てぃーだブログ › トラネコ日記 › 美術 › 時間を描いた未来派

時間を描いた未来派

2008年11月12日

第一次世界大戦は人類に劇的な価値観の転換をさせた。
産業革命以降ヨーロッパでは産業技術の一大革新とともに、大量生産システムが確立し、資本主義が急速に発展した。人々時間を描いた未来派の暮らしや生活スタイルも変わりつつあった。反面資本主義の急速な発展は資源と市場を海外に求めて、列強の植民地争奪戦になった。
そして世界初の総力戦である第一次世界大戦が勃発した。
この戦争は産業テクノロジーが人類の暮らしを向上させるのとは逆に、人類と文明の殺戮と破壊をももたらした。ここに価値観の矛盾というひずみが文明の暗部を支配し始めた。
第一次世界大戦で今日の近代兵器である、戦車、飛行機、潜水艦、毒ガス兵器などがすべて登場した。これらは当時のテクノロジーの粋を集めた最新兵器であった。
芸術の世界では印象派以降、表現主義芸術が主流となっていく。表現主義芸術とは、キュビズム、フォービズム、抽象主義、ドイツ表現主義などの総称である。そのような20世紀初頭の不安定な時代の中で、イタリアからは産業技術の発展の影響を受けた芸術運動が生まれた。

未来派である。

時間を描いた未来派イタリア美術におけるアカデミズムに反発し、近代性や科学技術、機械の力などを表現の主体にするというもの。
1909年、イタリアの詩人フィリッポ・マリネッティ(写真)がフランスの新聞「フィガロ」に「未来派宣言」を発表。彼はその中で美術家に必要なのは勇気、大胆、反乱であるとし、現代において新しい美とは「速度の美」であると、自動車や飛行機など20世紀が生んだ新しい交通手段を絶賛し、急速に進歩を続ける工業などの産業テクノロジーばかりでなく、軍国主義、愛国主義やそこから生まれる戦争をも称える過激な思想へと発展した。
そこからイタリア・ファシズムの代名詞ムッソリーニが生まれイタリアは恐怖の全体主義の時代へと入っていったのだった。



さて思想的には政治と密着した危険なものであったが、表現方法や発想には現代と関連した斬新なスタイルを生み出した。そして未来派は美術のみならず、舞台芸術、演劇、音楽、さらに漫画などのサブカルチュアへの影響も大きく認められる。

時間を描いた未来派

            ジャコモ・バルラ「綱に引かれた犬のダイナミズム」

この作品は美術の教科書にもよく紹介されており、ご覧になった方々も多いことと思う。
バルラは光や運動や速度といったダイナミックなモチーフをテーマに描いた。
この犬の歩く足の連続性の表現は現在の漫画においてよく用いられているが、原点はこの作品であった。しかしこの作品のさらに原点と言えるものが実はあるのだ。この作品の制作された1912年の一年前にマルセル・デュシャンが発表したキュビズム作品で、「階段を下りる女」(写真左下)である。

時間を描いた未来派時間を描いた未来派 一般に音楽は時間芸術と言われ、音の奏でる時間経過が鑑賞の対象になるのに対し、美術は二次元(平面)もしくは三次元(立体)の空間に表現された空間芸術といわれる。
ここに上げた二つの作品もそうだが、未来派は音楽的な時間の推移を空間に表現することを制作テーマとしていた。ボッチョーニは画家であったが、絵画ではそれが成功しつつあったが、立体でいかに 表現するかに苦心した人だった。それが右の「空間における連続性の唯一の形態」作品である。 抽象絵画の先駆者であるワシリー・カンディンスキーも音楽を絵画に取り入れた最初の人だったが、彼の場合は音楽のリズム、ハーモニーといった音そのものの躍動感の表現に力点をおいた。未来派の芸術家は時間の流れの表現をいかにすればよいかに制作の主眼をおいた。

時間を描いた未来派

            ボッツィオーニ「サッカー選手のダイナミズム」 

ボツィオーニ(ボッチョーニとも書く)は激しいサッカーの試合風景なのだろうが、ここまでくるともはや具象絵画ではなく抽象絵画の領域である。作者のウンベルト・ボッツィオーニは共産主義者で激しいアナーキズム(無政府主義者)であったと言われる。第一次大戦に参加するも前線で落馬し除隊後それがもとで亡くなった。 

時間を描いた未来派

             カルロ・カッラ「無政府主義者ガッリの葬列」

カッラは時間的な流れよりも、運動性の躍動感、ダイナミズムを量感を捉えながら表現しようとした画家である。この作品も題名のとおりアナーキスト(無政府主義者)の葬送をテーマにしているだけあって、画面全体が葬式の沈鬱感よりも、主人公であるガッリの政治運動のデモンストレーションの躍動感を表現しているかのようだ。カッラは1916年に形而上派のジョルジュ・デ・キリコに出会ってからは、キリコの影響で形而上派に傾倒していった。

未来派はイタリア・ファシズム運動と結びつくのだが、それだけ激しい芸術的情動というか、情念のようなものを感じさせる。しかし不思議にファシズムのファナティックな狂気よりも、むしろ明るい生命観のほうを私は感じるのだ。それはもしかしたら南欧地中海のラテン気質をもったイタリア人の民族性みたいなこのなのだろうか。



同じカテゴリー(美術)の記事

Posted by トラネコ at 06:00│Comments(0)美術
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。