有権を主張している以上、無防備、
非武装で独立などありえない。
琉球王国が1609年に薩摩の前にあっという間の侵攻、支配されたのはなぜか?
経済的には中継ぎ貿易で繁栄していたが、軍事力が劣っていたからだ。
国際政治の力学的ポイントは経済力と軍事力であると、前に書いた。
今の沖縄は経済力はないし、軍事力は認めない。
これではそもそも主権国家になる前提そのものが欠けている。
戦後の日本政府もアメリカに国防を任せて、自力では国を守れないどころか、
北朝鮮というならず者国家に自国民を拉致されても、
自力で取り返せない情けない国である。
しかも自主憲法すらいまだに制定できない体たらくである。
世界中に途上国を含めてもこんな情けない国はないだろう。
薩摩支配下の琉球王国は今の日本とある意味似ている。
その意味では日本はアメリカの属国と言われても仕方が無い。
もっともチンパンジー首相はアメリカよりも中国の属国になりたがっているみたいだが・・・
個人情報保護って・・・
2008年07月15日
先日ある中学校に昔世話になった先生に電話をかけた。
たまたまその日その先生は不在だったので、
彼の自宅か携帯の電話番号を尋ねたら、
個人情報なので教えられないと言われた。
なるほど個人情報か、そういえば近年職員名簿や生徒の住所録もなくなった。
これを使って犯罪や悪用をする不埒な奴が増えているからだろう。
反面ある種の人権活動やってる異常者の中には、
街の防犯カメラも個人情報に違反するとか言って反対している人もいる。
しかし個人情報と言ってもどれだけ秘匿性の高い情報を個々人がもっているのだろうか?
たとえばスーパーやお店のポイントカードやサービスカード、
銀行、郵便局のキャッシュカード、レンタルビデオ店の会員証などを作るときも、
必ず最低限、住所、氏名、生年月日、電話番号は記入する。
アルバイトや就職のときの履歴書でも職歴や学歴や資格に免許までわかる。
そのほか生命保険やクレジットカードなどは家族構成や勤務先から年収までも記入する。
自分の財布を見てみるがいい、何枚カード持ってる?
いまどき高校生でも5~6枚のカードは持っているだろう。
世間と接触の少ない私ですら30枚近くあるのだ。
その殆どは使わないのだが・・・
また携帯電話だが調べる気になれば、これも電話番号だけで
上記の個人情報はもちろん、現在どこにいるのかもわかるのだ。
またPCのメルアドからもアクセス先の形跡やネットショッピング歴などもわかる。
さらに今書いてるブログでも個人名は伏せていても特定は簡単にでき、
しかもその内容から個人の政治傾向、思想傾向、趣味などもわかる。
警察だけでなく興信所でもある個人にネライをつけると、
かなりの割合でその人物像が浮かびあがるらしい。
情報化社会といわれて久しいが、
普通に暮らしていれば必ず自分の身元が特定できる情報が、
いくつもの第三者によって管理されているのである。
しかも時々その情報がネットを通じて流出する。
個人情報保護法もどこまで実効性があるのか疑問である。
たまたまその日その先生は不在だったので、
彼の自宅か携帯の電話番号を尋ねたら、
個人情報なので教えられないと言われた。
なるほど個人情報か、そういえば近年職員名簿や生徒の住所録もなくなった。
これを使って犯罪や悪用をする不埒な奴が増えているからだろう。
反面ある種の人権活動やってる異常者の中には、
街の防犯カメラも個人情報に違反するとか言って反対している人もいる。
しかし個人情報と言ってもどれだけ秘匿性の高い情報を個々人がもっているのだろうか?
たとえばスーパーやお店のポイントカードやサービスカード、
銀行、郵便局のキャッシュカード、レンタルビデオ店の会員証などを作るときも、
必ず最低限、住所、氏名、生年月日、電話番号は記入する。
アルバイトや就職のときの履歴書でも職歴や学歴や資格に免許までわかる。
そのほか生命保険やクレジットカードなどは家族構成や勤務先から年収までも記入する。
自分の財布を見てみるがいい、何枚カード持ってる?
いまどき高校生でも5~6枚のカードは持っているだろう。
世間と接触の少ない私ですら30枚近くあるのだ。
その殆どは使わないのだが・・・
また携帯電話だが調べる気になれば、これも電話番号だけで
上記の個人情報はもちろん、現在どこにいるのかもわかるのだ。
またPCのメルアドからもアクセス先の形跡やネットショッピング歴などもわかる。
さらに今書いてるブログでも個人名は伏せていても特定は簡単にでき、
しかもその内容から個人の政治傾向、思想傾向、趣味などもわかる。
警察だけでなく興信所でもある個人にネライをつけると、
かなりの割合でその人物像が浮かびあがるらしい。
情報化社会といわれて久しいが、
普通に暮らしていれば必ず自分の身元が特定できる情報が、
いくつもの第三者によって管理されているのである。
しかも時々その情報がネットを通じて流出する。
個人情報保護法もどこまで実効性があるのか疑問である。
竹島の教科書記載とバカ政府
2008年07月15日
政治関連のニュースには腹が立つから見ないようにしているが、
やはりこれも看過できないので書くことにした。
日刊スポーツ6月14日より
町村信孝官房長官は14日午後の記者会見で、新学習指導要領解説書に竹島を
日本の領土と初めて明記したことについて、韓国政府に事務レベルで事前に伝えた
ことを明らかにした上で「1つ1つの案件で日韓関係が大きく左右されることは避けたい。
韓国側には冷静に対応してほしい」と求めた。
竹島をめぐる表現で「わが国固有の領土」と記述しなかったことに関しては「日韓新時代
への動きが頓挫するだけでなく、6カ国協議や拉致問題を含めた日朝間の諸懸案の
解決に悪影響を及ぼしかねない。日韓関係をできるだけぎくしゃくしないようにしたいとの
意図の表れだ」と述べた。
日本外交は戦後60年たっても、全くなんの進歩もしていない。
そもそも外交というものがわかっていない素人官僚に素人政治家が
わけわからずにやってるもんだから、日本が世界の笑いものというのも仕方ない。
先の洞爺湖サミットでも福田はアメリカにも見捨てられていた。
福田康夫という愚人は、無知無能無策を絵に描いたサルである。
あのサミットはCO2削減の努力をできるだけしましょうね決議だった。
何の具体的対策も数値目標も全く無いサミットに国民の血税500億円をドブに捨てた。
話を竹島に戻す。
韓国が竹島(独島)を歴史的にも韓国固有の領土というのは真っ赤なウソである。
このことに関するサイトは資料つきで山ほどネットにあるので、ここではいちいち書かない。
前にも韓国の歴史は殆どウソであると書いた。
特に近現代史は99パーセントウソである。
その証拠に日本側が、韓国政府に竹島問題をオランダ・ハーグ国際司法裁判所にて、 解決を図ろうと提案したが、韓国側はこれを拒否した。
これだけで韓国側がウソの垂れ流しをしていることがバレバレである。
自分に正当性が100パーセントあるのなら、堂々と裁判で争えばいい。
そうできないのは韓国が不利なことを自覚している証拠だ。
韓国では日韓併合時の前後あたりからの外交文書や、
外国の記者の記事、記録を国内で出版することを法律で禁じている。
なぜか?
事実が国民にばれるのがマズイのである。
韓国の歴史編纂や教科書はすべて国定である。
政府の都合の良い歴史を国民に教育するためである。
韓国のことはいい、よその国のことだ。
問題は日本政府のこの実に卑しい卑屈な外交姿勢である。
外交とはエゴイズムむき出しの国家戦略である。
情けも容赦も無用の世界である。と前にも書いた。
この事が日本のバカ官僚も政治家も今もってわからない。
韓国が外交で理性的対応が出来ない国であることが、
なぜわからないのだろうか? 本音は町村が言うように、
「日韓関係をできるだけぎくしゃくしないようにしたい」ということだ。
まさに町村もチンパンジー内閣の一員である。
相手の嫌がることをしない、言わない外交である。
だからチンパン首相は中国様やアメリカ様の仰せの通りに動いている。
日本国民の利権代表が外国の犬に成り下がっているのだ。
外交でもめるのが嫌な首相はさっさと辞めろw。
外交は「笑顔のケンカ」である。
ケンカができない腰抜けは首相になるべきでない。
会社の社長が「私は他者との競合や営業は嫌いですから・・・」といっているのと同じだ。
軍人が「私は戦争が嫌いなんです。戦うのが怖いんですうw」といっているのと同じだ。
私は韓国との外交関係など大いにもめてギクシャクすべきだと考える。
これは中国に対しても同じことが言えるのだ。
本気でケンカして初めて対等な外交関係が結べる。
表面的な友好など何の国益も得ることは無い、いやむしろ有害ですらある。
最近私はTVのニュースも見なくなってきた。
あのチンパンジーの薄ら笑いに虫唾が走るからである。
やはりこれも看過できないので書くことにした。
日刊スポーツ6月14日より
町村信孝官房長官は14日午後の記者会見で、新学習指導要領解説書に竹島を
日本の領土と初めて明記したことについて、韓国政府に事務レベルで事前に伝えた
ことを明らかにした上で「1つ1つの案件で日韓関係が大きく左右されることは避けたい。
韓国側には冷静に対応してほしい」と求めた。
竹島をめぐる表現で「わが国固有の領土」と記述しなかったことに関しては「日韓新時代
への動きが頓挫するだけでなく、6カ国協議や拉致問題を含めた日朝間の諸懸案の
解決に悪影響を及ぼしかねない。日韓関係をできるだけぎくしゃくしないようにしたいとの
意図の表れだ」と述べた。
日本外交は戦後60年たっても、全くなんの進歩もしていない。
そもそも外交というものがわかっていない素人官僚に素人政治家が
わけわからずにやってるもんだから、日本が世界の笑いものというのも仕方ない。
先の洞爺湖サミットでも福田はアメリカにも見捨てられていた。
福田康夫という愚人は、無知無能無策を絵に描いたサルである。
あのサミットはCO2削減の努力をできるだけしましょうね決議だった。
何の具体的対策も数値目標も全く無いサミットに国民の血税500億円をドブに捨てた。
話を竹島に戻す。
韓国が竹島(独島)を歴史的にも韓国固有の領土というのは真っ赤なウソである。
このことに関するサイトは資料つきで山ほどネットにあるので、ここではいちいち書かない。
前にも韓国の歴史は殆どウソであると書いた。
特に近現代史は99パーセントウソである。
その証拠に日本側が、韓国政府に竹島問題をオランダ・ハーグ国際司法裁判所にて、 解決を図ろうと提案したが、韓国側はこれを拒否した。
これだけで韓国側がウソの垂れ流しをしていることがバレバレである。
自分に正当性が100パーセントあるのなら、堂々と裁判で争えばいい。
そうできないのは韓国が不利なことを自覚している証拠だ。
韓国では日韓併合時の前後あたりからの外交文書や、
外国の記者の記事、記録を国内で出版することを法律で禁じている。
なぜか?
事実が国民にばれるのがマズイのである。
韓国の歴史編纂や教科書はすべて国定である。
政府の都合の良い歴史を国民に教育するためである。
韓国のことはいい、よその国のことだ。
問題は日本政府のこの実に卑しい卑屈な外交姿勢である。
外交とはエゴイズムむき出しの国家戦略である。
情けも容赦も無用の世界である。と前にも書いた。
この事が日本のバカ官僚も政治家も今もってわからない。
韓国が外交で理性的対応が出来ない国であることが、
なぜわからないのだろうか? 本音は町村が言うように、
「日韓関係をできるだけぎくしゃくしないようにしたい」ということだ。
まさに町村もチンパンジー内閣の一員である。
相手の嫌がることをしない、言わない外交である。
だからチンパン首相は中国様やアメリカ様の仰せの通りに動いている。
日本国民の利権代表が外国の犬に成り下がっているのだ。
外交でもめるのが嫌な首相はさっさと辞めろw。
外交は「笑顔のケンカ」である。
ケンカができない腰抜けは首相になるべきでない。
会社の社長が「私は他者との競合や営業は嫌いですから・・・」といっているのと同じだ。
軍人が「私は戦争が嫌いなんです。戦うのが怖いんですうw」といっているのと同じだ。
私は韓国との外交関係など大いにもめてギクシャクすべきだと考える。
これは中国に対しても同じことが言えるのだ。
本気でケンカして初めて対等な外交関係が結べる。
表面的な友好など何の国益も得ることは無い、いやむしろ有害ですらある。
最近私はTVのニュースも見なくなってきた。
あのチンパンジーの薄ら笑いに虫唾が走るからである。
林準教授の沖縄県民調査
2008年07月14日
世の中には多くのアンケート調査がある。
しかしアンケート調査の結果を鵜呑みにしてはいけない。
アンケート調査のサンプル人数はテーマによるが一般に2000人が妥当らしい。
そして地域、年齢、職業、性別が偏らないことが前提である。
さてこんな記事が昨年出た。琉球新報2007年11月29日の記事から引用。
2007年に、琉球大学法文学部准教授の林泉忠(英国籍在日香港人)が、
沖縄県民意識調査を実施(電話帳から無作為抽出して電話をかける方法で、
18歳以上の沖縄県民を対象に実施、1201人から有効回答を得た。
2005年度より毎年実施)。
結果、沖縄県民の内、自らが日本人ではなく沖縄人であると答えた人は41.6%(2005年度40.6%)、
沖縄が独立すべきだと答えた人は20.6%(2005年度24.9%)であったとされる)。
沖縄県民が自分は日本人ではなく沖縄人であると答えた人が4割もいるとか、
また2割の県民が独立をすべきだと言う回答は本当なのだろうか。
このアンケート電話帳からの無作為抽出というが、本当にそうなのだろうか?
ある特定の年齢層や地域に偏りはなかったのか?
また質問の仕方に何か誘導的な文言はなかったのだろうか?
10年くらい前になろうか、読売新聞社が改憲の叩き台として、
自社憲法草案を発表し話題になったことがあった。
このとき憲法9条の条文にについて、朝日新聞とアンケート調査が行われたが、
結果が大きく異なった。数字は失念したが、読売では9条は改正すべきが多く、
朝日では9条は改正しないほうがよいが上回った。
これは質問の仕方で大きくことなるのだ。
読売・・・「現在の憲法には自衛権が明記されていません。
自衛権は主権国家の権利であり世界中の憲法に明記されています。
現9条を改正し自衛権を明記したほうが良いと思いますか?」
朝日・・・「憲法9条は恒久平和を謳った世界でも素晴らしい憲法条文です。
日本が二度と戦争の道を歩まず、世界平和に貢献するために
憲法9条をこのまま残すべきと考えますか?」
この二つの憲法9条についての質問をみると、
両者とも明らかに一つの答えを期待、誘導する方向性があることに気がつくだろう。
沖縄県の県民意識調査の質問が下記のようなものだったらどうであろう。
例えば「あなたはかつて沖縄が琉球王国として栄えた独立国の末裔として、
現在も琉球民族としての意識を持っていますか?」
また「沖縄県はかつての琉球王国のように、自主独立の国を目指し、
日本やアメリカの支配や影響を脱して、基地の無い平和な国として
独立できたらそのほうがいいですか?」
こういう問いかけであったとしたら、報道のような答えは理解できるだろう。
またこのアンケートを実施した琉球大学の林泉忠という人物だが、
2005年10月25日、朝日新聞紙上に「日中韓 ナショナリズムは時代遅れ」を発表、
高揚する東アジアのナショナリズムを批判しナショナリズム不要論を提唱した。
ナショナリズムの最も激烈に高揚しているのは、彼の母国の中国である。
愛国教育と言う国家主義や民族主義の名の下に、
チベット、新彊(東トルキスタン)、満州などの民族浄化はナチスを凌ぐ。
ナショナリズム不要論をいうなら、どうぞお国へ帰って北京政府に言ってください、である。
日本などナショナリズムは軍国主義みたいな風潮があり、愛国心をいえば右翼扱いの国だ。
むしろ日本はもっとナショナリズムをもって普通の国である。
さらに沖縄はかつて琉球王国として独立していたし、それが薩摩の侵攻を経て、
明治になり琉球処分=沖縄県成立に繋がる経緯を持つ。
そして第二次大戦の激戦地になり、戦後は米軍の支配下にあって、
現在も広大な基地が残されたままになっている。
このような地域的、歴史的背景のなかで、「沖縄人は日本人ではない」とか。
「沖縄は日本から独立すべき」という「県民意識」をクローズアップさせる意図は何か?
私は裏に中国の共産党工作機関の影が見え隠れするのだ。
そもそも日本にいる中国の教育関係者はまず、
十人中8、9人までは中国共産党の代弁者であり、
対外工作員であるとみて間違いないと思う。
このアンケートは日本と沖縄との分断工作であると私は見ている。
この林準教授がどんな経緯で琉球大学に招かれたか知らないが、
この人の主張は日本より、沖縄より、むしろ自国ですべきことである。
かつての米軍支配時代に米陸軍第八心理作戦部隊が
沖縄でおこなった日本との分断工作を思い出す。
いま中国は外洋型海軍の充実に莫大な軍事費を投入し、
航空母艦を建造し、原潜もロシアから購入している。
そして北京政府公式見解でも「沖縄は歴史的に中国領」と主張している。
日本政府は公式にそれを否定していない。
おそらく今の福田政権ならコキントーが沖縄よこせ、というと笑顔で上げてしまいそうである。
しかしアンケート調査の結果を鵜呑みにしてはいけない。
アンケート調査のサンプル人数はテーマによるが一般に2000人が妥当らしい。
そして地域、年齢、職業、性別が偏らないことが前提である。
さてこんな記事が昨年出た。琉球新報2007年11月29日の記事から引用。
2007年に、琉球大学法文学部准教授の林泉忠(英国籍在日香港人)が、
沖縄県民意識調査を実施(電話帳から無作為抽出して電話をかける方法で、
18歳以上の沖縄県民を対象に実施、1201人から有効回答を得た。
2005年度より毎年実施)。
結果、沖縄県民の内、自らが日本人ではなく沖縄人であると答えた人は41.6%(2005年度40.6%)、
沖縄が独立すべきだと答えた人は20.6%(2005年度24.9%)であったとされる)。
沖縄県民が自分は日本人ではなく沖縄人であると答えた人が4割もいるとか、
また2割の県民が独立をすべきだと言う回答は本当なのだろうか。
このアンケート電話帳からの無作為抽出というが、本当にそうなのだろうか?
ある特定の年齢層や地域に偏りはなかったのか?
また質問の仕方に何か誘導的な文言はなかったのだろうか?
10年くらい前になろうか、読売新聞社が改憲の叩き台として、
自社憲法草案を発表し話題になったことがあった。
このとき憲法9条の条文にについて、朝日新聞とアンケート調査が行われたが、
結果が大きく異なった。数字は失念したが、読売では9条は改正すべきが多く、
朝日では9条は改正しないほうがよいが上回った。
これは質問の仕方で大きくことなるのだ。
読売・・・「現在の憲法には自衛権が明記されていません。
自衛権は主権国家の権利であり世界中の憲法に明記されています。
現9条を改正し自衛権を明記したほうが良いと思いますか?」
朝日・・・「憲法9条は恒久平和を謳った世界でも素晴らしい憲法条文です。
日本が二度と戦争の道を歩まず、世界平和に貢献するために
憲法9条をこのまま残すべきと考えますか?」
この二つの憲法9条についての質問をみると、
両者とも明らかに一つの答えを期待、誘導する方向性があることに気がつくだろう。
沖縄県の県民意識調査の質問が下記のようなものだったらどうであろう。
例えば「あなたはかつて沖縄が琉球王国として栄えた独立国の末裔として、
現在も琉球民族としての意識を持っていますか?」
また「沖縄県はかつての琉球王国のように、自主独立の国を目指し、
日本やアメリカの支配や影響を脱して、基地の無い平和な国として
独立できたらそのほうがいいですか?」
こういう問いかけであったとしたら、報道のような答えは理解できるだろう。
またこのアンケートを実施した琉球大学の林泉忠という人物だが、
2005年10月25日、朝日新聞紙上に「日中韓 ナショナリズムは時代遅れ」を発表、
高揚する東アジアのナショナリズムを批判しナショナリズム不要論を提唱した。
ナショナリズムの最も激烈に高揚しているのは、彼の母国の中国である。
愛国教育と言う国家主義や民族主義の名の下に、
チベット、新彊(東トルキスタン)、満州などの民族浄化はナチスを凌ぐ。
ナショナリズム不要論をいうなら、どうぞお国へ帰って北京政府に言ってください、である。
日本などナショナリズムは軍国主義みたいな風潮があり、愛国心をいえば右翼扱いの国だ。
むしろ日本はもっとナショナリズムをもって普通の国である。
さらに沖縄はかつて琉球王国として独立していたし、それが薩摩の侵攻を経て、
明治になり琉球処分=沖縄県成立に繋がる経緯を持つ。
そして第二次大戦の激戦地になり、戦後は米軍の支配下にあって、
現在も広大な基地が残されたままになっている。
このような地域的、歴史的背景のなかで、「沖縄人は日本人ではない」とか。
「沖縄は日本から独立すべき」という「県民意識」をクローズアップさせる意図は何か?
私は裏に中国の共産党工作機関の影が見え隠れするのだ。
そもそも日本にいる中国の教育関係者はまず、
十人中8、9人までは中国共産党の代弁者であり、
対外工作員であるとみて間違いないと思う。
このアンケートは日本と沖縄との分断工作であると私は見ている。
この林準教授がどんな経緯で琉球大学に招かれたか知らないが、
この人の主張は日本より、沖縄より、むしろ自国ですべきことである。
かつての米軍支配時代に米陸軍第八心理作戦部隊が
沖縄でおこなった日本との分断工作を思い出す。
いま中国は外洋型海軍の充実に莫大な軍事費を投入し、
航空母艦を建造し、原潜もロシアから購入している。
そして北京政府公式見解でも「沖縄は歴史的に中国領」と主張している。
日本政府は公式にそれを否定していない。
おそらく今の福田政権ならコキントーが沖縄よこせ、というと笑顔で上げてしまいそうである。
仏教と成功哲学
2008年07月13日
前に仏教は宗教ではなく哲学だと述べたことがある。
ある意味仏教は自然科学ですらあると私は思っている。
これについては別の機会に述べる。
今回は先回の「引き寄せの法則」に関連しているが、
J・マーフィーやN・ヒルやヒックス夫妻の話はすでに仏教の中に見出せる、
ということを述べてみたい。
仏教の代表的お経の般若心経はたった262文字に中に、
仏教のエッセンスがすべて凝集されているという。
仏教の真髄は「一切皆空」である。
般若心経はこのことを説明している。
これはこの世の現象は一切実態がないということだ。
「色即是空 空即是色」がそれを物語っている。
これは物理学の質量保存の法則で解釈できる。
例として水の三態性をみるとわかり易い。
水は温度により液体、気体、固体と変化するが、
どの状態でも現象面での決まった形は無い。
色即是空はすべての現象がこれと同じだという。
般若心経で語られているのは認識論であると私は思う。
つまりこの世に善悪も、美醜も、幸不幸も・・・
相対立する一切のものは最初から存在しない。
人間がその感覚器官(五感)に基づく人生で、
勝手に作り上げたものに過ぎないという。
そもそも幸せも不幸も初めから存在しない。
人間が自ら幸せや不幸という存在しないものを
勝手に作り上げ、勝手に喜び、悲しんでいるのだという。
このあたりはJ・マーフィーを初めとした成功哲学にも述べられている。
どんな悲惨な状況や環境の中でも心の持ち方や、
認識の方向性を変えるだけで好転することが可能だという。
逆にいかに恵まれた環境でも、認識の仕方で不幸のどん底にもなる。
だからマーフィーやエイブラハムは感じ方ひとつで生き方や自己実現が可能なら、
自分が望ましいと思う方向に心を常に向けるようにせよ、といっているのだ。
「引き寄せの法則」も人間が意識を向ける方向に行動するから、
当然その意識に呼応したものが目に付くし出会うことになる。
「類は友を呼ぶ」ということはこのことなのだ。
意識が変われば交友関係も変わるし、集まるものも変わってくる。
集まる人や物が変化すればその人の人生も変わるだろう。
ここにプラス思考の重要性があるのだ。
現代の我々が世紀の大発見みたいにベストセラーとなっている欧米の本が、
実は2500年前のインドの地で既に語られていたのである。
しかし現代の仏教界では、
これら人間の幸福につながる重要な教えを現代的に啓蒙できなかった。
なかにはそれを説く優秀な僧侶もいるのかもしれないが、
自殺者のふえる今日、政治と違った側面で、
日本仏教界の堕落振りがうかがえる。
ちょっと待てバカ平和主義者!
2008年07月12日
最近ある弁護士の書いたツアー体験談を読んだ。
たまたま入ったそば屋の雑誌に載っていたのだ。
この弁護士は護憲派で「人権派弁護士」と言われる人らしい。
私の最も嫌いで、軽蔑する人種である。
さてこの方自ら呼びかけてツアーを組んでコスタ・リカ共和国へ行ったのだ。
何故コスタ・リカか?
この国は非武装中立の平和国家だからだそうだ。
実は私はコスタ・リカに海外ボランティアとして2年4ヵ月半暮らしていたのだ。
だからこの国のことは多少は知っているつもりである。
確かにコスタ・リカは非武装中立で軍隊を持たない「平和国家」である。
しかしこの事だけが極端に誇張され、その歴史背景や国情も知らない、
無知でバカな平和憲法真理教の人間が、日本もコスタ・リカを見習うべきだと、
はしゃいでいるのにため息が出るのだ。
まずコスタ・リカは何故非武装中立になったか。
歴史的に政権交代に伴なう度重なる内戦やクーデターで、
国民内部に一種の軍隊アレルギーがあった。
それが軍隊廃止の一番の理由である。
ちなみにコスタ・リカは建国以来一度も対外戦争の経験はない。
コスタ・リカ憲法には自衛権も交戦権も明記(12条)されている。
それによると、有事の際大統領は議会の三分の二以上の賛成を得て
徴兵権と交戦権を復活でき、
アメリカの軍事顧問団の受け入れ協定にも合意しているのだ。
だから日本と事情は異なり、占領軍の押し付け憲法で非武装にされ、
自衛権も認められていない世界でも例の無い欠陥憲法ではない。
コスタ・リカ憲法はその成立背景から内容まで日本国憲法とまったく違うのだ。
また地域安全保障としてアメリカ、中南米諸国との間に
米州相互援助条約へも加盟(四八年)している。
ただし、日米安保と似ており自国の紛争解決に同盟各国は援助派兵してくれるが、
他の同盟各国の紛争には一切の派兵義務がなく、それを条件に条約加盟したそうだ。
これはスイスのような完全な中立とはまったく意味が違う。
アメリカ合衆国や他の複数国と軍事・経済同盟を結んだ形式的中立国である。
しかも先進国からのODAの援助がなければ自立できない中立国である。
経済的自立ができない国が中立を保てるはずが無いのだ。
常備軍、予備役はないが、国境警備隊に似た国家警備隊という警察軍的組織がある。
国家警備隊はいざ有事の際、軍の中核に転換されるので、
実質的には最小限の武装をした予備役と考えられるだろう。
しかもアメリカ国防省の対テロ特殊訓練を受けているのだ。
私もこの国に住んでいるとき、何度かアメリカ軍の装甲車両や兵隊を目撃している。
中立国に他国の軍隊がいるわけがないのに、一時的にせよ「いる」のだ。
平和主義者の人権屋どもはここまでコスタ・リカの実情を知って、
日本もコスタ・リカを見習うべきだと言っているのだろうか?
知っているはずはないだろう。
コスタ・リカを見習うなら、憲法に自衛権を明記し、
いざ有事の際は徴兵制と交戦権を実施し、
日米安保も認めなければならないのだから、
憲法真理教や人権屋のバカが反対しているものばかりである。
むかし高校の英語のY先生が教えてくれた言葉を思い出す。
「物事の表面ばかり(現象面)に目をとらわれていてはダメだよ、
物事の成り立ちや背景など見えないところに事実が隠されているんだから。」
この先生割と好きな先生だったが、今にして思えば組合の闘士だった。
いまこのY先生にこの言葉をそっくりお返ししたい。
Y先生、今も平和憲法、サイコーって言ってるんですかあ?
たまたま入ったそば屋の雑誌に載っていたのだ。
この弁護士は護憲派で「人権派弁護士」と言われる人らしい。
私の最も嫌いで、軽蔑する人種である。
さてこの方自ら呼びかけてツアーを組んでコスタ・リカ共和国へ行ったのだ。
何故コスタ・リカか?
この国は非武装中立の平和国家だからだそうだ。
実は私はコスタ・リカに海外ボランティアとして2年4ヵ月半暮らしていたのだ。
だからこの国のことは多少は知っているつもりである。
確かにコスタ・リカは非武装中立で軍隊を持たない「平和国家」である。
しかしこの事だけが極端に誇張され、その歴史背景や国情も知らない、
無知でバカな平和憲法真理教の人間が、日本もコスタ・リカを見習うべきだと、
はしゃいでいるのにため息が出るのだ。
まずコスタ・リカは何故非武装中立になったか。
歴史的に政権交代に伴なう度重なる内戦やクーデターで、
国民内部に一種の軍隊アレルギーがあった。
それが軍隊廃止の一番の理由である。
ちなみにコスタ・リカは建国以来一度も対外戦争の経験はない。
コスタ・リカ憲法には自衛権も交戦権も明記(12条)されている。
それによると、有事の際大統領は議会の三分の二以上の賛成を得て
徴兵権と交戦権を復活でき、
アメリカの軍事顧問団の受け入れ協定にも合意しているのだ。
だから日本と事情は異なり、占領軍の押し付け憲法で非武装にされ、
自衛権も認められていない世界でも例の無い欠陥憲法ではない。
コスタ・リカ憲法はその成立背景から内容まで日本国憲法とまったく違うのだ。
また地域安全保障としてアメリカ、中南米諸国との間に
米州相互援助条約へも加盟(四八年)している。
ただし、日米安保と似ており自国の紛争解決に同盟各国は援助派兵してくれるが、
他の同盟各国の紛争には一切の派兵義務がなく、それを条件に条約加盟したそうだ。
これはスイスのような完全な中立とはまったく意味が違う。
アメリカ合衆国や他の複数国と軍事・経済同盟を結んだ形式的中立国である。
しかも先進国からのODAの援助がなければ自立できない中立国である。
経済的自立ができない国が中立を保てるはずが無いのだ。
常備軍、予備役はないが、国境警備隊に似た国家警備隊という警察軍的組織がある。
国家警備隊はいざ有事の際、軍の中核に転換されるので、
実質的には最小限の武装をした予備役と考えられるだろう。
しかもアメリカ国防省の対テロ特殊訓練を受けているのだ。
私もこの国に住んでいるとき、何度かアメリカ軍の装甲車両や兵隊を目撃している。
中立国に他国の軍隊がいるわけがないのに、一時的にせよ「いる」のだ。
平和主義者の人権屋どもはここまでコスタ・リカの実情を知って、
日本もコスタ・リカを見習うべきだと言っているのだろうか?
知っているはずはないだろう。
コスタ・リカを見習うなら、憲法に自衛権を明記し、
いざ有事の際は徴兵制と交戦権を実施し、
日米安保も認めなければならないのだから、
憲法真理教や人権屋のバカが反対しているものばかりである。
むかし高校の英語のY先生が教えてくれた言葉を思い出す。
「物事の表面ばかり(現象面)に目をとらわれていてはダメだよ、
物事の成り立ちや背景など見えないところに事実が隠されているんだから。」
この先生割と好きな先生だったが、今にして思えば組合の闘士だった。
いまこのY先生にこの言葉をそっくりお返ししたい。
Y先生、今も平和憲法、サイコーって言ってるんですかあ?
売国政治家と拉致問題
2008年07月11日
前回に続き怒りのブログで御免。
加藤紘一(別記;下等紅一)の「拉致者は北に戻せばよかった」発言は言語道断だが、
しかしでは、日本政府は真剣に北朝鮮に対しどれだけ拉致者を取り戻す努力をしたか。
私個人は小泉総理訪朝は評価するが、
しかし小泉内閣が北に対して拉致者を取り戻す努力を
十分に努力してやってきたかというと、
それはまったく不十分だったと思う。
それは横田夫妻がアメリカのブッシュ大統領に、
拉致問題解決の協力依頼に会いに行った。
ブッシュ大統領は「点数稼ぎ」に良いと思ったのか、
ホワイトハウスで横田夫妻や息子さんと会見した。
このことは何を意味するか?
これは横田夫妻を初めとして拉致被害者家族会が
遅々として進まない拉致問題解決のために、
日本政府はまったく頼りないという思いを訪米で示したのだ。
これに対して小泉元首相は、「米大統領に依頼するのは効果的だ。」
とまったく他人事の発言に私はあきれ返ったことを思い出す。
日本人が無法者国家に誘拐・拉致されてもほとんど関心がなかった日本政府。
小泉ですら、拉致問題の当事者意識は殆ど無いのだ。
家族会が国連や国際人権委員会に行って請願しているのは、
日本政府に任せて置けないくらい何もしないからだ。
このことを恥と感じない日本のすべての政治家。
社民党や共産党など拉致問題に関しては犯罪的ですらある。
無論自民党、民主党の売国奴も同罪だ。
自分の家族が誘拐されて、
他人事みたいな顔できる人間がいるだろうか。
日本以外の民主国家でこんな国民に冷酷な国はないだろう。
福田政権には拉致問題など全く解決する気はないし、
冷血漢・福田自身が最初から関心も興味も無いのだ。
おそらくアメリカが自国民を北朝鮮に拉致誘拐されたら、
即座に第七艦隊を日本海に向け、北に核ミサイルも含め照準をさだめて臨戦態勢をとり、
北に拉致者を帰す様に時限付き要求をするだろう。
何千人の兵士が犠牲になっても拉致者を取り戻すだろう。
日本のようにのらりくらり、やる気があるのかないのか、
北朝鮮に足元みられ、舐められた外交はしないだろう。
私は北朝鮮を見ていてつくづく思うのは、
国際外交の力学的ポイントはなにをおいても軍事力だなあと実感する。
いくら民主的議論が原則といえども、所詮は軍事力がモノを言うのだ。
国民が何百万人も餓死し、着のみ着のまま国外逃亡の絶えない極貧国家が、
核兵器さえ持てば、大国の米中露ですら北の要求を呑まざるを得ない。
アメリカや中国など強大な軍事国家ですら、北朝鮮のわがままを聞くのだ。
国際政治は経済力と軍事力というのはこのことである。
日本が拉致者を取り返すのは日本の軍事力をもってすれば簡単に解決できる。
理屈と実力では・・・。いい加減キレイゴトの政治は止めないか・・・
加藤紘一(別記;下等紅一)の「拉致者は北に戻せばよかった」発言は言語道断だが、
しかしでは、日本政府は真剣に北朝鮮に対しどれだけ拉致者を取り戻す努力をしたか。
私個人は小泉総理訪朝は評価するが、
しかし小泉内閣が北に対して拉致者を取り戻す努力を
十分に努力してやってきたかというと、
それはまったく不十分だったと思う。
それは横田夫妻がアメリカのブッシュ大統領に、
拉致問題解決の協力依頼に会いに行った。
ブッシュ大統領は「点数稼ぎ」に良いと思ったのか、
ホワイトハウスで横田夫妻や息子さんと会見した。
このことは何を意味するか?
これは横田夫妻を初めとして拉致被害者家族会が
遅々として進まない拉致問題解決のために、
日本政府はまったく頼りないという思いを訪米で示したのだ。
これに対して小泉元首相は、「米大統領に依頼するのは効果的だ。」
とまったく他人事の発言に私はあきれ返ったことを思い出す。
日本人が無法者国家に誘拐・拉致されてもほとんど関心がなかった日本政府。
小泉ですら、拉致問題の当事者意識は殆ど無いのだ。
家族会が国連や国際人権委員会に行って請願しているのは、
日本政府に任せて置けないくらい何もしないからだ。
このことを恥と感じない日本のすべての政治家。
社民党や共産党など拉致問題に関しては犯罪的ですらある。
無論自民党、民主党の売国奴も同罪だ。
自分の家族が誘拐されて、
他人事みたいな顔できる人間がいるだろうか。
日本以外の民主国家でこんな国民に冷酷な国はないだろう。
福田政権には拉致問題など全く解決する気はないし、
冷血漢・福田自身が最初から関心も興味も無いのだ。
おそらくアメリカが自国民を北朝鮮に拉致誘拐されたら、
即座に第七艦隊を日本海に向け、北に核ミサイルも含め照準をさだめて臨戦態勢をとり、
北に拉致者を帰す様に時限付き要求をするだろう。
何千人の兵士が犠牲になっても拉致者を取り戻すだろう。
日本のようにのらりくらり、やる気があるのかないのか、
北朝鮮に足元みられ、舐められた外交はしないだろう。
私は北朝鮮を見ていてつくづく思うのは、
国際外交の力学的ポイントはなにをおいても軍事力だなあと実感する。
いくら民主的議論が原則といえども、所詮は軍事力がモノを言うのだ。
国民が何百万人も餓死し、着のみ着のまま国外逃亡の絶えない極貧国家が、
核兵器さえ持てば、大国の米中露ですら北の要求を呑まざるを得ない。
アメリカや中国など強大な軍事国家ですら、北朝鮮のわがままを聞くのだ。
国際政治は経済力と軍事力というのはこのことである。
日本が拉致者を取り返すのは日本の軍事力をもってすれば簡単に解決できる。
理屈と実力では・・・。いい加減キレイゴトの政治は止めないか・・・
売国奴天国・日本
2008年07月11日
最近はニュースも見なくなった。
政治は腹立つことばかりで精神衛生上よくないので、
あえて目を背けてきたが、たまたまネットで目について、
看過できないので書くことにした。
産経Webニュース7月11日より引用。
自民党の加藤紘一元幹事長が
北朝鮮から帰国した拉致被害者5人について
「(北朝鮮に)返した方がよかった」と発言したことに対し、
拉致被害者の地村保志さん(53)の父保さん(81)が10日、
元幹事長あてに「本当に腹が立つ」などとする抗議文を送った。
何をかいわんやである。
拉致被害者でなくとも腹が立つ、というかこれが日本の政治家か、と唖然である。
この加藤紘一はかつて小泉純一郎元首相と山崎拓らとともにYKKトリオと呼ばれ、
次期総理を期待されていた連中である。
しかしすでに彼らは過去の人になり、小泉を除き総理の椅子は水泡に帰しているのである。
それにしても加藤、山拓の政治姿勢はほとんど日本人のものとは思えない。
彼らは中国や北朝鮮や韓国など日本の仮想敵国の政治家である。
自民党には他にも筋金入りの売国奴がウジャウジャいる。
河野洋平(江沢民の傭兵といわれた親中売国奴)
二階俊博(江沢民の銅像を全国に作れというバカを垂れ流し、
社保庁の失敗作・グリーンピア南紀を香港企業にタダで供与する)
古賀誠(売国奴の親分・野中広務の後継者、日中友好議連の主要メンバー)
ほのかにも現首相のチンパンジーや森元総理、中川秀直、額賀福志郎、谷垣禎一など
自民党内売国奴には枚挙に暇が無い。
自民党は保守政党ではないことをこれらの人びとが証明している。
しかしこんなろくでない連中が日本の国政の中枢にいるのは、
彼らを選ぶ選挙民がいるからで、言い換えると民主国家日本の
こいつらの地元民がみんなバカなのである。
所詮「カニは自分の甲羅に似せて穴を掘る」と同じで、
国民のレベルに比例したレベルの政治家しか出ないのである。
やはり我々国民の政治レベルの低さが問題である。
さらに驚いたのは日本の殆どのマスコミはこのことを報じない。
報じたのは右翼と言われる産経だけである。
朝日、毎日などはもともと反日姿勢で、
中国など共産圏に軸足を置いているので理解できる。
読売もかつての日共党員ナベツネの左旋回で、社の論調の変化はわかる。
また沖縄のニ大新聞も殆ど反日反米親中,親北朝鮮なので理解できる。
これらのマスゴミは加藤紘一などの売国奴擁護派である。
しかしNHKなどなにが公共放送か、
ふざけるなwこんな公共放送などなくなればいい。
NHKはかつても拉致問題はあたかも噂か右翼の捏造で、
そんなもの無いかのような報道をしてきた札付きである。
まったく反省はない。しかも日中記者交換条約で共惨国家・中国の言いなりである。
チベットや新彊の大逆殺も報道しない。逆に中国に媚びる報道は嬉々としてやる。
NHKは共産主義国家の味方である。
こんな報道の偏った自称「公共放送」など必要ない。
公共放送と言うのはいわば、偽装表示で国民を騙しているのと同じだ。
受信料という名の擬似税金を詐取する偽善放送局。
受信料を詐取して売国行為を平然とやっている。
私は最近ではテレビ自体ほとんど見ないので、
NHKがあろうがなかろうがなんら困らない。
緊急の災害時にもNHKがなくても民法があるし、ラジオもあるしインターネットもある。
これらが使えないならNHKも機能しない。NHKの必要性はほとんどない。
少なくとも私個人は。
NHKは即刻民営化するか、国営放送にすればよい。
日本には日本を愛し、日本人の国益を第一に優先して考える政治風土が失われている。
今の日本は政治もマスコミも教育も亡国への奈落の道をひた走っているかに見える。
私は間違っているのか?
政治は腹立つことばかりで精神衛生上よくないので、
あえて目を背けてきたが、たまたまネットで目について、
看過できないので書くことにした。
産経Webニュース7月11日より引用。
自民党の加藤紘一元幹事長が
北朝鮮から帰国した拉致被害者5人について
「(北朝鮮に)返した方がよかった」と発言したことに対し、
拉致被害者の地村保志さん(53)の父保さん(81)が10日、
元幹事長あてに「本当に腹が立つ」などとする抗議文を送った。
何をかいわんやである。
拉致被害者でなくとも腹が立つ、というかこれが日本の政治家か、と唖然である。
この加藤紘一はかつて小泉純一郎元首相と山崎拓らとともにYKKトリオと呼ばれ、
次期総理を期待されていた連中である。
しかしすでに彼らは過去の人になり、小泉を除き総理の椅子は水泡に帰しているのである。
それにしても加藤、山拓の政治姿勢はほとんど日本人のものとは思えない。
彼らは中国や北朝鮮や韓国など日本の仮想敵国の政治家である。
自民党には他にも筋金入りの売国奴がウジャウジャいる。
河野洋平(江沢民の傭兵といわれた親中売国奴)
二階俊博(江沢民の銅像を全国に作れというバカを垂れ流し、
社保庁の失敗作・グリーンピア南紀を香港企業にタダで供与する)
古賀誠(売国奴の親分・野中広務の後継者、日中友好議連の主要メンバー)
ほのかにも現首相のチンパンジーや森元総理、中川秀直、額賀福志郎、谷垣禎一など
自民党内売国奴には枚挙に暇が無い。
自民党は保守政党ではないことをこれらの人びとが証明している。
しかしこんなろくでない連中が日本の国政の中枢にいるのは、
彼らを選ぶ選挙民がいるからで、言い換えると民主国家日本の
こいつらの地元民がみんなバカなのである。
所詮「カニは自分の甲羅に似せて穴を掘る」と同じで、
国民のレベルに比例したレベルの政治家しか出ないのである。
やはり我々国民の政治レベルの低さが問題である。
さらに驚いたのは日本の殆どのマスコミはこのことを報じない。
報じたのは右翼と言われる産経だけである。
朝日、毎日などはもともと反日姿勢で、
中国など共産圏に軸足を置いているので理解できる。
読売もかつての日共党員ナベツネの左旋回で、社の論調の変化はわかる。
また沖縄のニ大新聞も殆ど反日反米親中,親北朝鮮なので理解できる。
これらのマスゴミは加藤紘一などの売国奴擁護派である。
しかしNHKなどなにが公共放送か、
ふざけるなwこんな公共放送などなくなればいい。
NHKはかつても拉致問題はあたかも噂か右翼の捏造で、
そんなもの無いかのような報道をしてきた札付きである。
まったく反省はない。しかも日中記者交換条約で共惨国家・中国の言いなりである。
チベットや新彊の大逆殺も報道しない。逆に中国に媚びる報道は嬉々としてやる。
NHKは共産主義国家の味方である。
こんな報道の偏った自称「公共放送」など必要ない。
公共放送と言うのはいわば、偽装表示で国民を騙しているのと同じだ。
受信料という名の擬似税金を詐取する偽善放送局。
受信料を詐取して売国行為を平然とやっている。
私は最近ではテレビ自体ほとんど見ないので、
NHKがあろうがなかろうがなんら困らない。
緊急の災害時にもNHKがなくても民法があるし、ラジオもあるしインターネットもある。
これらが使えないならNHKも機能しない。NHKの必要性はほとんどない。
少なくとも私個人は。
NHKは即刻民営化するか、国営放送にすればよい。
日本には日本を愛し、日本人の国益を第一に優先して考える政治風土が失われている。
今の日本は政治もマスコミも教育も亡国への奈落の道をひた走っているかに見える。
私は間違っているのか?
