自由主義神学
2008年07月23日
冷戦終了後の1990年頃から「第ニ次」民族自決時代が始まった、と私は見ている。
これはかつての帝国主義時代の植民地独立運動とはちがい、
東西冷戦の資本主義vs共産主義イデオロギー対立がソ連の崩壊カラ終焉し、
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教同士の対立構図が
世界的に顕著になったことだ。ここでは民族主義=原理宗教であり、
かつてのイデオロギーが宗教にとってかわった。
その一神教もいわゆる原理主義が問題である。
原理主義とはたとえばキリスト教では聖書の一字一句すべてを
言葉通りに信じて疑わない頑なな非妥協の信仰心である。
16世紀のマルチン・ルッターの宗教改革以降、
改革派はカトリックに抵抗するという意味でプロテスタントと呼ばれた。
プロテスタントの教会宗派は何百派閥にも分裂し、
ニューヨークだけでも約200以上の教会宗派があるらしい。
さて前置きが長くなったが、自由主義神学が宗教改革以降、
自然科学の発展とともにキリスト教のなかにも表れ始めた。
自然科学の研究結果を事実として、謙虚に受け入れる宗教的思考である。
自由主義神学とは、カトリックの教条的聖書解釈ではなく、
プロテスタント側の新しい聖書解釈で、聖書に記述されていることが、
必ずしもすべてが正しいという立場はとらない。
たとえば旧約聖書の記述にある特殊天地創造説やノアの箱舟やバベルの塔、さらにはマリアの処女懐妊などは事実ではなく、聖書に描かれた寓意的な文学的解釈としている。
だから彼らは進化論をも受け入れている。
特に19世紀のドイツ近代神学の父と呼ばれるシュライエルマッハーは、聖書の研究を通して聖書の成立は、それより以前の西アジアの神話や伝承を基盤に成立し、聖書編纂には多くの聖書記者の存在があり、決して神が直接関与して成立したものではないと主張した。
これは当時としては驚愕の主張である。
ある意味キリスト教の基盤をなす聖書を否定しているとも受け取られるからだ。神学者によってはシュライエルマッハーや自由主義神学は、キリスト教ではないとさえ、言い切るのだ。
シュライエルマッハー
しかしこのあたりがさすがドイツ人だなあ、と思う。
実際ガリレオやコペルニクスなどの地球中心主義否定論も
事実を冷静に観察すれば認めざるをえないのだ。
同じくメンデルの遺伝の法則も、ダーウィンの進化論も、
客観的事実を繋ぎあわせると、どうしても聖書の説明では無理が生じるのだ。
またインマニュエル・カントは三十年戦争を考察して、
「どんなに偉大な宗教でも、所詮は個人の問題に過ぎない。」と喝破している。
これも当時としてはすごい主張であり、真理を付いている。
宗教で国家間が戦争するなどアホのやることだと言ってるのだ。
しかし21世紀の現代でもアホは絶えず繁殖し続けている。
しかし新たなプロテスタント教会には自由主義神学に反発して、
キリスト教原理主義のプロテスタント教会も多数発生している。
アメリカでは自由主義神学系の教会は減少傾向にあり、
むしろ原理主義の教会のほうが急増しているという。
ブッシュ大統領の強力な支持基盤のクリスチャン・コアリションも原理主義教会である。
このことがアメリカをして、もともと原理主義的傾向の強いイスラムとの対立を
激化させているのではないだろうか。原理主義は非妥協、非寛容の思想である。
原理主義を信仰する人間が増えれば、戦争も増える。
いつまでたっても人間そのものは進歩しないものである。
自由主義神学とは・・・
絶対的な宗教的価値観を相対化した革命的神学だともいえる。
しかし時代は繰り返すの言葉通りではないが、良きつけ悪しきにつけ、
人類は再び昔に回帰するものなのかもしれない。
これはかつての帝国主義時代の植民地独立運動とはちがい、
東西冷戦の資本主義vs共産主義イデオロギー対立がソ連の崩壊カラ終焉し、
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教同士の対立構図が
世界的に顕著になったことだ。ここでは民族主義=原理宗教であり、
かつてのイデオロギーが宗教にとってかわった。
その一神教もいわゆる原理主義が問題である。
原理主義とはたとえばキリスト教では聖書の一字一句すべてを
言葉通りに信じて疑わない頑なな非妥協の信仰心である。
16世紀のマルチン・ルッターの宗教改革以降、
改革派はカトリックに抵抗するという意味でプロテスタントと呼ばれた。
プロテスタントの教会宗派は何百派閥にも分裂し、
ニューヨークだけでも約200以上の教会宗派があるらしい。
さて前置きが長くなったが、自由主義神学が宗教改革以降、
自然科学の発展とともにキリスト教のなかにも表れ始めた。
自然科学の研究結果を事実として、謙虚に受け入れる宗教的思考である。
自由主義神学とは、カトリックの教条的聖書解釈ではなく、
プロテスタント側の新しい聖書解釈で、聖書に記述されていることが、
必ずしもすべてが正しいという立場はとらない。
たとえば旧約聖書の記述にある特殊天地創造説やノアの箱舟やバベルの塔、さらにはマリアの処女懐妊などは事実ではなく、聖書に描かれた寓意的な文学的解釈としている。
だから彼らは進化論をも受け入れている。

これは当時としては驚愕の主張である。
ある意味キリスト教の基盤をなす聖書を否定しているとも受け取られるからだ。神学者によってはシュライエルマッハーや自由主義神学は、キリスト教ではないとさえ、言い切るのだ。
シュライエルマッハー
しかしこのあたりがさすがドイツ人だなあ、と思う。
実際ガリレオやコペルニクスなどの地球中心主義否定論も
事実を冷静に観察すれば認めざるをえないのだ。
同じくメンデルの遺伝の法則も、ダーウィンの進化論も、
客観的事実を繋ぎあわせると、どうしても聖書の説明では無理が生じるのだ。
またインマニュエル・カントは三十年戦争を考察して、
「どんなに偉大な宗教でも、所詮は個人の問題に過ぎない。」と喝破している。
これも当時としてはすごい主張であり、真理を付いている。
宗教で国家間が戦争するなどアホのやることだと言ってるのだ。
しかし21世紀の現代でもアホは絶えず繁殖し続けている。
しかし新たなプロテスタント教会には自由主義神学に反発して、
キリスト教原理主義のプロテスタント教会も多数発生している。
アメリカでは自由主義神学系の教会は減少傾向にあり、
むしろ原理主義の教会のほうが急増しているという。
ブッシュ大統領の強力な支持基盤のクリスチャン・コアリションも原理主義教会である。
このことがアメリカをして、もともと原理主義的傾向の強いイスラムとの対立を
激化させているのではないだろうか。原理主義は非妥協、非寛容の思想である。
原理主義を信仰する人間が増えれば、戦争も増える。
いつまでたっても人間そのものは進歩しないものである。
自由主義神学とは・・・
絶対的な宗教的価値観を相対化した革命的神学だともいえる。
しかし時代は繰り返すの言葉通りではないが、良きつけ悪しきにつけ、
人類は再び昔に回帰するものなのかもしれない。
Posted by トラネコ at 08:00│Comments(5)
│思想・宗教
この記事へのコメント
早速読ませていただきました。
「聖書の研究を通して聖書の成立は、それより以前の西アジアの神話や伝承を基盤に成立し、聖書編纂には多くの聖書記者の存在があり、 決して神が直接関与して成立したものではないと主張した。」
上の指摘は、カトリック教会の中では、今は常識ですねといいますか、「聖書は神の啓示というか、インスピレーションを、聖霊を通じて受けて記者によって書かれた。」と解釈していますね。
先ほどリンクしました松原教会の司祭の説明では、「何故新約聖書はキリストの刑死後30年から50年経過してから書かれたか?」ということに対して、最初の原始教会は口述で伝えようとした形跡があるとしています。ですからカトリックはその様式を今も残しており、聖書以外に、聖伝、つまり2000年近く伝承されてきた言い伝えや習慣も重視します。この点がプロテスタントとの大きな違いで、古臭いと思われがちなカトリックが意外にフレキシブルでリベラルなのはこの姿勢にあると思います。
それからもう一つの大きな違いは、聖書の解釈はバチカンが一手に管理しているということです。そして教皇の無謬説があって、「教皇は間違わない」というルールもあります。そうするとどうなるかといいますと、間違わないためには慎重にならざるを得なくて、信仰のドグマ(教義)の宣言なんぞは数世紀はざらに経過してしまいます。
マリアの処女受胎は、そもそもそれがキリスト教の出発点ですから、「始めにマリアの処女受胎ありき」ですが(マリア信仰は、サンタクロースと同様にどこかの伝統のすりこみだとも言われていますが)、マリアの被昇天(アスンシオン)は、これが信仰のドグマとして宣言されたのは、なんと1950年なのです。1900年間、安全性を確かめていたと、つまりこの世にはマリアの遺骸は存在しないことを確認してからの宣言です。
もう一つ、バチカンが聖書解釈を一手に管理するということは、カトリックの分裂を防いでいるといえます。マルチン・ルターが、「人間は糞であるから、人間である教皇も糞であり、したがって糞の聖書解釈やオーソライズする聖伝は無効である。」と宣言して、聖書のみが神の言葉を伝える手段として、各人が神の啓示を受けるに任せたというのが、プロテスタントのスタイルになっています。
そうなるとどうなるかはお分かりですね。聖書の解釈は読む人によって異なってくるわけですから、様々な解釈が流通し、それにしたがって教会も分裂していくわけです。私は6歳から15歳まで日本基督教団の教会に通っていましたが、馬鹿くさくて行くのをやめました。今思えば、悩む人の状況に合うような聖書のフレーズをつなぎ合わせたパッチワークの人生相談活動だったんですね。ですから現時点では世界にプロテスタントの会派5万とも6万とも言われており、現在も増殖中です。
ちなみに日本基督教団は、戦時中に政府の指導で33団体が合併して出来た会派らしいのです。私の通っていた神戸市長田区の教会付属幼稚園は、どうなっているかとHPで探しましたら、韓国系のプロテスタントビジネス企業の経営となっていました。「危ないですねぇー。」
そのうちにもっと面白い『開放の神学』についてどこかに書きますね。
「聖書の研究を通して聖書の成立は、それより以前の西アジアの神話や伝承を基盤に成立し、聖書編纂には多くの聖書記者の存在があり、 決して神が直接関与して成立したものではないと主張した。」
上の指摘は、カトリック教会の中では、今は常識ですねといいますか、「聖書は神の啓示というか、インスピレーションを、聖霊を通じて受けて記者によって書かれた。」と解釈していますね。
先ほどリンクしました松原教会の司祭の説明では、「何故新約聖書はキリストの刑死後30年から50年経過してから書かれたか?」ということに対して、最初の原始教会は口述で伝えようとした形跡があるとしています。ですからカトリックはその様式を今も残しており、聖書以外に、聖伝、つまり2000年近く伝承されてきた言い伝えや習慣も重視します。この点がプロテスタントとの大きな違いで、古臭いと思われがちなカトリックが意外にフレキシブルでリベラルなのはこの姿勢にあると思います。
それからもう一つの大きな違いは、聖書の解釈はバチカンが一手に管理しているということです。そして教皇の無謬説があって、「教皇は間違わない」というルールもあります。そうするとどうなるかといいますと、間違わないためには慎重にならざるを得なくて、信仰のドグマ(教義)の宣言なんぞは数世紀はざらに経過してしまいます。
マリアの処女受胎は、そもそもそれがキリスト教の出発点ですから、「始めにマリアの処女受胎ありき」ですが(マリア信仰は、サンタクロースと同様にどこかの伝統のすりこみだとも言われていますが)、マリアの被昇天(アスンシオン)は、これが信仰のドグマとして宣言されたのは、なんと1950年なのです。1900年間、安全性を確かめていたと、つまりこの世にはマリアの遺骸は存在しないことを確認してからの宣言です。
もう一つ、バチカンが聖書解釈を一手に管理するということは、カトリックの分裂を防いでいるといえます。マルチン・ルターが、「人間は糞であるから、人間である教皇も糞であり、したがって糞の聖書解釈やオーソライズする聖伝は無効である。」と宣言して、聖書のみが神の言葉を伝える手段として、各人が神の啓示を受けるに任せたというのが、プロテスタントのスタイルになっています。
そうなるとどうなるかはお分かりですね。聖書の解釈は読む人によって異なってくるわけですから、様々な解釈が流通し、それにしたがって教会も分裂していくわけです。私は6歳から15歳まで日本基督教団の教会に通っていましたが、馬鹿くさくて行くのをやめました。今思えば、悩む人の状況に合うような聖書のフレーズをつなぎ合わせたパッチワークの人生相談活動だったんですね。ですから現時点では世界にプロテスタントの会派5万とも6万とも言われており、現在も増殖中です。
ちなみに日本基督教団は、戦時中に政府の指導で33団体が合併して出来た会派らしいのです。私の通っていた神戸市長田区の教会付属幼稚園は、どうなっているかとHPで探しましたら、韓国系のプロテスタントビジネス企業の経営となっていました。「危ないですねぇー。」
そのうちにもっと面白い『開放の神学』についてどこかに書きますね。
Posted by サンクリス通信 at 2013年06月06日 14:54
サンクリス通信様
なるほどカトリックの神学姿勢は柔軟なんですね。私はかなり保守的で頑固なのかと思っていましたから。離婚した前の妻がカトリックだったので、あまりいい印象をもっていませんでしたが、これは個人的な問題ですね(笑)。
ただマルチン・ルッターの宗教改革も、それはそれで理由があるのはわかりますよね。やはり教会が特権化し権力をもち、政治的問題を抱えていたのは事実でしょうから、真面目に信仰をするものが矛盾を感じるのは当然です。
ただプロテスタントが星の数ほどの宗派に分かれてしまったのは、仏教もまったく同じ現象ですし、ま、所詮は人間が考えることなんでしょう。だから私は宗教というか、信仰はカントのいうように個人的な問題にとどめておくことが重要だと考えます。歴史の解釈と同じで、人の立場や知性や見識や経験によっても、考え方も捉え方も変って来ます。ルッターの『人間は糞であるから・・』も同感です、教皇も所詮人間ですし。これがまた人間社会ですしね。人も民族も皆違っていて当たり前ということでしょうね。
なるほどカトリックの神学姿勢は柔軟なんですね。私はかなり保守的で頑固なのかと思っていましたから。離婚した前の妻がカトリックだったので、あまりいい印象をもっていませんでしたが、これは個人的な問題ですね(笑)。
ただマルチン・ルッターの宗教改革も、それはそれで理由があるのはわかりますよね。やはり教会が特権化し権力をもち、政治的問題を抱えていたのは事実でしょうから、真面目に信仰をするものが矛盾を感じるのは当然です。
ただプロテスタントが星の数ほどの宗派に分かれてしまったのは、仏教もまったく同じ現象ですし、ま、所詮は人間が考えることなんでしょう。だから私は宗教というか、信仰はカントのいうように個人的な問題にとどめておくことが重要だと考えます。歴史の解釈と同じで、人の立場や知性や見識や経験によっても、考え方も捉え方も変って来ます。ルッターの『人間は糞であるから・・』も同感です、教皇も所詮人間ですし。これがまた人間社会ですしね。人も民族も皆違っていて当たり前ということでしょうね。
Posted by トラネコ
at 2013年06月06日 23:34

この数年間、考えていることがあります。
結論から先に申しますと、もし私がメキシコ社会にトラバーユしないで、日本社会に残っていたならば、カトリックはおろか、プロテスタントにも舞い戻らなかっただろうということです。
信仰心と社会(ソサエティー)は、キリスト教とキリスト教社会の関係と同じで、切り離して考えることはできないのですが、同一ではないと思い始めております。
「リオのカーニバルとあなたのキリスト教信仰との関係は?」と聞かれても、歴史的成り立ちは説明できても、それ以上は答えられないのです。
トラネコさんとのやりとりは、非常にこういった考察に役に立ちます。
私の意見表明は、まだフェースブックで様子を見る段階ですが、ブログの利用についても学ばせていただいております。
しかし、『放・尿』と『おしっこをかける』の違いの文化的考察も面白そうですが、とても時間がありませんね。私のDT|Iブログは米国発信みたいなのですが、このTi-Daブログはどちらのお国なのでしょうかね?
結論から先に申しますと、もし私がメキシコ社会にトラバーユしないで、日本社会に残っていたならば、カトリックはおろか、プロテスタントにも舞い戻らなかっただろうということです。
信仰心と社会(ソサエティー)は、キリスト教とキリスト教社会の関係と同じで、切り離して考えることはできないのですが、同一ではないと思い始めております。
「リオのカーニバルとあなたのキリスト教信仰との関係は?」と聞かれても、歴史的成り立ちは説明できても、それ以上は答えられないのです。
トラネコさんとのやりとりは、非常にこういった考察に役に立ちます。
私の意見表明は、まだフェースブックで様子を見る段階ですが、ブログの利用についても学ばせていただいております。
しかし、『放・尿』と『おしっこをかける』の違いの文化的考察も面白そうですが、とても時間がありませんね。私のDT|Iブログは米国発信みたいなのですが、このTi-Daブログはどちらのお国なのでしょうかね?
Posted by サンクリス通信 at 2013年06月07日 00:03
サンクリス通信
宗教って何なんでしょうかね?
私は前にも申し上げましたように、無神論者ではありませんが、特定の宗教を信仰しているわけでは有りません。あえて興味からいえば仏教、なかでも禅宗と密教に関心はあります。聖書も昔はかなり読みました。モーゼのエキソダスは夢中で読み通しました。ヨハネの福音書も好きです。結論的にいえば私にとっての宗教は人生の道しるべを示す指針でしょうか。各人に各信仰があっていいですね。
てぃーだブログは沖縄が本拠地です。だからですかね、言論規制が異常なのは・・・
宗教って何なんでしょうかね?
私は前にも申し上げましたように、無神論者ではありませんが、特定の宗教を信仰しているわけでは有りません。あえて興味からいえば仏教、なかでも禅宗と密教に関心はあります。聖書も昔はかなり読みました。モーゼのエキソダスは夢中で読み通しました。ヨハネの福音書も好きです。結論的にいえば私にとっての宗教は人生の道しるべを示す指針でしょうか。各人に各信仰があっていいですね。
てぃーだブログは沖縄が本拠地です。だからですかね、言論規制が異常なのは・・・
Posted by トラネコ
at 2013年06月07日 07:32

トラネコ様、
先ほど、YouTubeで慶応大学講師の竹田恒泰さんの古事記に関する講演を見ていて、彼の『マリアの処女懐胎』の解釈が非常に気に入りましたので、このエントリーのコメントにリンクを貼り付けようとして、寄り道してしまいました。(なんだかんだと2時間ぐらい)
私は彼のファンですが、最近は、旧約聖書の創世記の部分を古事記に置き換えるという妄想も頭に浮かんできます。
彼の動画のリンクは以下のとおりです。もうごらんになって入ればご失念願います。
『http://www.youtube.com/watch?v=2R63xtmtnUg』
トインビーの、「12歳か13歳までに神話を学ばなかった国は100年以内に滅びている」という引用には、『目から鱗』が落ちる感じでした。(歴史に晩生な私なのです)
それから、「事実と真実は違う」とか、「存在を示すことは、存在しないことを示すよりも簡単」といった見方は的を得ていると思います。コンテキストは違いますが、冤罪事件を見ますと、「やっていない!」ことを認めさせるのは大変なことですからね。
とにかく彼の、『マリアの処女受胎』についての、「キリストが神の子であることの前提」という見方は正しいと思います。
ところで最近は、宗教学者の山折哲雄さん、この竹田恒泰さん、そして小林よしのりさんの漫画から、「旧約聖書の創世記のノアの箱舟までを古事記に置き換えていたならば、日本のキリスト教徒の数はもっと増えていた。」という考えに確信を持ち始めております。
もっとも今の世は、私も含めて、神話はまあ日教組のせいにしたとしても、哲学を学ばないし、興味を持たない人間が蔓延しているのですね。これは日本やラ米だけではなくて、欧米でも同じようで、「私たちは何故生きているのか、それともどうして生かされているのか」を考えないので、宗教の危機といわれる状況に直面しているそうです。
そして哲学無しの宗教は、「私は神から直接お告げを受けたのだ!」と叫ぶ教祖様のカルト宗教になるわけですね。
30年ほど前に、テレビのニュース番組で、ある貧しい農村の『処女受胎』騒動の顛末を見たことを思い出しました。15歳の少女が妊娠したのですが、彼女が、「夢の中で白い服を来た若者が出てきて・・・した・・・」と語ったことから、村を2分する大騒ぎとなっていました。もちろん一方は、「マリア様の再現だから、お祭りだ・・・・」という肯定派でしたが、彼女のご両親や親戚が加わっていたかどうかは、覚えておりません。しかしもう一方は、「村の恥だからもう止めてくれ!!!」と絶叫していた農民が代表だと思います。
哲学の無い庶民の信仰は、この程度のものです。
カトリックの神学校は、義務教育の中学を終えた若者が入学しますので、最短距離は大学院卒ぐらいの25歳で司祭となるそうですが、一般教養はもちろんですが、神学はもちろんですが、哲学もみっちりと勉強させられるようです。それに比べると、プロテスタントの牧師は、聖書講座みたいな研修会に数年参加することで伝道師になるところが多いようです。ですから人生の局面局面にあわせた聖書の句のパッチワークでお話が出来る人材が要件みたいです。これはメキシコの話ですが、日本の私が行っていたプロテスタントの教会(関学の神学部がバックにありましたからね)はもう少しまじめだったように思います。
先ほど、YouTubeで慶応大学講師の竹田恒泰さんの古事記に関する講演を見ていて、彼の『マリアの処女懐胎』の解釈が非常に気に入りましたので、このエントリーのコメントにリンクを貼り付けようとして、寄り道してしまいました。(なんだかんだと2時間ぐらい)
私は彼のファンですが、最近は、旧約聖書の創世記の部分を古事記に置き換えるという妄想も頭に浮かんできます。
彼の動画のリンクは以下のとおりです。もうごらんになって入ればご失念願います。
『http://www.youtube.com/watch?v=2R63xtmtnUg』
トインビーの、「12歳か13歳までに神話を学ばなかった国は100年以内に滅びている」という引用には、『目から鱗』が落ちる感じでした。(歴史に晩生な私なのです)
それから、「事実と真実は違う」とか、「存在を示すことは、存在しないことを示すよりも簡単」といった見方は的を得ていると思います。コンテキストは違いますが、冤罪事件を見ますと、「やっていない!」ことを認めさせるのは大変なことですからね。
とにかく彼の、『マリアの処女受胎』についての、「キリストが神の子であることの前提」という見方は正しいと思います。
ところで最近は、宗教学者の山折哲雄さん、この竹田恒泰さん、そして小林よしのりさんの漫画から、「旧約聖書の創世記のノアの箱舟までを古事記に置き換えていたならば、日本のキリスト教徒の数はもっと増えていた。」という考えに確信を持ち始めております。
もっとも今の世は、私も含めて、神話はまあ日教組のせいにしたとしても、哲学を学ばないし、興味を持たない人間が蔓延しているのですね。これは日本やラ米だけではなくて、欧米でも同じようで、「私たちは何故生きているのか、それともどうして生かされているのか」を考えないので、宗教の危機といわれる状況に直面しているそうです。
そして哲学無しの宗教は、「私は神から直接お告げを受けたのだ!」と叫ぶ教祖様のカルト宗教になるわけですね。
30年ほど前に、テレビのニュース番組で、ある貧しい農村の『処女受胎』騒動の顛末を見たことを思い出しました。15歳の少女が妊娠したのですが、彼女が、「夢の中で白い服を来た若者が出てきて・・・した・・・」と語ったことから、村を2分する大騒ぎとなっていました。もちろん一方は、「マリア様の再現だから、お祭りだ・・・・」という肯定派でしたが、彼女のご両親や親戚が加わっていたかどうかは、覚えておりません。しかしもう一方は、「村の恥だからもう止めてくれ!!!」と絶叫していた農民が代表だと思います。
哲学の無い庶民の信仰は、この程度のものです。
カトリックの神学校は、義務教育の中学を終えた若者が入学しますので、最短距離は大学院卒ぐらいの25歳で司祭となるそうですが、一般教養はもちろんですが、神学はもちろんですが、哲学もみっちりと勉強させられるようです。それに比べると、プロテスタントの牧師は、聖書講座みたいな研修会に数年参加することで伝道師になるところが多いようです。ですから人生の局面局面にあわせた聖書の句のパッチワークでお話が出来る人材が要件みたいです。これはメキシコの話ですが、日本の私が行っていたプロテスタントの教会(関学の神学部がバックにありましたからね)はもう少しまじめだったように思います。
Posted by サンクリス通信 at 2013年06月09日 12:05